第115話 牢獄門
文字数 4,427文字
「奇併は私の事を『純粋すぎて、敵の手が読めない』と評しましたが、私は『君は万事に無頓着すぎて、敵の心情が読めない』と返したい気分です」
清那は牢獄から上がる煙を見て、肩をすくめる。
奇併の戦略は数字的には理解できる。勝てる見込みの少ない牢獄を死守していたずらに味方を失うよりも、牢獄を囮にして敵の数を大きく削る戦略は今後確かに効いてくるかもしれない。しかし、簡単に牢獄を手放すことは、鶏を失ったオアシスが過酷な食糧危機に陥ることを意味していた。そして敵を屠 れば屠るほどオアシス軍に向けられる憎悪は燃え上がる。その憎悪は今この時点で牢獄域にいる奇併達にそっくりそのまま跳ね返ってくるのだ。
牢獄門に利がなくなったという理由だけで、敵が彼らを見逃すはずは無かった。確かに奇併が考えるように、牢獄門の辺りは周囲より壁が高く外から簡単に攻城塔では崩せない。内側はまだオアシス軍の勢力範囲だ。攻め方は難しいだろう。しかし少人数とはいえ、恨み重なる敵に一矢報いるのは、軍の士気を復活させるのに役立つ。
牙蘭なら、彼らが門を通過する時を狙って何らかの手を使って門を占拠し、オアシス内に侵入する方法を考えつくかもしれない。
奇併はそれに対して何か手を打っているのだろうか。
いや、そこまでの時間は無かった。
「賢い奴だが、思いつきだけで先走りすぎる」
そうつぶやくと、清那はまるで散歩に行くような軽装で弓を掴む。
「そんな格好で行ってどうするんだ。どこかに甲冑や厚い胴着は無かったのか。すぐ用意を」
うろたえた様子で、戸のところまで麗射が後をついて来る。
「結構です。牙蘭の弓なら何を着ても同じ事です」
「わざわざ君が行かなくても、他の者に……」
「これは私の仕事です、麗射」
紫の瞳が静かに光る。
「ご心配なく。あなたのお供をして冥府に行くまで、私は死ねませんから」
牢獄の形はまるで頭にできたたんこぶの様な形である。牢獄とオアシスのつなぎ目のくびれは長さにして55間(100メートル)、もちろんその境界周辺は隙間無く周囲より高くて厚い壁でつながれているが、その壁の中に作られた両開きの門の大きさは開口部が約3間(約6メートル)ほどの狭さであった。
その55間のくびれの端から端に、壁外から縄を結ばれた幾筋もの長い矢が放たれて行く。おそらく、くびれの向こうでは地面に刺さった矢に付いた縄を引っ張っているのであろう。壁と壁に無数の縄が渡されていた。その縄はよく見ると向こうの方に動いており、手前の壁から出てくる縄には沢山の穀物袋が結わえられていた。袋は何かがぎっしりと詰まっているが、中身が軽いのか、彼らの頭上高く、縄をたるませること無く動いていく。縄の位置が高いため、奇併達は為す術無く見送るしかない。
そして、沢山の縄に付けられたいくつもの袋が門の前に来たところで、縄が一斉に止る。そこでいきなり縄がゆるめられてストンと落ちてきた。
「しまった、俺たちを待っていたな」
「奇併様、あの袋は?」縁筆が叫ぶ。
「わからんっ。ただ一つわかるのは、近づかない方が良いって事だけだ。みんな離れろっ」
奇併達の叫びで、牢獄門を守っていたオアシス軍もあわてて門を閉じて離れる。
彼らが離れた瞬間、何本もの火矢が飛び込み穀物袋に火が付いた。その中には油と乾燥した駱駝の糞が詰められており、牢獄門の前に瞬く間に激しい炎が立ち上った。その上からさらに縄が渡され、どんどん俵が積み重なっていく。次の俵には油か火薬に近いものが入れられているのか、門の手前はいきなり爆発に近い炎に包まれた。
「門に近づけませんっ」縁筆が絶叫する。
ふと奇併が後ろを振り向くと、彼らが火で足止めされた間に大挙した敵軍が鬨 の声とともにこちらにぐんぐん近づいている。黒くすすけた顔に血飛沫を纏 った先頭の兵はすでに剣を振り上げ、彼らを刻まんと目を血走らせていた。
この火に飛び込むのは自殺行為である。しかし、ここに居てもすぐ肉塊になる運命であることは明らかだった。
「しまった。こんな手があるなんて」
絶句する奇併。こちらの勢力範囲内である内からはもちろん、外からもこの牢獄門周囲を攻めることは無理だと思っていた……。
後ろを追ってくるはずの勇儀達の姿は、まだ見えない。
「奇併様、早く開けてもらって門に入らないと、追いつかれます」
しかし、彼らの前には厚い炎の壁が立ち塞がっていた。
「俺が奴なら……追いついた時点で砂袋を投下して火を消す――そして俺達が門に入ると同時に共に門に飛び込むつもりだ。しかし、敵を連れて門の中に入るわけにはいかない」
「入らなければ?」
「俺たちは人質だ。門を開けさせるための。だが、門が開いても開かなくても結局は殺されるだろう。あれだけやらかしたんだ、おそらく簡単には殺してもらえまい」
「そ、それは、もしかして、楽に死ねれば幸運ってことですか」縁筆 がつぶやく。
「ああ、縁筆。今までこき使って悪かったな」
前には炎、後ろには敵。挟み撃ちの状態にさすがの奇併も観念して立ちすくむのみである。
「たかだか半日だけです、お気になさら――」
だが、縁筆のふるえ声は途中で爆発音にかき消された。
同時に地響きで門が揺れる。立っておられずに奇併達も、敵軍も、跳ね飛ばされて地面にたたきつけられた。
皆がゆっくり身体を起こした、その時。
門が勢いよく開き、ざざざざっという音とともに奇併の手に冷たいものがぶつかる。
え? 顔を上げた奇併の目の前で、燃える袋が流され炎がみるみるうちに鎮火していった。
オアシスを潤す、直径22間(40メートル)の大きな泉『銀嶺の雫』は地下から吹き出る水の圧が高いのか、少年の背ほどもある周りの囲いギリギリまで水を湛えていた。門が火攻めにあうことを予想して、誰かが泉の囲いの一部を爆破して、土地が低い牢獄門側に、溢れた泉の水を誘 ったのだろう。
その誰か――、とっさにそんな事を思いつくのはひとりしかいない。暇さえあればオアシスの地形図を見ている、澄ました軍師の顔が奇併の頭をよぎる。
しかし、安堵している暇は無かった。焼けていない縄に今度はおもりを付けて、煉州軍の兵達が壁の北側から降りて来たのである。
「全員走れっ」
奇併が叫ぶ。人々は水を蹴散らし我先に門に向かって駆けだした。門番も慌てて門を開ける。全員が門の内側に入った――と思いきや腰が抜けたのか大きな男がひとり牢獄側でへたりこんでいる。
「縁筆、手を貸せ」
奇併は縁筆と再び牢獄側に走り込むと、二人がかりで引きずるように男を持ち上げる。そのまま必死で走る彼らを降りて来た敵兵が追う。
敵兵を入れまいと、牢獄門が再び閉じられる。しかし鉄製の厚い門は閉じるのに時間を要した。
彼らが門に到達する直前、憤怒の形相をした一人の兵が追いついて剣を振り上げた。
「仲間の仇だっ」
しかし。
振り下ろされようとした剣が、何かに跳ね飛ばされ空中に舞う。
閉まろうとする門の正面にいたのは、銀の髪をなびかせて弓を構えた青年。
紫の瞳が冷たく輝き、弓を支える左手は獲物を狙う鷲のように標的を追う。奇併たちに襲いかかろうとした兵士達は、次々に先端が青く光る矢を受けて動きを封じられた。
やっと門の内側、清那の足元に転がるように滑り込む三人。
しかし、清那の手は矢をつがえたままであった。正面を見る彼の目には、敵軍の先頭に立つ茶色の髪を束ねたたくましい青年が映っている。
彼は清那に向かって小型の弓を向けていた。
「牙蘭。6丈(18メートル)余りもある壁を二つやり過ごし、55間(100メートル)という距離を正確に矢で飛び越えることができるのは、あなたしかいないのはわかっていました」
清那がつぶやく。
彼が来た理由はわかっている。オアシス軍に勝ち目の無いことを知っている彼は、清那を殺しに来てくれたのだ。苦痛無く一瞬で天界に行けるように。
そして清那もまた、彼に用があった。
ここで、主従としての絆を断ち切る、という。
閉じかける門。二人の視線が交差する。夕陽色を帯びた茶色の瞳は透き通って、別れたその日となんら変わってはいない。
彼らの間に、会話はいらなかった。
張りのある肩の筋肉が盛り上がり、うなりを上げて矢が放たれる。
そして、ほぼ同時に清那の右手も矢から離れる。
「早く閉めろおおおおっ」
奇併の絶叫。
しかし、牢獄門が閉じられる寸前、合間を矢がすり抜けた。
清那の身体が吹き飛び、左手から弓が落ちる。
胸の真ん中に当てられた右手の横から、服が赤く染まる。
矢が突き立ったまま、彼は背中から地上に倒れた。
一方勇儀達は一旦集合していた獄舎の中から、遠目で炎上する牢獄門と敵側の軍勢を見て牢獄門に向かうことを止めた。
この人数があの業火と敵軍を突っ切れるとはとても思えなかったのである。
「ちょっと遅かったか。でも、ここは一応牢獄だから、堅牢なんだ」
敵の中に取り残されて真っ青になっている学院生や、事務方に勇儀が声をかける。
勝手知ったる囚人達は慣れ親しんだ獄舎に、鍵という鍵をかけて回った。もちろん今回は彼らがいた獄屋では無くて、獄吏たちのいた立派な部屋を占拠する。わずかだが、干からびかけたナツメヤシなどの食料も残っており、銀嶺の雫から引いた水も炊事場で飲むことができた。
「ちぇっ、牢獄門まで目と鼻の先なのにな」囚人の一人が吐き捨てる。
「まあ、そういうな。里帰りみたいなもんだ」
早速干からびたナツメヤシの実を口に入れて雷蛇が大きく背伸びをした。
「それにしても敵さん、攻めてこないな」
「なんだか、外でガサガサって音がしないか」誰かが、壁に耳を付けて首をひねる。
「ここは石造りで堅牢だが……」勇儀が腕組みをする。「火攻めには弱い」
し……ん。
全員が黙り込む。
「止めてくれ、俺は火あぶりにされるくらいなら雷蛇の兄貴に一発で殺してもらいてえよ」
「兄貴、俺も」皆口々に泣き言を言い始める。
「わかった、お安いご用だ」雷蛇が重々しくうなずく。
「でも俺の半月刀、相当血を吸ってなまくらになってるから痛いけどいいか?」
し……ん。
「おい、ちょっと待て。最後に俺一人残ったらどうすんだ? 自分で死ぬのはやだぜ」
雷蛇が皆を見回す。しかし子分どもは視線を逸らすのみ。
「止めた、止めた、みんな冥界に行ってるのに、俺だけ一人さみしく蒸し焼きなんてそんなの割にあわねえ」
「何を馬鹿なことで盛り上がってるんだ」
ひょっこりと走耳が顔を出す。
「お前、生きていたのか?」雷蛇が目を丸くする。「姿が無いからてっきり――」
「馬鹿野郎、ずっとお前の横を走っていたじゃないか」
「お前、生きてても死んでるような存在感だからなあ」
雷蛇が肩をすくめる。
その時。
「なんか、外でパチパチ言ってるぜ」誰かが叫ぶ。
石造りの牢獄の隙間から、煙が漂ってきた。
「やっぱり、火攻めだあああ」
獄舎内に悲鳴が上がった。
清那は牢獄から上がる煙を見て、肩をすくめる。
奇併の戦略は数字的には理解できる。勝てる見込みの少ない牢獄を死守していたずらに味方を失うよりも、牢獄を囮にして敵の数を大きく削る戦略は今後確かに効いてくるかもしれない。しかし、簡単に牢獄を手放すことは、鶏を失ったオアシスが過酷な食糧危機に陥ることを意味していた。そして敵を
牢獄門に利がなくなったという理由だけで、敵が彼らを見逃すはずは無かった。確かに奇併が考えるように、牢獄門の辺りは周囲より壁が高く外から簡単に攻城塔では崩せない。内側はまだオアシス軍の勢力範囲だ。攻め方は難しいだろう。しかし少人数とはいえ、恨み重なる敵に一矢報いるのは、軍の士気を復活させるのに役立つ。
牙蘭なら、彼らが門を通過する時を狙って何らかの手を使って門を占拠し、オアシス内に侵入する方法を考えつくかもしれない。
奇併はそれに対して何か手を打っているのだろうか。
いや、そこまでの時間は無かった。
「賢い奴だが、思いつきだけで先走りすぎる」
そうつぶやくと、清那はまるで散歩に行くような軽装で弓を掴む。
「そんな格好で行ってどうするんだ。どこかに甲冑や厚い胴着は無かったのか。すぐ用意を」
うろたえた様子で、戸のところまで麗射が後をついて来る。
「結構です。牙蘭の弓なら何を着ても同じ事です」
「わざわざ君が行かなくても、他の者に……」
「これは私の仕事です、麗射」
紫の瞳が静かに光る。
「ご心配なく。あなたのお供をして冥府に行くまで、私は死ねませんから」
牢獄の形はまるで頭にできたたんこぶの様な形である。牢獄とオアシスのつなぎ目のくびれは長さにして55間(100メートル)、もちろんその境界周辺は隙間無く周囲より高くて厚い壁でつながれているが、その壁の中に作られた両開きの門の大きさは開口部が約3間(約6メートル)ほどの狭さであった。
その55間のくびれの端から端に、壁外から縄を結ばれた幾筋もの長い矢が放たれて行く。おそらく、くびれの向こうでは地面に刺さった矢に付いた縄を引っ張っているのであろう。壁と壁に無数の縄が渡されていた。その縄はよく見ると向こうの方に動いており、手前の壁から出てくる縄には沢山の穀物袋が結わえられていた。袋は何かがぎっしりと詰まっているが、中身が軽いのか、彼らの頭上高く、縄をたるませること無く動いていく。縄の位置が高いため、奇併達は為す術無く見送るしかない。
そして、沢山の縄に付けられたいくつもの袋が門の前に来たところで、縄が一斉に止る。そこでいきなり縄がゆるめられてストンと落ちてきた。
「しまった、俺たちを待っていたな」
「奇併様、あの袋は?」縁筆が叫ぶ。
「わからんっ。ただ一つわかるのは、近づかない方が良いって事だけだ。みんな離れろっ」
奇併達の叫びで、牢獄門を守っていたオアシス軍もあわてて門を閉じて離れる。
彼らが離れた瞬間、何本もの火矢が飛び込み穀物袋に火が付いた。その中には油と乾燥した駱駝の糞が詰められており、牢獄門の前に瞬く間に激しい炎が立ち上った。その上からさらに縄が渡され、どんどん俵が積み重なっていく。次の俵には油か火薬に近いものが入れられているのか、門の手前はいきなり爆発に近い炎に包まれた。
「門に近づけませんっ」縁筆が絶叫する。
ふと奇併が後ろを振り向くと、彼らが火で足止めされた間に大挙した敵軍が
この火に飛び込むのは自殺行為である。しかし、ここに居てもすぐ肉塊になる運命であることは明らかだった。
「しまった。こんな手があるなんて」
絶句する奇併。こちらの勢力範囲内である内からはもちろん、外からもこの牢獄門周囲を攻めることは無理だと思っていた……。
後ろを追ってくるはずの勇儀達の姿は、まだ見えない。
「奇併様、早く開けてもらって門に入らないと、追いつかれます」
しかし、彼らの前には厚い炎の壁が立ち塞がっていた。
「俺が奴なら……追いついた時点で砂袋を投下して火を消す――そして俺達が門に入ると同時に共に門に飛び込むつもりだ。しかし、敵を連れて門の中に入るわけにはいかない」
「入らなければ?」
「俺たちは人質だ。門を開けさせるための。だが、門が開いても開かなくても結局は殺されるだろう。あれだけやらかしたんだ、おそらく簡単には殺してもらえまい」
「そ、それは、もしかして、楽に死ねれば幸運ってことですか」
「ああ、縁筆。今までこき使って悪かったな」
前には炎、後ろには敵。挟み撃ちの状態にさすがの奇併も観念して立ちすくむのみである。
「たかだか半日だけです、お気になさら――」
だが、縁筆のふるえ声は途中で爆発音にかき消された。
同時に地響きで門が揺れる。立っておられずに奇併達も、敵軍も、跳ね飛ばされて地面にたたきつけられた。
皆がゆっくり身体を起こした、その時。
門が勢いよく開き、ざざざざっという音とともに奇併の手に冷たいものがぶつかる。
え? 顔を上げた奇併の目の前で、燃える袋が流され炎がみるみるうちに鎮火していった。
オアシスを潤す、直径22間(40メートル)の大きな泉『銀嶺の雫』は地下から吹き出る水の圧が高いのか、少年の背ほどもある周りの囲いギリギリまで水を湛えていた。門が火攻めにあうことを予想して、誰かが泉の囲いの一部を爆破して、土地が低い牢獄門側に、溢れた泉の水を
その誰か――、とっさにそんな事を思いつくのはひとりしかいない。暇さえあればオアシスの地形図を見ている、澄ました軍師の顔が奇併の頭をよぎる。
しかし、安堵している暇は無かった。焼けていない縄に今度はおもりを付けて、煉州軍の兵達が壁の北側から降りて来たのである。
「全員走れっ」
奇併が叫ぶ。人々は水を蹴散らし我先に門に向かって駆けだした。門番も慌てて門を開ける。全員が門の内側に入った――と思いきや腰が抜けたのか大きな男がひとり牢獄側でへたりこんでいる。
「縁筆、手を貸せ」
奇併は縁筆と再び牢獄側に走り込むと、二人がかりで引きずるように男を持ち上げる。そのまま必死で走る彼らを降りて来た敵兵が追う。
敵兵を入れまいと、牢獄門が再び閉じられる。しかし鉄製の厚い門は閉じるのに時間を要した。
彼らが門に到達する直前、憤怒の形相をした一人の兵が追いついて剣を振り上げた。
「仲間の仇だっ」
しかし。
振り下ろされようとした剣が、何かに跳ね飛ばされ空中に舞う。
閉まろうとする門の正面にいたのは、銀の髪をなびかせて弓を構えた青年。
紫の瞳が冷たく輝き、弓を支える左手は獲物を狙う鷲のように標的を追う。奇併たちに襲いかかろうとした兵士達は、次々に先端が青く光る矢を受けて動きを封じられた。
やっと門の内側、清那の足元に転がるように滑り込む三人。
しかし、清那の手は矢をつがえたままであった。正面を見る彼の目には、敵軍の先頭に立つ茶色の髪を束ねたたくましい青年が映っている。
彼は清那に向かって小型の弓を向けていた。
「牙蘭。6丈(18メートル)余りもある壁を二つやり過ごし、55間(100メートル)という距離を正確に矢で飛び越えることができるのは、あなたしかいないのはわかっていました」
清那がつぶやく。
彼が来た理由はわかっている。オアシス軍に勝ち目の無いことを知っている彼は、清那を殺しに来てくれたのだ。苦痛無く一瞬で天界に行けるように。
そして清那もまた、彼に用があった。
ここで、主従としての絆を断ち切る、という。
閉じかける門。二人の視線が交差する。夕陽色を帯びた茶色の瞳は透き通って、別れたその日となんら変わってはいない。
彼らの間に、会話はいらなかった。
張りのある肩の筋肉が盛り上がり、うなりを上げて矢が放たれる。
そして、ほぼ同時に清那の右手も矢から離れる。
「早く閉めろおおおおっ」
奇併の絶叫。
しかし、牢獄門が閉じられる寸前、合間を矢がすり抜けた。
清那の身体が吹き飛び、左手から弓が落ちる。
胸の真ん中に当てられた右手の横から、服が赤く染まる。
矢が突き立ったまま、彼は背中から地上に倒れた。
一方勇儀達は一旦集合していた獄舎の中から、遠目で炎上する牢獄門と敵側の軍勢を見て牢獄門に向かうことを止めた。
この人数があの業火と敵軍を突っ切れるとはとても思えなかったのである。
「ちょっと遅かったか。でも、ここは一応牢獄だから、堅牢なんだ」
敵の中に取り残されて真っ青になっている学院生や、事務方に勇儀が声をかける。
勝手知ったる囚人達は慣れ親しんだ獄舎に、鍵という鍵をかけて回った。もちろん今回は彼らがいた獄屋では無くて、獄吏たちのいた立派な部屋を占拠する。わずかだが、干からびかけたナツメヤシなどの食料も残っており、銀嶺の雫から引いた水も炊事場で飲むことができた。
「ちぇっ、牢獄門まで目と鼻の先なのにな」囚人の一人が吐き捨てる。
「まあ、そういうな。里帰りみたいなもんだ」
早速干からびたナツメヤシの実を口に入れて雷蛇が大きく背伸びをした。
「それにしても敵さん、攻めてこないな」
「なんだか、外でガサガサって音がしないか」誰かが、壁に耳を付けて首をひねる。
「ここは石造りで堅牢だが……」勇儀が腕組みをする。「火攻めには弱い」
し……ん。
全員が黙り込む。
「止めてくれ、俺は火あぶりにされるくらいなら雷蛇の兄貴に一発で殺してもらいてえよ」
「兄貴、俺も」皆口々に泣き言を言い始める。
「わかった、お安いご用だ」雷蛇が重々しくうなずく。
「でも俺の半月刀、相当血を吸ってなまくらになってるから痛いけどいいか?」
し……ん。
「おい、ちょっと待て。最後に俺一人残ったらどうすんだ? 自分で死ぬのはやだぜ」
雷蛇が皆を見回す。しかし子分どもは視線を逸らすのみ。
「止めた、止めた、みんな冥界に行ってるのに、俺だけ一人さみしく蒸し焼きなんてそんなの割にあわねえ」
「何を馬鹿なことで盛り上がってるんだ」
ひょっこりと走耳が顔を出す。
「お前、生きていたのか?」雷蛇が目を丸くする。「姿が無いからてっきり――」
「馬鹿野郎、ずっとお前の横を走っていたじゃないか」
「お前、生きてても死んでるような存在感だからなあ」
雷蛇が肩をすくめる。
その時。
「なんか、外でパチパチ言ってるぜ」誰かが叫ぶ。
石造りの牢獄の隙間から、煙が漂ってきた。
「やっぱり、火攻めだあああ」
獄舎内に悲鳴が上がった。