第27話 黒砂糖飴
文字数 3,728文字
学園の案内を終え夕陽が去って行った後、麗射は支度金をもって街に出た。昨日、特待生には支度金が出ると言われ手渡されたものである。故郷でもあまり手にしたことがないほどの銀貨の重みを懐に感じながら、麗射の心ははずんでいた。
向かうは、そう、あの画材屋である。壁画を作るために全財産をつぎ込んだ画材屋。あの店の画材は発色が良く、壁画の迫力を増してくれた。そして何よりも割安なのがうれしい。
「あれまあ、あんた」
噂を聞いていたのか、画材屋の夫婦は目を丸くして麗射を迎えた。
「美術工芸院の壁に壁画を描いて投獄されたって聞いていたけど、無事だったんだねえ」
「あの壁画のおかげで、特待生扱いで入学できました」
会話しながらも、麗射の目はすでに獲物を狙う鷹のように積み上げられた画材の間を鋭く飛び回っている。
「美術工芸院の一回生はこのセットを使うことが多いよ。この時期は素描だからまずはこの基本のセットでいいわよ。盛夏がすんだらそろそろ卵油画が始まるから少し買い足しが必要だけど」
おかみさんが、店の片隅から筆と顔料が一そろい入った木箱を持ってきた。
「卵油画?」
「今、流行りの画法で卵と油と顔料を混ぜて描いていく方法だよ。発色が良くて劣化しにくいんだ。まあ、その独特な光沢を見れば一目でわかるさ」
「卵を食べないで画材にするの?」
なんと罰当たりな、あまりにも高価な画材に麗射は眉をひそめた。
そういえば、銀の公子の絵も今まで見たことがない独特の光沢をもっていた。あれが卵油画か。
「ま、卵は高いけど、絵師さんたちの手によってそれが何倍もの価値を持つから十分採算がとれるのよ。このオアシスでは美術工芸院の肝いりで鶏の飼育が盛んでね、我々も美術工芸院のおかげでずいぶん安価に鶏肉にありつけるってもんですよ」
麗射は昨日の夕食に卵と鶏肉が多かったのを思い出した。あれは画材の余禄であったわけか。芸術第一、食より美優先。本末転倒のこのオアシスが麗射にはたまらなくおかしく、そしてここにいられる幸せを今更ながらにかみしめた。
「で、ご注文は」
「じゃあ、あそこの棚の真紅の顔料、そしてこの足元の緑色の一群、あのねっとりと濃い金に近い黄色、虹色が浮き出るあのキラキラの白、そして――」
堰を切ったように次々と注文を続ける麗射に、おかみさんはまた始まったとばかりにあきれたまなざしを向けた。
「ちょっと、ちょっと、値段を聞かなくていいのかい。セットはもっと安いよ」
「一つずつ自分の好きなものを選びたいのさ。大丈夫、支度金で懐は温かい」
深窓の令嬢と麗射が呼んでいる白金の粉が入っている奥のカギのかかった棚は要注意だが、店の前の棚に並んでいる顔料はそれほど高くないことを麗射は知っている。
まるでいつもより多いおこづかいをもらった子供が屋台で色とりどりのお菓子を目の当たりにしたように、麗射は理性を置き去りにして画材を購入していった。
もちろん、支度金は画材だけのためではないのだが、彼にとってお金をつぎ込むものは画材しか思い浮かばない。寮費が払えなくて、後日厨房の皿洗いをするなどという未来は彼の頭には一切なかった。
「こんなに持っていけるのかい」
おかみさんは麗射の上半身を覆い隠すくらいの大量の袋包みを見て首を傾げた。前回は手押し車を貸し出したのだが、麗射の逮捕騒ぎで戻ってこなかったため今回は粗末な布に包んで商品が渡された。
肩に担ぎ上げられた包みはゆっさゆっさと揺れ、布のそこかしこでぺりぺりという不吉な音が響いた。
「早いとこお帰り、破れるよ」
「は、はあ……」
重い。麗射の首から肩は巨人に押さえつけられたかのような重圧がのしかかっている。よろめきながら麗射はため息をついた。
愛しい画材たちだからなんとか頑張れるが、肩から回して胸の前で結んだヒモはもし首にずり上がれば、窒息してしまうのではないかと思うほど食い込んでいる。めまいを感じながらも、これこそ自業自得だと自虐の笑いを浮かべて麗射は店を後にした。
やっとのことで学院の入り口にたどり着いた麗射だが、一階の廊下でとうとう布は限界を超えてしまった。
べりべりっという音とともに、廊下になだれ落ちる画材たち。2階とは違って大きなガラス窓が連なった夕陽が一杯に入る廊下を、顔料の入った瓶がきらめきながら転がった。まだ講義が続いているのであろうか、寮につながる廊下には手を貸してくれるような人影はない。
麗射にとっては大枚はたいた命にも代えがたい画材たちだ。慌てて廊下を駆けずり回り筆を拾い、瓶を集める。だが、両手に抱えてもまだ足元には大量の画材がつみあがっていた。寮の部屋までは遠い、少しずつ持っていくにしても、残りの画材をここに置いておくのは不安だった。講義が終わって通りがかった学院生達が、天帝からの授かりものとして持っていってしまう可能性が極めて高いからである。昨日の酒宴で感じたのだが、ここの学院生は芸術が最優先で、そういう面では倫理観に乏しい傾向がある。誰の者ともわからずに廊下に散らばった極上の画材は、野獣の闊歩する平原に食べごろの肉を放置するのと同じだ。院生の波が来れば、一瞬のうちに無くなってしまうだろう。
まずい。どうしよう。
弱り切った彼の目に、小柄な人影が写った。それは燃える様なオレンジ色の髪を肩まで垂らした、整った顔立ちの少年だった。年のころは13、4だろうか、ここの入学年齢が18歳ということを考えれば、寮の手伝いをしている使童か、もしくは色好みの学生の稚児かもしれない。酒の席で聞いたところによると砂漠の真ん中で女学生のいないこの学院では、自分のお気に入りの少年を作り、絵のモデルにしたり、恋人のように連れ立って行動するのが流行っているらしかった。
まあ、それは今の麗射にとってどうでもいいことであった。手を出そうと目論んでいるわけではない。手を貸してほしいだけなのだ。
「おおい、君!」
麗射の呼びかけに、少年はおずおずと近寄ってきた。
「俺は波州の麗射というもんだ。画材を買って来たんだが、見た通り包んでいた布が破れてこのありさまだ。寮の部屋まで持っていくのを手伝ってくれるかい?」
少年は黙ってこくりとうなずいた。
「大きな荷物が運べるものがあるところを知らないか。どこかに大きな絵を運搬するときに使う台車があるんじゃないかと思うんだけど」
少年は返事をする代わりに、踵を返して走り去った。
しばらくして少年は細い手で引き棒を握りしめて大きい台車を引っ張ってきた。
「おお。ごくろう、ごくろう」
麗射は台車に乗せられたかごに画材を積み上げる。少年も黙って一緒に積み上げはじめた。
なんとか乗っているが、台車を引っ張ると積み荷がぐらぐら揺れる。
「寮まで行くんだ、付き合ってくれるか」
少年はそっと白い指を荷にそえた。夕陽に照らされて、愁いを帯びた長いまつげの影で深い紅色の瞳がきらりと光る。最初見たときから思ったのだが、天帝に仕える天女のようなきれいな顔立ちである。華奢な体つき、すらりと通った鼻筋に薄いがくっきりとした紅の唇。天女の衣を与えたらそのまま天に昇っていきそうだ。
麗射は砂漠にすむ大蛇があまりの美しさに天女をさらった言い伝えを思い出した。
いや、俺は口説いているのではない、手伝ってもらっているだけだから。思わず少年に見とれてしまった麗射は胸の中で誰に言うともなく言い訳をした。
大荷物を部屋に運び込むと、少年は台車を引っ張って部屋の外に出した。
「君はこの寮に住んでいるの?」
少年はドアの外で黙って首を振り、そのまま台車を引っ張って立ち去ろうとした。
「おおい、待て、待て。忘れものだ」
呼び止められた少年が振り向いたととたん、満面の笑みを浮かべた麗射の顔が迫ってきた。思わずポカンと口を開けた少年、その口にいきなり何かがねじ込まれた。
切れ長の目がまん丸になる。そして次の瞬間、無表情だった少年がかすかに微笑んだ。
「甘い……」
笑うとまだあどけない子供の表情になる。
「うまいだろ、黒砂糖飴だ。食べるのは初めて?」
無口なのか、少年は言葉を出さずに黙ってうなずいた。
「そりゃそうさ、普段食べるような安い菓子じゃない。駄菓子屋の中でも特に高級な飴を選んで買ってきたんだから」
麗射は胸を張った。
牢獄にいたときから甘いものに餓えていた麗射は、画材屋に行く前にこれを見て衝動買いしてしまったのである。これは画材以外で支度金を使った唯一の買い物であった。
「今日はありがとな、君がいてくれて助かったよ」
麗射の言葉に少年は頬を染めてうつむいた。
「これは駄賃だ、持っていけ」
麗射は黒砂糖飴の入った小袋をそのまま少年の手に押し付けた。少年は手を振って遠慮したが麗射は許さなかった。
帰りがけに、少年は胸に小袋を押しいただいて小さくお辞儀をした。
「お前、名前は何ていうんだ」
「清那 」
そう言い残すと少年は夕陽に照らされながら台車を曳いて去って行った。
向かうは、そう、あの画材屋である。壁画を作るために全財産をつぎ込んだ画材屋。あの店の画材は発色が良く、壁画の迫力を増してくれた。そして何よりも割安なのがうれしい。
「あれまあ、あんた」
噂を聞いていたのか、画材屋の夫婦は目を丸くして麗射を迎えた。
「美術工芸院の壁に壁画を描いて投獄されたって聞いていたけど、無事だったんだねえ」
「あの壁画のおかげで、特待生扱いで入学できました」
会話しながらも、麗射の目はすでに獲物を狙う鷹のように積み上げられた画材の間を鋭く飛び回っている。
「美術工芸院の一回生はこのセットを使うことが多いよ。この時期は素描だからまずはこの基本のセットでいいわよ。盛夏がすんだらそろそろ卵油画が始まるから少し買い足しが必要だけど」
おかみさんが、店の片隅から筆と顔料が一そろい入った木箱を持ってきた。
「卵油画?」
「今、流行りの画法で卵と油と顔料を混ぜて描いていく方法だよ。発色が良くて劣化しにくいんだ。まあ、その独特な光沢を見れば一目でわかるさ」
「卵を食べないで画材にするの?」
なんと罰当たりな、あまりにも高価な画材に麗射は眉をひそめた。
そういえば、銀の公子の絵も今まで見たことがない独特の光沢をもっていた。あれが卵油画か。
「ま、卵は高いけど、絵師さんたちの手によってそれが何倍もの価値を持つから十分採算がとれるのよ。このオアシスでは美術工芸院の肝いりで鶏の飼育が盛んでね、我々も美術工芸院のおかげでずいぶん安価に鶏肉にありつけるってもんですよ」
麗射は昨日の夕食に卵と鶏肉が多かったのを思い出した。あれは画材の余禄であったわけか。芸術第一、食より美優先。本末転倒のこのオアシスが麗射にはたまらなくおかしく、そしてここにいられる幸せを今更ながらにかみしめた。
「で、ご注文は」
「じゃあ、あそこの棚の真紅の顔料、そしてこの足元の緑色の一群、あのねっとりと濃い金に近い黄色、虹色が浮き出るあのキラキラの白、そして――」
堰を切ったように次々と注文を続ける麗射に、おかみさんはまた始まったとばかりにあきれたまなざしを向けた。
「ちょっと、ちょっと、値段を聞かなくていいのかい。セットはもっと安いよ」
「一つずつ自分の好きなものを選びたいのさ。大丈夫、支度金で懐は温かい」
深窓の令嬢と麗射が呼んでいる白金の粉が入っている奥のカギのかかった棚は要注意だが、店の前の棚に並んでいる顔料はそれほど高くないことを麗射は知っている。
まるでいつもより多いおこづかいをもらった子供が屋台で色とりどりのお菓子を目の当たりにしたように、麗射は理性を置き去りにして画材を購入していった。
もちろん、支度金は画材だけのためではないのだが、彼にとってお金をつぎ込むものは画材しか思い浮かばない。寮費が払えなくて、後日厨房の皿洗いをするなどという未来は彼の頭には一切なかった。
「こんなに持っていけるのかい」
おかみさんは麗射の上半身を覆い隠すくらいの大量の袋包みを見て首を傾げた。前回は手押し車を貸し出したのだが、麗射の逮捕騒ぎで戻ってこなかったため今回は粗末な布に包んで商品が渡された。
肩に担ぎ上げられた包みはゆっさゆっさと揺れ、布のそこかしこでぺりぺりという不吉な音が響いた。
「早いとこお帰り、破れるよ」
「は、はあ……」
重い。麗射の首から肩は巨人に押さえつけられたかのような重圧がのしかかっている。よろめきながら麗射はため息をついた。
愛しい画材たちだからなんとか頑張れるが、肩から回して胸の前で結んだヒモはもし首にずり上がれば、窒息してしまうのではないかと思うほど食い込んでいる。めまいを感じながらも、これこそ自業自得だと自虐の笑いを浮かべて麗射は店を後にした。
やっとのことで学院の入り口にたどり着いた麗射だが、一階の廊下でとうとう布は限界を超えてしまった。
べりべりっという音とともに、廊下になだれ落ちる画材たち。2階とは違って大きなガラス窓が連なった夕陽が一杯に入る廊下を、顔料の入った瓶がきらめきながら転がった。まだ講義が続いているのであろうか、寮につながる廊下には手を貸してくれるような人影はない。
麗射にとっては大枚はたいた命にも代えがたい画材たちだ。慌てて廊下を駆けずり回り筆を拾い、瓶を集める。だが、両手に抱えてもまだ足元には大量の画材がつみあがっていた。寮の部屋までは遠い、少しずつ持っていくにしても、残りの画材をここに置いておくのは不安だった。講義が終わって通りがかった学院生達が、天帝からの授かりものとして持っていってしまう可能性が極めて高いからである。昨日の酒宴で感じたのだが、ここの学院生は芸術が最優先で、そういう面では倫理観に乏しい傾向がある。誰の者ともわからずに廊下に散らばった極上の画材は、野獣の闊歩する平原に食べごろの肉を放置するのと同じだ。院生の波が来れば、一瞬のうちに無くなってしまうだろう。
まずい。どうしよう。
弱り切った彼の目に、小柄な人影が写った。それは燃える様なオレンジ色の髪を肩まで垂らした、整った顔立ちの少年だった。年のころは13、4だろうか、ここの入学年齢が18歳ということを考えれば、寮の手伝いをしている使童か、もしくは色好みの学生の稚児かもしれない。酒の席で聞いたところによると砂漠の真ん中で女学生のいないこの学院では、自分のお気に入りの少年を作り、絵のモデルにしたり、恋人のように連れ立って行動するのが流行っているらしかった。
まあ、それは今の麗射にとってどうでもいいことであった。手を出そうと目論んでいるわけではない。手を貸してほしいだけなのだ。
「おおい、君!」
麗射の呼びかけに、少年はおずおずと近寄ってきた。
「俺は波州の麗射というもんだ。画材を買って来たんだが、見た通り包んでいた布が破れてこのありさまだ。寮の部屋まで持っていくのを手伝ってくれるかい?」
少年は黙ってこくりとうなずいた。
「大きな荷物が運べるものがあるところを知らないか。どこかに大きな絵を運搬するときに使う台車があるんじゃないかと思うんだけど」
少年は返事をする代わりに、踵を返して走り去った。
しばらくして少年は細い手で引き棒を握りしめて大きい台車を引っ張ってきた。
「おお。ごくろう、ごくろう」
麗射は台車に乗せられたかごに画材を積み上げる。少年も黙って一緒に積み上げはじめた。
なんとか乗っているが、台車を引っ張ると積み荷がぐらぐら揺れる。
「寮まで行くんだ、付き合ってくれるか」
少年はそっと白い指を荷にそえた。夕陽に照らされて、愁いを帯びた長いまつげの影で深い紅色の瞳がきらりと光る。最初見たときから思ったのだが、天帝に仕える天女のようなきれいな顔立ちである。華奢な体つき、すらりと通った鼻筋に薄いがくっきりとした紅の唇。天女の衣を与えたらそのまま天に昇っていきそうだ。
麗射は砂漠にすむ大蛇があまりの美しさに天女をさらった言い伝えを思い出した。
いや、俺は口説いているのではない、手伝ってもらっているだけだから。思わず少年に見とれてしまった麗射は胸の中で誰に言うともなく言い訳をした。
大荷物を部屋に運び込むと、少年は台車を引っ張って部屋の外に出した。
「君はこの寮に住んでいるの?」
少年はドアの外で黙って首を振り、そのまま台車を引っ張って立ち去ろうとした。
「おおい、待て、待て。忘れものだ」
呼び止められた少年が振り向いたととたん、満面の笑みを浮かべた麗射の顔が迫ってきた。思わずポカンと口を開けた少年、その口にいきなり何かがねじ込まれた。
切れ長の目がまん丸になる。そして次の瞬間、無表情だった少年がかすかに微笑んだ。
「甘い……」
笑うとまだあどけない子供の表情になる。
「うまいだろ、黒砂糖飴だ。食べるのは初めて?」
無口なのか、少年は言葉を出さずに黙ってうなずいた。
「そりゃそうさ、普段食べるような安い菓子じゃない。駄菓子屋の中でも特に高級な飴を選んで買ってきたんだから」
麗射は胸を張った。
牢獄にいたときから甘いものに餓えていた麗射は、画材屋に行く前にこれを見て衝動買いしてしまったのである。これは画材以外で支度金を使った唯一の買い物であった。
「今日はありがとな、君がいてくれて助かったよ」
麗射の言葉に少年は頬を染めてうつむいた。
「これは駄賃だ、持っていけ」
麗射は黒砂糖飴の入った小袋をそのまま少年の手に押し付けた。少年は手を振って遠慮したが麗射は許さなかった。
帰りがけに、少年は胸に小袋を押しいただいて小さくお辞儀をした。
「お前、名前は何ていうんだ」
「
そう言い残すと少年は夕陽に照らされながら台車を曳いて去って行った。