第38話 挑発
文字数 2,553文字
夏の休暇に何をしようか。心を弾ませながら思いを巡らせていた麗射だったが、自分には選択の余地がないことを知ったのは、休暇の始まる前日の夕方であった。部屋を叩く音で顔を出した麗射が見たのは無表情で立っている白髪交じりの男性だった。
「えっと、特待生の波州の麗射だね」
「はあ」
上着に縫い付けられている美術工芸院の紋章、その下には絵筆と彫刻刀が交差した意匠が刺繍されている。彼は美術工芸院の事務を行う運営職員であった。
「ここ3か月、君は寮費を滞納しているね。特待生の学費は無料だけど、寮費は払ってもらわないといけないんだ」
思えば、出獄後いきなりの歓迎会からなだれ込むように始まってしまった学院生活だった。有頂天で聞いた入学時の説明の際にそんなことも言われたような気がする。とにかくあの時は特待生として手にした特別志度金の金額で舞い上がってしまい、寮費はそれで払えばいいと簡単に考えていた。しかし、大量の画材の前に我を忘れて志度金をすべて使ってしまったのだった。
「俺、今無一文なんです」
実は玲斗によってほとんどの顔料が使い物にならなくなったため、画材にも事欠くありさまだ。
麗射の答えに驚くかと思ったが、職員は顔色一つ変えずうなずいた。
「良くある話だ。画材に金をつぎこんだんだろう」
慣れた様子で彼は麗射に数枚の紙を手渡した。
紙には調理場の下働きや、彫刻科の荷運びと掃除などの時給が記されていた。
「まあ、夏の休み中に死に物狂いで働けば冬季の休暇までの生活費はなんとかなるだろう。まず夏季休暇の前半が終わった時点で半分、秋の学期が始まるまで全額納めてくれ、さもないと寮は出て行ってもらうよ」
オアシスという限られた空間の中で学院の外に部屋を確保するのにはかなりの金額が必要であった。食事なしの粗末な貸し部屋であってさえ寮費の3倍はするだろう。
麗射はその日から食堂で皿洗いを始めた。驚いたことに、厨房の様々なところで知った顔が少なからず見えた。金を使うところがほとんどないオアシス、皆画材に有り金をつぎ込んで持ち金がなくなったのだろう。麗射は自分のことを棚に上げて苦笑いしながら、こいつら馬鹿だなあとつぶやいた。
休暇中と言えども、寮生はほとんど学院から出て行かないためむしろ食堂は休みになってからが忙しかった。いつもはパンを片手に食事などそっちのけで創作に打ちこむ学院生たちだが、決まった講義も強要される課題もない休暇中は、ゆっくりと語らいながらここぞとばかり栄養回復にいそしむ。流石に夏になると交易が止まるため、食事内容は徐春のころに比べるとかなり貧弱になってはいるが、育ち盛りの青年達の食欲は低下しない。途切れることなく延々と運ばれてくる使用済みの皿に辟易しながらも、麗射は目の前に寮費が片付いたら次に買うつもりの画材を浮かべながら、精力的に仕事をこなしていった。
夜も明けぬ早朝から仕込みが始まり、陽が一杯に差し込む頃に朝食のピークが訪れる。短い休憩をはさんで、雪崩を打つように昼の食事が始まる。食材が貧相になればなるほど、手をかけることで食べる者を満足させようと、昼も手を抜かないオアシスの食堂はまるで戦場のような忙しさだ。陽がその強さをやや減じたころに麗射達は食堂の残り物を中心とした遅い昼食をかきこみ、交代でつかの間の休憩を取る。昼の部はここまでで、引き続き仕事をする者は少ない。これからは夜の部でまた違った顔ぶれが仕事にくるのだが、麗射は半日の仕事ではとても冬までの生活費がたまらないため、一日中食堂で下働きをする契約にしていた。
嵐のような夕食が過ぎ去っても、それが仕事の終わりではない。食事が一段落したら、食堂は軽い酒を楽しむ場所になる。食事と違って酒とつまみは有料である。街の酒屋で安酒を買って居室で飲む方が安上がりなため、貧乏な学院生たちは何か特別なことが無い限り食堂で飲むことをしなかった。
ところが、最近毎日のように同じ顔触れが食堂で酒宴を開いている。飲んだくれているのは玲斗とその仲間たちであった。人に迷惑をかけるほど酔わないのが学院の不文律であったが、玲斗は酔っぱらって大声で他人の欠点をあげつらい近くに来たものに絡むので、遅い時間には学生たちは食堂に寄り付かなくなっていた。
「麗射は出ない方がいいよ」
金欠で下働きをしている仲間たちも、玲斗と麗射の確執を知っている。彼らは麗射を厨房の奥の仕事に押し込み、注文とりや皿の上げ下げなど食堂から見える場所での仕事はさせなかった。
今日も玲斗は大声で不満を並べ立てている、彼は夏の展覧会で優秀賞が取れなかったのがかなり悔しかったらしい。小さなころからその才能をほめそやされて育ったのだろう、自分が負けるのが信じられない様子で、不正だの、教授たちは見る目が無いと叫んでいる。取り巻きの青年たちも、はたから見ると気持ちの悪いくらいのお追従を繰り返していた。
「黒と白の絵なんて、配色を考えないで良い分簡単なんだ」
視点の合わない目で玲斗はつぶやいた。
「俺の顔料はここに来るときに持ってきたもので、ちょっと古かった。だから発色が鈍かったんだ」
玲斗は力量不足を今度は画材に向け始めた。
そこにふらりとやってきたのは夕陽だった。創作の合間なのだろう、こけた頬にぼさぼさの赤毛、目だけギラギラと光らせて厨房を覗き込むといつもの残り飯を頼んだ。
「酒の時間に興ざめだな、おい」
玲斗がうす汚れた背中に声をかける。
「それともこれ見よがしに努力をひけらかしに来たのか?」
夕陽は素知らぬ顔で小麦粉粥に残り物を乗せた碗を抱え込んで食べている。
「玲斗様に返事くらいしろよ」
玲斗の仲間の安里 が立ち上がって夕陽の碗を取り上げた。夕陽よりも若い男だが、学年が上ということで強気に出ている。
「いや、好きなことをしているだけで、努力なんかしてないから」
碗を返してもらえないとわかると、夕陽は席を立ちあがった。ひょうひょうとした彼の背中に玲斗が叫んだ。
「まだ描きに行くのか。さすが天下一品の絵師だぜ、母親の無残な死にざまをあれだけ克明に描けるとはな」
夕陽の足がぴたりと止まった。
「えっと、特待生の波州の麗射だね」
「はあ」
上着に縫い付けられている美術工芸院の紋章、その下には絵筆と彫刻刀が交差した意匠が刺繍されている。彼は美術工芸院の事務を行う運営職員であった。
「ここ3か月、君は寮費を滞納しているね。特待生の学費は無料だけど、寮費は払ってもらわないといけないんだ」
思えば、出獄後いきなりの歓迎会からなだれ込むように始まってしまった学院生活だった。有頂天で聞いた入学時の説明の際にそんなことも言われたような気がする。とにかくあの時は特待生として手にした特別志度金の金額で舞い上がってしまい、寮費はそれで払えばいいと簡単に考えていた。しかし、大量の画材の前に我を忘れて志度金をすべて使ってしまったのだった。
「俺、今無一文なんです」
実は玲斗によってほとんどの顔料が使い物にならなくなったため、画材にも事欠くありさまだ。
麗射の答えに驚くかと思ったが、職員は顔色一つ変えずうなずいた。
「良くある話だ。画材に金をつぎこんだんだろう」
慣れた様子で彼は麗射に数枚の紙を手渡した。
紙には調理場の下働きや、彫刻科の荷運びと掃除などの時給が記されていた。
「まあ、夏の休み中に死に物狂いで働けば冬季の休暇までの生活費はなんとかなるだろう。まず夏季休暇の前半が終わった時点で半分、秋の学期が始まるまで全額納めてくれ、さもないと寮は出て行ってもらうよ」
オアシスという限られた空間の中で学院の外に部屋を確保するのにはかなりの金額が必要であった。食事なしの粗末な貸し部屋であってさえ寮費の3倍はするだろう。
麗射はその日から食堂で皿洗いを始めた。驚いたことに、厨房の様々なところで知った顔が少なからず見えた。金を使うところがほとんどないオアシス、皆画材に有り金をつぎ込んで持ち金がなくなったのだろう。麗射は自分のことを棚に上げて苦笑いしながら、こいつら馬鹿だなあとつぶやいた。
休暇中と言えども、寮生はほとんど学院から出て行かないためむしろ食堂は休みになってからが忙しかった。いつもはパンを片手に食事などそっちのけで創作に打ちこむ学院生たちだが、決まった講義も強要される課題もない休暇中は、ゆっくりと語らいながらここぞとばかり栄養回復にいそしむ。流石に夏になると交易が止まるため、食事内容は徐春のころに比べるとかなり貧弱になってはいるが、育ち盛りの青年達の食欲は低下しない。途切れることなく延々と運ばれてくる使用済みの皿に辟易しながらも、麗射は目の前に寮費が片付いたら次に買うつもりの画材を浮かべながら、精力的に仕事をこなしていった。
夜も明けぬ早朝から仕込みが始まり、陽が一杯に差し込む頃に朝食のピークが訪れる。短い休憩をはさんで、雪崩を打つように昼の食事が始まる。食材が貧相になればなるほど、手をかけることで食べる者を満足させようと、昼も手を抜かないオアシスの食堂はまるで戦場のような忙しさだ。陽がその強さをやや減じたころに麗射達は食堂の残り物を中心とした遅い昼食をかきこみ、交代でつかの間の休憩を取る。昼の部はここまでで、引き続き仕事をする者は少ない。これからは夜の部でまた違った顔ぶれが仕事にくるのだが、麗射は半日の仕事ではとても冬までの生活費がたまらないため、一日中食堂で下働きをする契約にしていた。
嵐のような夕食が過ぎ去っても、それが仕事の終わりではない。食事が一段落したら、食堂は軽い酒を楽しむ場所になる。食事と違って酒とつまみは有料である。街の酒屋で安酒を買って居室で飲む方が安上がりなため、貧乏な学院生たちは何か特別なことが無い限り食堂で飲むことをしなかった。
ところが、最近毎日のように同じ顔触れが食堂で酒宴を開いている。飲んだくれているのは玲斗とその仲間たちであった。人に迷惑をかけるほど酔わないのが学院の不文律であったが、玲斗は酔っぱらって大声で他人の欠点をあげつらい近くに来たものに絡むので、遅い時間には学生たちは食堂に寄り付かなくなっていた。
「麗射は出ない方がいいよ」
金欠で下働きをしている仲間たちも、玲斗と麗射の確執を知っている。彼らは麗射を厨房の奥の仕事に押し込み、注文とりや皿の上げ下げなど食堂から見える場所での仕事はさせなかった。
今日も玲斗は大声で不満を並べ立てている、彼は夏の展覧会で優秀賞が取れなかったのがかなり悔しかったらしい。小さなころからその才能をほめそやされて育ったのだろう、自分が負けるのが信じられない様子で、不正だの、教授たちは見る目が無いと叫んでいる。取り巻きの青年たちも、はたから見ると気持ちの悪いくらいのお追従を繰り返していた。
「黒と白の絵なんて、配色を考えないで良い分簡単なんだ」
視点の合わない目で玲斗はつぶやいた。
「俺の顔料はここに来るときに持ってきたもので、ちょっと古かった。だから発色が鈍かったんだ」
玲斗は力量不足を今度は画材に向け始めた。
そこにふらりとやってきたのは夕陽だった。創作の合間なのだろう、こけた頬にぼさぼさの赤毛、目だけギラギラと光らせて厨房を覗き込むといつもの残り飯を頼んだ。
「酒の時間に興ざめだな、おい」
玲斗がうす汚れた背中に声をかける。
「それともこれ見よがしに努力をひけらかしに来たのか?」
夕陽は素知らぬ顔で小麦粉粥に残り物を乗せた碗を抱え込んで食べている。
「玲斗様に返事くらいしろよ」
玲斗の仲間の
「いや、好きなことをしているだけで、努力なんかしてないから」
碗を返してもらえないとわかると、夕陽は席を立ちあがった。ひょうひょうとした彼の背中に玲斗が叫んだ。
「まだ描きに行くのか。さすが天下一品の絵師だぜ、母親の無残な死にざまをあれだけ克明に描けるとはな」
夕陽の足がぴたりと止まった。