第24話 美術工芸院
文字数 3,637文字
絶句する麗射の目の前に獄長が出したのは、厚い紙に貼りつけられたボロボロの紙片だった。
「こ、これは」
震える手で目の前の紙を取り上げる麗射。前の獄長によってびりびりに引き裂かれたはずの入学推薦状。麗射の魂を引き裂き絶望の淵に沈めたあの光景がよみがえる。
「壁画の噂を知っていた勇儀君が、破かれた入学推薦状を捨てずにとっていたらしい」
全身を小刻みに震えが襲い、たまらずに目をつぶった麗射の頬を大粒の涙が伝う。
脳裏に微笑む勇儀の顔が映った。
「叡州 の公子が叡州公に嘆願書を出されたのだ。推薦状を持ちながら、美術工芸院の落ち度で試験を受けられず入獄している者がいると、な。その返事を携えて私がここに来たのがついこの間、君が焼刻を入れられた直後だ。決裁がもめてしまって、着くのが遅くなって申し訳なかったが、砂漠放逸に間に合っただけでも良しとしてくれ」
「なぜ、叡州の公子が俺なんかのために」
「それはこちらが聞きたいくらいだ」
新しい獄長は腕組みをして大きく首を傾げた。
「才能が才能を呼んだという事か。まあ、その答えはきっと美術工芸院で見つかるだろう。ああ、それからもう一つ」
机の上に小さな銀色のコップが置かれた。
「前の獄長が没収していたようだが、君に返してくれとのことだった」
波間の真珠に来てすぐ出会った少女、イラムにもらったものだ。
彼が高熱にうなされた時に彼女の幻影が出てきた。一瞬の邂逅であったが、それだけイラムは麗射に強い印象を与えていたのであろう。それとも彼女とは何かの因縁があるのだろうか。
「相当高級な品だな、君は名家の出身なのか」
「いえ、貰い物です」
麗射はあの喉を潤す冷たさと頭に染み入るような甘さとともに黒いマントに身を包んだ金髪の美少女を思い出した。
「くれた相手は相当君に思い入れがあったようだね」
麗射の微妙な表情で何か思うところがあったのか、獄長は口角を上げてニヤリと笑った。
「さあ、もうここにいる必要はない。学院から迎えが来ている、堂々と出ていきたまえ」
「あ、あの」
出口で立ち止まって、麗射は振り向いた。
「俺は、氷炎と走耳の脱走を助けた罪人です。なのに、なぜこんなに寛大な処遇を受けられるのですか」
獄長が一瞬、目を伏せた
「今、砂漠を囲む三州の関係は微妙に動いている。煉州 の王と叡州 公は婚姻による血縁があって、表向きは同盟しているが、実は煉州の政権は不安定だ。叡州は捕らえた氷炎の身柄を同盟を結ぶ煉州に渡す必要があるが、その是非については政権内にも議論があったらしい」
「議論?」
「ああ、もし煉州の王室支配が崩れて反体制派が国の政権を握った場合、反体制派の精神的支柱であった氷炎を捕まえて死刑に追いやった叡州に対してよい感情を持たないだろう。だから、我が叡州としてはこの結末に安堵しているところもあるのさ。もちろん煉州の王室側は怒っているがね」
政治によって罪が変わるとは、嘆かわしいことだ。そう呟くと獄長はかすかにため息をついた。
「君は焼刻を受けて、脱獄幇助 の罪は償っている。もう忘れて芸術に生きるがいい」
肩をそっと押されて麗射は獄の扉を開けた。
燦燦と照る太陽の下、牢獄の入り口前には豪奢な飾りつけを施された金色の馬車が横付けされていた。麗射よりきれいな身なりをした長身の御者が、恭しく一礼して麗射のために天蓋付きの馬車の扉を開ける。
「俺、乗っていいんですか」
まさに冥府から天界への心もちである。ここ数か月苦労を重ねた麗射は何か大きな落とし穴が待ち受けているのではないかと、一転した状況を素直に喜べない。
「どうぞ」
御者はにこやかに微笑むと、麗射が馬車のソファに沈みこんだのを確認してまた恭しく扉を閉めた。
「麗射、良かったな」
「元気でな」
農園の方から風に乗ってかすかに囚人たちの声が聞こえてくる。麗射の僥倖 を聞いたのか、声を限りに祝福してくれているらしい。
「ありがとう――」
馬車の窓から麗射も声を限りに叫び返す。
「それでは参ります」
大きな揺れと共に馬車は前進した。別れを惜しむ暇もなく、逃げるように馬車は牢獄の門を駆け抜けた。
牢獄はオアシスの端に位置している。と、言っても牢獄の敷地自体それほど広いわけではない。牢獄の門をくぐると、ほどなく鮮やかな青い水をたたえる銀嶺の雫が姿を現した。馬車は泉を行き過ぎ、人波をかいくぐりながら中心部に向かっている。
急転直下の展開に、半信半疑の麗射だったがここにきてようやく美術工芸院に向かっていることを確信した。
「つきました」
麗射の目には両脇に警備の兵士が立つ白亜の大門が広がっている。三か月前は固く扉を閉ざしていたあの門が、招くように大きく開けられていた。
「ここから馬車は入れません。推薦状をお持ちになって扉の中にお進みください」
御者に促されるまま馬車を降りると麗射は両開きの扉につながる低い階段を上った。馬車は麗射が下りるとすぐに行ってしまった。今度は兵士たちは麗射を止めようとはせず、まっすぐに前を見ている。
繊細な細工が施された重厚な木の扉に手をかけて、麗射は周りを見回した。たくさんの生徒を抱える美術工芸院にしてはあまりにも人気(ひとけ)が無い。実は本日も休みで、今度は正式に入学を断られるのではないかという不安が麗射の頭をよぎる。
砂漠を囲む地域すべての芸術家のあこがれの的、美術工芸研鑽学院。ここに入れる才能と、体力を兼ね備えた者にしかその扉は開かれない。しかし、果たしてその中に犯罪者は含まれるのだろうか。
背中の焼刻が軽く疼いた。
――自ら押さないと、運命の扉は開きませんよ
どこかで大好きだった祖母の優しい声がした。
麗射の手に力こもる。ずっしりとした扉が、ゆっくりと開いていった。
その時。
静寂を突き破るような歓声がいきなり麗射を襲った。声の風圧で麗射は思わず目をつぶる。再び目を開けてよく見ると、入り口ホールの正面からつながる大きな階段は、色とりどりの髪の毛、肌の色をした青年たちでぎっしりと埋め尽くされていた。
ようこそ、美術工芸研鑽学院に。と書かれた横断幕が掲げられ、その頭上にはなぜ知っているのか破かれた推薦状にそっくりな旗が振られていた。ご丁寧に推薦状のつなぎ目は錦糸で縫い取りがされている。
そして、階段を登り切った踊り場の真正面――。
そこには、圧倒的な迫力で、無数の色の爆発が煌めいていた。打ち消しあい、高めあい、動き出し、静止する。あの日の人々のざわめきと興奮がまるで切り取ったかのように蘇える。
壊されたと聞いていたが、撤去されただけだったんだ。
きゅうにゆがむ視界。滝のように流れる涙をぬぐおうとはせず麗射はただ、ただ、壁画との再会に感動していた。
「ようこそ、美の砦へ」
それはどこから先回りしたのか、先ほどまで御者を務めていた青年だった。御者の帽子を取った今、中央だけを残してそり上げた頭が露 になっている。中央の毛は真上に突っ立っていて、おまけに七色に染められている。もはやどこの出身かもはっきりしない容姿だ。
彼は麗射の両手を固く握った。
「私は学院生代表のレドウィン。君を心から歓迎する」
「だけど、俺はまだ入学を許された訳では――」
「あの壁画を見ろ。あそこは今年度の入学選考で在学生、教授陣すべての投票で第一位を取ったものが掲げられる場所だ」
青年は麗射の肩をポンと叩いた。
「君が入学できずに誰が入学できるんだ」
「だけど、俺は罪を犯した人間で」
「周りの声をよく聞いてごらんよ」
麗射は立ち止まって、周りを見回した。
「ようこそ、焼刻纏い の麗射!」
「獄雄 の麗射!」
豪雨のように降り注ぐ歓迎の言葉に、麗射は言葉を失っていた。
「ここは官吏の養成所ではない、美の砦だ。君は罪なき政治活動家を逃がし、独りで罪を償った。君の焼刻なんて情熱を糧とする我が学院生にとってはむしろ英雄の印さ」
「どうして、獄中のことを知っているんだ」
「出獄してきた囚人たちが口をそろえて君の功績を吹聴している。オアシスでは有名な話さ」
仲間たちが、援護してくれたんだ。麗射の目に熱いものがこみ上げる。
「さあ、行こう」
青年に促されるまま、麗射は階段を上がっていく。行く手はまるで魔術をつかったかのように、人々が左右に分かれて道が開けた。
学院長室に通じる階段の手すりから人々が身を乗り出すようにして麗射を見ている。
きらり。
視線の先、高い窓から差し込む光に何かが輝いた。
銀色の髪が揺れて華奢な人影が人ごみの中に消えていく。
あの時の!
その細いシルエットは、壁画に最後の銀色が投げられた直後に麗射が見た人影と同じだった。
「待って、君は――」
呼びかけようとした麗射だが、しびれをきらした歓迎の人波によってなすすべもなく院長室に押し込まれた。
「ようこそ、特待生君」
白髪と白髭の中に顔がある学院長らしき老人が両手をあげて彼を出迎える。
麗射の美術工芸院での第1日めがここに始まった。
「こ、これは」
震える手で目の前の紙を取り上げる麗射。前の獄長によってびりびりに引き裂かれたはずの入学推薦状。麗射の魂を引き裂き絶望の淵に沈めたあの光景がよみがえる。
「壁画の噂を知っていた勇儀君が、破かれた入学推薦状を捨てずにとっていたらしい」
全身を小刻みに震えが襲い、たまらずに目をつぶった麗射の頬を大粒の涙が伝う。
脳裏に微笑む勇儀の顔が映った。
「
「なぜ、叡州の公子が俺なんかのために」
「それはこちらが聞きたいくらいだ」
新しい獄長は腕組みをして大きく首を傾げた。
「才能が才能を呼んだという事か。まあ、その答えはきっと美術工芸院で見つかるだろう。ああ、それからもう一つ」
机の上に小さな銀色のコップが置かれた。
「前の獄長が没収していたようだが、君に返してくれとのことだった」
波間の真珠に来てすぐ出会った少女、イラムにもらったものだ。
彼が高熱にうなされた時に彼女の幻影が出てきた。一瞬の邂逅であったが、それだけイラムは麗射に強い印象を与えていたのであろう。それとも彼女とは何かの因縁があるのだろうか。
「相当高級な品だな、君は名家の出身なのか」
「いえ、貰い物です」
麗射はあの喉を潤す冷たさと頭に染み入るような甘さとともに黒いマントに身を包んだ金髪の美少女を思い出した。
「くれた相手は相当君に思い入れがあったようだね」
麗射の微妙な表情で何か思うところがあったのか、獄長は口角を上げてニヤリと笑った。
「さあ、もうここにいる必要はない。学院から迎えが来ている、堂々と出ていきたまえ」
「あ、あの」
出口で立ち止まって、麗射は振り向いた。
「俺は、氷炎と走耳の脱走を助けた罪人です。なのに、なぜこんなに寛大な処遇を受けられるのですか」
獄長が一瞬、目を伏せた
「今、砂漠を囲む三州の関係は微妙に動いている。
「議論?」
「ああ、もし煉州の王室支配が崩れて反体制派が国の政権を握った場合、反体制派の精神的支柱であった氷炎を捕まえて死刑に追いやった叡州に対してよい感情を持たないだろう。だから、我が叡州としてはこの結末に安堵しているところもあるのさ。もちろん煉州の王室側は怒っているがね」
政治によって罪が変わるとは、嘆かわしいことだ。そう呟くと獄長はかすかにため息をついた。
「君は焼刻を受けて、脱獄
肩をそっと押されて麗射は獄の扉を開けた。
燦燦と照る太陽の下、牢獄の入り口前には豪奢な飾りつけを施された金色の馬車が横付けされていた。麗射よりきれいな身なりをした長身の御者が、恭しく一礼して麗射のために天蓋付きの馬車の扉を開ける。
「俺、乗っていいんですか」
まさに冥府から天界への心もちである。ここ数か月苦労を重ねた麗射は何か大きな落とし穴が待ち受けているのではないかと、一転した状況を素直に喜べない。
「どうぞ」
御者はにこやかに微笑むと、麗射が馬車のソファに沈みこんだのを確認してまた恭しく扉を閉めた。
「麗射、良かったな」
「元気でな」
農園の方から風に乗ってかすかに囚人たちの声が聞こえてくる。麗射の
「ありがとう――」
馬車の窓から麗射も声を限りに叫び返す。
「それでは参ります」
大きな揺れと共に馬車は前進した。別れを惜しむ暇もなく、逃げるように馬車は牢獄の門を駆け抜けた。
牢獄はオアシスの端に位置している。と、言っても牢獄の敷地自体それほど広いわけではない。牢獄の門をくぐると、ほどなく鮮やかな青い水をたたえる銀嶺の雫が姿を現した。馬車は泉を行き過ぎ、人波をかいくぐりながら中心部に向かっている。
急転直下の展開に、半信半疑の麗射だったがここにきてようやく美術工芸院に向かっていることを確信した。
「つきました」
麗射の目には両脇に警備の兵士が立つ白亜の大門が広がっている。三か月前は固く扉を閉ざしていたあの門が、招くように大きく開けられていた。
「ここから馬車は入れません。推薦状をお持ちになって扉の中にお進みください」
御者に促されるまま馬車を降りると麗射は両開きの扉につながる低い階段を上った。馬車は麗射が下りるとすぐに行ってしまった。今度は兵士たちは麗射を止めようとはせず、まっすぐに前を見ている。
繊細な細工が施された重厚な木の扉に手をかけて、麗射は周りを見回した。たくさんの生徒を抱える美術工芸院にしてはあまりにも人気(ひとけ)が無い。実は本日も休みで、今度は正式に入学を断られるのではないかという不安が麗射の頭をよぎる。
砂漠を囲む地域すべての芸術家のあこがれの的、美術工芸研鑽学院。ここに入れる才能と、体力を兼ね備えた者にしかその扉は開かれない。しかし、果たしてその中に犯罪者は含まれるのだろうか。
背中の焼刻が軽く疼いた。
――自ら押さないと、運命の扉は開きませんよ
どこかで大好きだった祖母の優しい声がした。
麗射の手に力こもる。ずっしりとした扉が、ゆっくりと開いていった。
その時。
静寂を突き破るような歓声がいきなり麗射を襲った。声の風圧で麗射は思わず目をつぶる。再び目を開けてよく見ると、入り口ホールの正面からつながる大きな階段は、色とりどりの髪の毛、肌の色をした青年たちでぎっしりと埋め尽くされていた。
ようこそ、美術工芸研鑽学院に。と書かれた横断幕が掲げられ、その頭上にはなぜ知っているのか破かれた推薦状にそっくりな旗が振られていた。ご丁寧に推薦状のつなぎ目は錦糸で縫い取りがされている。
そして、階段を登り切った踊り場の真正面――。
そこには、圧倒的な迫力で、無数の色の爆発が煌めいていた。打ち消しあい、高めあい、動き出し、静止する。あの日の人々のざわめきと興奮がまるで切り取ったかのように蘇える。
壊されたと聞いていたが、撤去されただけだったんだ。
きゅうにゆがむ視界。滝のように流れる涙をぬぐおうとはせず麗射はただ、ただ、壁画との再会に感動していた。
「ようこそ、美の砦へ」
それはどこから先回りしたのか、先ほどまで御者を務めていた青年だった。御者の帽子を取った今、中央だけを残してそり上げた頭が
彼は麗射の両手を固く握った。
「私は学院生代表のレドウィン。君を心から歓迎する」
「だけど、俺はまだ入学を許された訳では――」
「あの壁画を見ろ。あそこは今年度の入学選考で在学生、教授陣すべての投票で第一位を取ったものが掲げられる場所だ」
青年は麗射の肩をポンと叩いた。
「君が入学できずに誰が入学できるんだ」
「だけど、俺は罪を犯した人間で」
「周りの声をよく聞いてごらんよ」
麗射は立ち止まって、周りを見回した。
「ようこそ、
「
豪雨のように降り注ぐ歓迎の言葉に、麗射は言葉を失っていた。
「ここは官吏の養成所ではない、美の砦だ。君は罪なき政治活動家を逃がし、独りで罪を償った。君の焼刻なんて情熱を糧とする我が学院生にとってはむしろ英雄の印さ」
「どうして、獄中のことを知っているんだ」
「出獄してきた囚人たちが口をそろえて君の功績を吹聴している。オアシスでは有名な話さ」
仲間たちが、援護してくれたんだ。麗射の目に熱いものがこみ上げる。
「さあ、行こう」
青年に促されるまま、麗射は階段を上がっていく。行く手はまるで魔術をつかったかのように、人々が左右に分かれて道が開けた。
学院長室に通じる階段の手すりから人々が身を乗り出すようにして麗射を見ている。
きらり。
視線の先、高い窓から差し込む光に何かが輝いた。
銀色の髪が揺れて華奢な人影が人ごみの中に消えていく。
あの時の!
その細いシルエットは、壁画に最後の銀色が投げられた直後に麗射が見た人影と同じだった。
「待って、君は――」
呼びかけようとした麗射だが、しびれをきらした歓迎の人波によってなすすべもなく院長室に押し込まれた。
「ようこそ、特待生君」
白髪と白髭の中に顔がある学院長らしき老人が両手をあげて彼を出迎える。
麗射の美術工芸院での第1日めがここに始まった。