第18話 偽装
文字数 3,142文字
「安置所だ、死体安置所なら建物の外にあるはずだ」
作業から帰るときいつも見る、粗末な小屋。そこは死体安置所で、牢獄の中で死んだ人間の処理が決まるまでいったん置いておく場所だった。死体の近くにいると腐れの毒がまき散らされると信じられているため、絶命した者を安置する場所は生活空間から離されるのが常で、入れる時と出す時以外は基本的に獄吏達も近寄らない。
いきなりの麗射の言葉に皆は何を言い出すのかと首をかしげる。周りの空気には構わず麗射は意気込んで続けた。
「勇儀、用意してもらいたいものがある」
麗射の目がぎらぎらと輝き始めた。それは何かを思いついたときの彼の常である。
「膠 油、ロウ、そして顔料と筆。木の粉、腐った肉――」
憑かれたように麗射は材料を羅列し続ける。
「そ、それで何をしようってんだ」
たまらずに誰かが声を上げた。
「偽装だ。氷炎を死体に偽装して、死体安置所に移すんだ」
「なるほど、あそこの警備は手薄で大門にも近い。病み上がりでも死体安置所から逃げるのはそれほど難しいことではなかろうて」
幻風が大きくうなずく。
「しかし、お前病気の者を見たことがあるのか」
「ああ、任せてくれ」
麗射が波州で絵の修行をしていたころ、師匠の工房にはいろいろな芸術家が出入りしていた。
その中には、芝居を行う一団もあった。
彼らは演じる前に師匠の工房の画材を借りて、顔や身体に化粧を施した。いや、それはもう化粧と言える域を超えている。師匠が笑いながら画材の余りをただで提供するのをいいことに、体形が変わるほど顔料をしこたま塗り上げて固めたり、傷一つない皮膚をまるで今ばっくりと刀で斬られたかのように細工したり。細工によって刻々と姿を変えていくその様は、ともすれば彼らが演じる芝居よりも面白く、麗射も自分の創作をそっちのけで見事な作業を最初から最後まであかずに眺めていたものだ。そしてついには眺めるだけでは飽き足らなくなって、手伝いと称して手を出していき、最後には活劇の芝居がかかるとそのほとんどの擬態を麗射が一手に引き受けるまでになっていた。道具さえあれば、なんとかする自信が彼にはあった。
勇儀たちは速やかに材料を集めてこっそりと獄の中に届けた。この計画は勇儀と一部の煉州の獄吏しか関わっていない。関係のない獄吏に見つからないように、麗射は勇儀たちが監視につく日の深夜、ろうそくの炎の元で作業に取り掛かった。
まずは黄色い顔料を薄く体に塗りつける。
「これは何だ」
手伝いをする囚人が訪ねる。
「病気によっては皮膚が黄色くなることがある。薬師たちは黄疸 と呼んでいた。これから毎日塗り重ねて黄色みを強くしていく」
氷炎の全身に黄色の顔料を塗り終えた後、麗射は同じ色を付けたロウを溶かし、それをぬるま湯の中にそっと落とした。薄く広がったロウの滑らかな表面に麗射は指で水を散らす。水が弾いた部分が凹凸となり、いかにも腐って崩れかけた皮膚のような膜ができた。湯煎して溶かした膠油で皮膚に腐肉を貼りつけ、その上からまたロウで作った皮膚を張り付けていく。そして膠油と色を付けた木の粉を混ぜたものを塗り付け、ロウと皮膚との境界を消していく。
最後の仕上げとばかりに麗射はロウの表面をところどころ引き裂いて奥の腐肉を見せ、薄緑の顔料を垂らして傷からあふれる膿を表現した。
囚人たちは偽物とわかっていながらも、ばっくりと割れた傷のおぞましさに顔をそむける。
「うえっ、見ているだけで気持ち悪いぜ」
ジュクジュクとした傷口から腐肉からの悪臭が立ち上る。
「えらく臭えな、これ」
余りの腐臭に、牢内には嘔吐をする囚人が続出した。
「これからどうするつもりだ、兄者」
雷蛇が口元に笑みを浮かべて尋ねる。この男は自分の脱獄計画ではないにもかかわらず権力に反抗することがうれしくてたまらないらしい。
「俺が毎日皮膚に黄色の顔料を塗り重ねて病気が徐々に悪化していくように見せかける。そしてついに死んだという事にすれば病魔の腐れが獄に広がることを恐れて死体安置所に置かれるだろう」
会話を遮って幻風が口を開いた。
「この出来ならうまく騙せそうだな。だが、ここを脱獄するのも氷炎だけでは無理だ。それに限られた広さしかないオアシスの中ではすぐ捕まってしまうだろう。手練れの隊商の一団にでも忍んで脱出させてもらえればいいのだが」
「今オアシスに滞在している隊商は、数隊だな」勇儀が腕組みをする。
「腕利きというと、美術品を専門にするオブライエ、食物を運ぶ三羽風 、交易全般を扱う連巡 、ジェズム――」
「ジェズムだって」
麗射が歓喜の叫びをあげた。
「ジェズム、彼に頼もう。彼ならやってくれるはずだ」
「お前さん、あの曲者を知っているのか」
幻風が目を丸くする。
「あいつと交易すると尻の毛まで抜かれると評判の、質 の悪い商人だぞ」
「俺の絵を気に入ってくれた。絵を差し上げたお礼に困ったことがあれば相談に乗る、と言ってくれた」
麗射はオアシスに入る前、彼の絵に涙してくれた薄緑色の細い目を思い出した。あの時、確かに彼は何か困ったことがあれば力になると言ってくれていた。
ジェズムとのいきさつを説明すると幻風がつぶやいた。
「さすがのジェズムもたかだか絵一枚で脱獄の手引きをさせられるとは思わなかったろうな。なんせ一歩間違えればこのオアシスに出入り禁止の危険な仕事だ」
そこまで言って幻風がくっくっと低く笑った。
「あの強欲爺 に割の合わない仕事をさせるとは。お前さん、なかなか商売上手だな」
笑いのツボに入ったのか、幻風は目に涙を浮かべている。
「だが、こんな危ない橋を渡ってくれるだろうか」走耳が首をかしげる
「ああ、商人はあこぎな取引はするが、いったん交わした約束は絶対に守る。約束を破るとそのうわさが広まって取引できなくなる。大枚かけて砂漠を渡って、仕事にならないんじゃ大損だからな」
それにしても。と幻風はさぐるように麗射の瞳を覗き込んだ。
「お前さんのような青二才にそんな甘いことを言うとは、あやつが耄碌 したのか、それとも海千山千の商人の勘で元を取れる何かを見出したのか――」
幻風が麗射をじっと見て、首を傾げた。
「よくわからんな。わしには人を見る才がないようじゃ」
「占い師なのに人を見る目がないってのは致命傷だぜ」
走耳が肩をすくめる。
「あの……、私はその方との面識が無いのだが」
見た目は重病人の氷炎が起き上がって口を挟んだ。
「ジェズム達は市場近くに宿営している。特徴のある緑の目の模様が施してあるテントだからすぐわかる」勇儀がにっこりと笑った。「獄を出たら私がお連れしましょう」
「いや、それは止した方がいい」間髪入れずに幻風が遮った。
「勇儀、あなた達煉州出身の獄吏は氷炎が逃げたら一番に疑われて見張りが付くだろう、残念だが道案内は任せられない」
「それなら、一体誰が」
「走耳だ」幻風は振り向いて、相変わらず壁に埋没している青年をじっと見た。「適任は走耳をおいて他にない」
いきなりの名指しに、走耳がぽかんと口を開けている。
「オアシスに詳しい、腕が立つ、冷静。そして雑踏に紛れ込むことに関しては天才のコソ泥ときている」
「コソ泥とはご挨拶だな」
ほめられているのかけなされているのか、走耳は微妙な表情を浮かべた。
「氷炎を連れて逃げるには最適だ。走耳、刑期も済んでいるんだし、氷炎を連れて堂々と脱獄すればいい」
幻風がニヤリと笑った。
作業から帰るときいつも見る、粗末な小屋。そこは死体安置所で、牢獄の中で死んだ人間の処理が決まるまでいったん置いておく場所だった。死体の近くにいると腐れの毒がまき散らされると信じられているため、絶命した者を安置する場所は生活空間から離されるのが常で、入れる時と出す時以外は基本的に獄吏達も近寄らない。
いきなりの麗射の言葉に皆は何を言い出すのかと首をかしげる。周りの空気には構わず麗射は意気込んで続けた。
「勇儀、用意してもらいたいものがある」
麗射の目がぎらぎらと輝き始めた。それは何かを思いついたときの彼の常である。
「
憑かれたように麗射は材料を羅列し続ける。
「そ、それで何をしようってんだ」
たまらずに誰かが声を上げた。
「偽装だ。氷炎を死体に偽装して、死体安置所に移すんだ」
「なるほど、あそこの警備は手薄で大門にも近い。病み上がりでも死体安置所から逃げるのはそれほど難しいことではなかろうて」
幻風が大きくうなずく。
「しかし、お前病気の者を見たことがあるのか」
「ああ、任せてくれ」
麗射が波州で絵の修行をしていたころ、師匠の工房にはいろいろな芸術家が出入りしていた。
その中には、芝居を行う一団もあった。
彼らは演じる前に師匠の工房の画材を借りて、顔や身体に化粧を施した。いや、それはもう化粧と言える域を超えている。師匠が笑いながら画材の余りをただで提供するのをいいことに、体形が変わるほど顔料をしこたま塗り上げて固めたり、傷一つない皮膚をまるで今ばっくりと刀で斬られたかのように細工したり。細工によって刻々と姿を変えていくその様は、ともすれば彼らが演じる芝居よりも面白く、麗射も自分の創作をそっちのけで見事な作業を最初から最後まであかずに眺めていたものだ。そしてついには眺めるだけでは飽き足らなくなって、手伝いと称して手を出していき、最後には活劇の芝居がかかるとそのほとんどの擬態を麗射が一手に引き受けるまでになっていた。道具さえあれば、なんとかする自信が彼にはあった。
勇儀たちは速やかに材料を集めてこっそりと獄の中に届けた。この計画は勇儀と一部の煉州の獄吏しか関わっていない。関係のない獄吏に見つからないように、麗射は勇儀たちが監視につく日の深夜、ろうそくの炎の元で作業に取り掛かった。
まずは黄色い顔料を薄く体に塗りつける。
「これは何だ」
手伝いをする囚人が訪ねる。
「病気によっては皮膚が黄色くなることがある。薬師たちは
氷炎の全身に黄色の顔料を塗り終えた後、麗射は同じ色を付けたロウを溶かし、それをぬるま湯の中にそっと落とした。薄く広がったロウの滑らかな表面に麗射は指で水を散らす。水が弾いた部分が凹凸となり、いかにも腐って崩れかけた皮膚のような膜ができた。湯煎して溶かした膠油で皮膚に腐肉を貼りつけ、その上からまたロウで作った皮膚を張り付けていく。そして膠油と色を付けた木の粉を混ぜたものを塗り付け、ロウと皮膚との境界を消していく。
最後の仕上げとばかりに麗射はロウの表面をところどころ引き裂いて奥の腐肉を見せ、薄緑の顔料を垂らして傷からあふれる膿を表現した。
囚人たちは偽物とわかっていながらも、ばっくりと割れた傷のおぞましさに顔をそむける。
「うえっ、見ているだけで気持ち悪いぜ」
ジュクジュクとした傷口から腐肉からの悪臭が立ち上る。
「えらく臭えな、これ」
余りの腐臭に、牢内には嘔吐をする囚人が続出した。
「これからどうするつもりだ、兄者」
雷蛇が口元に笑みを浮かべて尋ねる。この男は自分の脱獄計画ではないにもかかわらず権力に反抗することがうれしくてたまらないらしい。
「俺が毎日皮膚に黄色の顔料を塗り重ねて病気が徐々に悪化していくように見せかける。そしてついに死んだという事にすれば病魔の腐れが獄に広がることを恐れて死体安置所に置かれるだろう」
会話を遮って幻風が口を開いた。
「この出来ならうまく騙せそうだな。だが、ここを脱獄するのも氷炎だけでは無理だ。それに限られた広さしかないオアシスの中ではすぐ捕まってしまうだろう。手練れの隊商の一団にでも忍んで脱出させてもらえればいいのだが」
「今オアシスに滞在している隊商は、数隊だな」勇儀が腕組みをする。
「腕利きというと、美術品を専門にするオブライエ、食物を運ぶ
「ジェズムだって」
麗射が歓喜の叫びをあげた。
「ジェズム、彼に頼もう。彼ならやってくれるはずだ」
「お前さん、あの曲者を知っているのか」
幻風が目を丸くする。
「あいつと交易すると尻の毛まで抜かれると評判の、
「俺の絵を気に入ってくれた。絵を差し上げたお礼に困ったことがあれば相談に乗る、と言ってくれた」
麗射はオアシスに入る前、彼の絵に涙してくれた薄緑色の細い目を思い出した。あの時、確かに彼は何か困ったことがあれば力になると言ってくれていた。
ジェズムとのいきさつを説明すると幻風がつぶやいた。
「さすがのジェズムもたかだか絵一枚で脱獄の手引きをさせられるとは思わなかったろうな。なんせ一歩間違えればこのオアシスに出入り禁止の危険な仕事だ」
そこまで言って幻風がくっくっと低く笑った。
「あの
笑いのツボに入ったのか、幻風は目に涙を浮かべている。
「だが、こんな危ない橋を渡ってくれるだろうか」走耳が首をかしげる
「ああ、商人はあこぎな取引はするが、いったん交わした約束は絶対に守る。約束を破るとそのうわさが広まって取引できなくなる。大枚かけて砂漠を渡って、仕事にならないんじゃ大損だからな」
それにしても。と幻風はさぐるように麗射の瞳を覗き込んだ。
「お前さんのような青二才にそんな甘いことを言うとは、あやつが
幻風が麗射をじっと見て、首を傾げた。
「よくわからんな。わしには人を見る才がないようじゃ」
「占い師なのに人を見る目がないってのは致命傷だぜ」
走耳が肩をすくめる。
「あの……、私はその方との面識が無いのだが」
見た目は重病人の氷炎が起き上がって口を挟んだ。
「ジェズム達は市場近くに宿営している。特徴のある緑の目の模様が施してあるテントだからすぐわかる」勇儀がにっこりと笑った。「獄を出たら私がお連れしましょう」
「いや、それは止した方がいい」間髪入れずに幻風が遮った。
「勇儀、あなた達煉州出身の獄吏は氷炎が逃げたら一番に疑われて見張りが付くだろう、残念だが道案内は任せられない」
「それなら、一体誰が」
「走耳だ」幻風は振り向いて、相変わらず壁に埋没している青年をじっと見た。「適任は走耳をおいて他にない」
いきなりの名指しに、走耳がぽかんと口を開けている。
「オアシスに詳しい、腕が立つ、冷静。そして雑踏に紛れ込むことに関しては天才のコソ泥ときている」
「コソ泥とはご挨拶だな」
ほめられているのかけなされているのか、走耳は微妙な表情を浮かべた。
「氷炎を連れて逃げるには最適だ。走耳、刑期も済んでいるんだし、氷炎を連れて堂々と脱獄すればいい」
幻風がニヤリと笑った。