第88話 立候補

文字数 3,536文字

「お、俺はもう我慢できない」麗射が立ち上がる。「やっぱり煉州に行く」
 皆は何事かと、血相を変えた彼をいぶかしげに見上げた。
 しかし、清那だけは彼らとは違い冷ややかな視線を送ると首を横に振った。
「それは命の無駄遣いです。例えあなたが行っても戦乱に巻き込まれ、彼女に会う前に命を落とすのが関の山でしょう」
 正論にぐうの音も出ない麗射は、しばらく立ちすくんでいたがそのまま腰から砕けるように椅子に座り込んだ。
「大丈夫です。あなたも見たでしょう、反乱軍の意気軒昂な様を。都の貴族達が思うよりもずっと深く民衆に反乱の意識が浸透しています。心配なのはイラムよりも……」
 清那の顔に影が差した。
「一旦戦が始まれば、脆弱な貴族達の先頭になって戦わざるおえない剴斗(がいと)殿や、牙蘭(がらん)です」
 麗射がゆっくりと公子の顔を見上げる。
「ご心配なく。私は煉州以来、『足手まとい』がいかに愚行か心に刻んでいます。私が学院から動くことはないでしょう」
 皮肉めいた笑いを浮かべて麗射を眺めた清那であったが、なにか思い出したように眉をピクリと上げた。
「それよりも、レドウィンから頼まれ事があったのではないのですか」
「あ、ああ、これか」
 ズボンのポケットから麗射はしわが寄った紙を引っ張り出した。それは麗射を学生代表に推す推薦が書かれた立候補届であった。
「今日が立候補締め切りです、代表戦に出てください。この先、波乱の海に浮かぶであろう真珠にはあなたが必要なんです」
 清那の瞳が発する紫の光が麗射の黒い瞳を射した。
「僕も麗射の立候補に賛成だ。芸術だけじゃ無く、外の情勢を知っている人間が学院生代表になってくれればありがたい」
 酸冷麺の匂いをまき散らしながら美蓮が声を上げる。傍らには空いた器が積み重なっている。
「それに、会計にはうってつけの人材がいるしな」
 美蓮は瑠貝の肩を意味ありげに叩く。瑠貝は両眉を大きく引き上げた。
「何事も経験だ。頼まれればやってもいいが、オアシスの祭りや行事のための金儲けの催しは確実に増えると思っていてくれ。もちろん学院生は無料参加の奉仕活動だぞ」
「おおこわ」美蓮が大げさに肩をすくめて、仲間達から笑い声が上がった。
 実は麗射も立候補についてはずっと気にかかっていた。入学時から世話になってきたレドウィン直々の頼みである、強制はされないものの、麗射に引き継ぎたいという彼の気持ちは痛いほど伝わっていた。でもこの情勢の中、果たして院生をまとめて舵取りをしていけるのだろうか。
 眉間に皺を寄せて目をつぶった彼の脳裏に、ふと雷蛇が浮かんだ。
 あの監獄の中、立ち上がった麗射に皆が徐々に付いてきてくれた。巨大な壁のように彼にたちはだかった雷蛇すら、最後には麗射の力強い味方となった。自分が逃げずに真摯に向かえば、最後には皆が付いてきてくれるのだろうか。
「今後切迫した場面があるかも知れない、馬鹿正直で救いようのないお人好しの俺でいいのか」
 麗射のつぶやきに皆が大きくうなずく。
「ずるい奴に人生を預ける気はしないよ」美蓮がつぶやく。
「ご心配なく、あなたの善意が目に余るときには、私が遠慮無く阻止します」
 清那が腕組みをして宣言した。1年前は稚児と間違えるほど幼い雰囲気を残していたその容姿だが、背も伸びて、頬の輪郭もずいぶん鋭い線になっている。煉州での一件後、急激に大人びてきた清那に麗射は苦笑いした。
「それなら、今から立候補届けを出してくるよ」
「明日の夜は、爆花で麗射の選挙戦の狼煙を上げるか!」
 美蓮が高らかな声で叫ぶ。
「お前、食い過ぎだ。酸っぱ臭いぞ」瑠貝が鼻をつまんで顔をしかめた。
「仕方ないだろう、今から明日まで授業もさぼって爆花小屋の見張りをするんだからな、食っとかなきゃ持たないだろ」
 美蓮はそういうと、仲間達を見回して宣言した。
「明日の夜は特別外出許可を取って、みんな砂漠に集合だぞ。すでに準備は完了している。導火線に火を付ければ、夜空に爆花の饗宴が始まるだろう。もちろん本番はもっと派手な演出、とりどりの色で卒業生の度肝を抜くつもりだが、まずはうまく発射できるかだな」
 今日の美蓮はいつになく饒舌だった。
「そんなに高くは打ち上げないけど、砂漠に来られない奴は2階建ての建物の屋上によじ登ればなんとか見えると思う。是非、三州初めての爆花の打ち上げを目撃してくれ」
 火翔もうれしそうに口を開く。彼はこの一連の作業ですっかり皆と打ち解けていた。
「それじゃ、僕は明日まで特等席で見張りといくか」
 美蓮は遠めがねを片手に席を立った。真珠の塔には先端まで螺旋階段が作ってあり、その途中にしつらえられた物見窓からは砂漠が一望できる。狭いが絶好の見張り場だった。
「ん? どうした麗射」
 美蓮は自分の顔をさっきからずっと見ている麗射に首をかしげた。
「い、いや……」
 麗射はなぜか胸騒ぎがしている、しかし目の前にいるのはいつもと変らぬ美蓮だった。
「じゃ、行くぞ」
 すでに体臭となっている酸冷麺の匂いをまき散らして情熱的な発明家は去って行った。



 その日の夕方、立候補者の受付が締め切られ、選挙が行われる旨の発表があった。昨年度はレドウィン以外の立候補者がおらず選挙戦は行われなかったため、2年ぶりの選挙であった。
 張り出された立候補者名を見た学院生達は、一様に目を丸くした。
 無理もない。麗射の名前の横にはあの因縁の相手、玲斗の名前が書いてあったのである。玲斗は、麗射が立ったと知った瞬間に名乗りを上げたらしかった。
 こうなっては、他に候補はいるものの、実質二人の対決と言っても良い。
「なんだってまたアイツが出るんだよ」
 羽振りが良かった頃の玲斗とは違い、麗射に対する行いや、夏場の強行軍によって砂漠で仲間の命を亡くした一件で評判は地に墜ちている。
「貴族様は平民の麗射の風下に立つのは嫌なんだってさ」
「そんな了見だから、煉州で反乱が起こったんじゃないのか」
 学院生達の評判は芳しくなく、総じて麗射を推す声が多かった。
 一方、玲斗の住まいの周辺は、煉州から付いてきた多数の貴族の子弟が金に物を言わせてほとんどの家や宿を借り上げている。煉州なまりの飛び交うその一角は「煉州街」と呼ばれていたが、貴族の子弟と元々の住人達との軋轢がこの界隈に妙な緊張感をもたらしていた。それはここが双方にとって居心地の良い場所ではないことを表している。
 美術工芸院は、なんといってもオアシスの中心である。レドウィンは肩書きを振りかざす男ではないため、院生達も気安く接していたが、学院生代表はオアシスにおける名誉職であった。きっと玲斗の立候補後には沈み込んでいたこの界隈も息を吹き返したかのように盛り上がることであろう。
「安里の件があるから、麗射の立候補を黙って見ている訳にはいかなかったんだろうな」
「主人が学院生代表なら士気も大いに上がるって訳か」
 玲斗の警備の名目で院生でも無い青年達が学院を闊歩しているが、故郷から離れた彼らにとって玲斗は唯一絶対の主人である。故国で始まった内戦で不安を抱える彼らには、胸を張るに足るだけの心の柱が必要だった。


 その夜。
 学院生達は、地響きと轟音で目を覚ました。
 天から降ってくるような大きな音と悲鳴が上がっている。
 爆発音。まさか。
 麗射は薄い布団を跳ね上げ、部屋を飛び出した。次々と他の部屋からも院生達が顔を出す。
 爆発音が重なるたびに、石造りの天井からぱらぱらと石の欠片が落ちる。
 出口に向かう人々をかき分けて、麗射は真珠の塔に向かって走る。あの小屋を一望するのはそこが一番適している。しかし、物見窓に通じる階段の途中で麗射は足を止めた。
 月明かりに照らされて、踊り場に美蓮の遠めがねが転がっていた。
 はっと息をのんだ麗射が顔を上げると、窓の下で両手を投げ出すようにして美蓮が倒れている。
「大丈夫か、起きろ美蓮。美蓮っ」
 耳に口を近づけて大声に叫ぶ。巻毛の青年はうめくと寝返りをうった。
 これは……。
 麗射の顔色が変った。彼の口から立ち上ったのはごくかすかな、でも忘れもしないあの香り。
 ――銀老草を盛られている。
 自分が無意識のうちに感じとったかすかな違和感はこの香りだったのか。昼食時、麗射は不意に雷蛇の顔が浮かんだことを思い出した。銀老草と言えば雷蛇、という記憶が彼に異変を知らせていたのかも知れない。だが、酸冷麺の強い匂いにかき消されてとうとう無意識の警告に気がつかなかった。なんて鈍感な……。自分を責めて麗射は唇をかみしめる。
 その時、ひときわ大きな轟音で塔は左右に揺れた。
 麗射は遠めがねを目に押し当てる。
 まばゆい黄金色の輝きに包まれ、砂漠の彼方で作業小屋が爆発していた。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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