第17話 脱獄計画

文字数 2,715文字

 市場で爬剛(はごう)が死んだという噂が獄のなかにも伝わってきてから数日。最初こそ赤飯粥に毒がもってあったのではないかという噂でもちきりであったが、食べてから死ぬまでの時間が長すぎるとのことで結局は食べ過ぎの上に動き回ったせいで腸が破裂したのだろうという結論に落ち着いた。自然死となれば話のタネにはならず、さすがに最近は話題に上らなくなっている。
 体調が回復しつつある氷炎は、望まれて毎晩希望者に講義を始めた。静かな語り口と平易な言葉で語られる、新しい国のあり方の話は学のない囚人たちには初めての知的な刺激であり、夕方になると皆氷炎の周りを囲み話を聞くのを楽しみにしていた。囚人だけではない、時に非番の獄吏達も格子の外でその講演を拝聴していた。
 いつもの講義もすでに終わり、後は眠るだけという夜の静かな時間。
 そこへ突如やってきたのは勇儀(ゆうぎ)だった。
 いつになく険しい顔で、監視をしている金髪の獄吏に何かを告げる。獄吏は頷いて、上官の勇儀に一礼すると去って行った。
「どうした」
 無言で扉につけられた格子の前に立つ勇儀に、幻風が声をかけた。
 しばらく黙っていたが、意を決したように勇儀が口を開く。
「氷炎先生、処分が決まりました。煉州(れんしゅう)の使者がこちらに到着し次第、煉州に護送されます」
「いよいよか」幻風が地に視線を落とす。煉州に護送された後に処刑が待っていることは火を見るよりも明らかだった。
「皆さん、お世話になりました。覚悟はできています、案じることはありません」
 氷炎は動揺を感じさせない静かな声で言った。
「勇儀、使者が到着するのはいつ頃ですか」
「約十日後だと思います」
 目を閉じてうなずく氷炎。「それではまだ十日ほど皆さんにお話ができますね」
「先生っ」
 突然格子を掴むと、唇を震わせて勇儀が話し始めた。
「煉州出身の獄吏だけではない、俺たち獄吏のほとんどはあなたに生きていてほしいと思っています。今の世は不公平すぎる、同じ人間なのに王族、貴族の血縁だけが優雅な生活をして、平民は一生貧しい生活なんて間違っている。あなたの話は面白かった、あなたに会わなければ、私は国の在り方に疑問を持つこともなかった。あなたは、我々にとって闇夜を照らす月のような存在だった――」
 語尾がかすれ、勇儀は目を閉じてそこに立ちすくむ。体を震わせて、言葉を失った勇儀に雷蛇が声をかけた。
「で、何しに来たんだ。おめえはそれを伝えに来ただけかよ」
 雷蛇の声に我に返ったのか、勇儀の目がかっと開かれた。
「だ、だから、私は」
 真っ青な顔で息を吸い込むと、勇儀は鍵を取り出した。
「心を決めました。氷炎先生、お逃げください」
 鍵が鍵穴に射しこまれる音がした。
「あなたは煉州の希望です。皆あなたを待っています、だから――」
 鍵が回されようとした瞬間、氷炎の口が開いた。
「およしなさい。開けられても、私は出ません」
 勇儀の目に涙が浮かぶ。
「お願いです。このままあなたに何かあれば、煉州の民に申し訳が立たない」
「このようなことをすれば、あなたが無事ではすみません。もうこれ以上私のために犠牲を出したくないのです」
「先生は私たちの精神的支柱なのです。お、お願い――」
 言葉がかすれ、勇儀の目から涙がぼろぼろとこぼれた。
「ちょっと待った」
 麗射が格子の近くに寄ってきた。
「勇儀。君がすべての罪を背負い込むことはない。それに衝動的な脱獄はうまく行かないに決まっている」
「あいつに衝動的になるなとは言われたくないな」走耳がニヤリと笑う。
「氷炎が脱獄できるように、俺たちも協力してなんとかしようじゃないか」
 まるで散歩の話でもするような麗射の言葉に、皆ぽかんと口を開けている。
「俺はむざむざこんなすごい人が死んじまうのを見過ごすわけにはいかない。氷炎はいつかこの世の中を変えてくれる人だ。自らの命もなげうって、人々のために理念を持って邁進する、その苛烈な生き方はまさに美だ。俺は氷炎に賛同、いや心酔している。氷炎の実現しようとする世の中を見てみたい」
 麗射は興奮して語り続けた。
「兄貴、俺はあんたのすることならなんでも協力するぜ、言ってくれ」
 雷蛇が瞳をキラキラさせて叫んだ。
 囚人たちも雷蛇の言葉に呼応してうなずいている。
「なにかいい方法があるのか? 何とかして氷炎先生に自由の身になって欲しいのだ」
 勇儀が格子に顔をめり込ませるようにして牢の中を覗き込む。
「おい、麗射。安請け合いはけがの元だぞ」走耳が遮る。「下手すりゃ、あの人だけじゃない獄吏達も、俺たちも罪をかぶるんだ」
「ばれたらただではすまんだろうしなあ。第一そんな簡単に脱獄できるのであればわしらがすでにやっておる」
 幻風も腕組みをして顔をしかめる。
「氷炎は俺たちのように罪を犯したわけじゃない。正当な理由があって戦っているんだ。むざむざ殺してなるものか」
 麗射が叫ぶ。
「要は氷炎が、あんたたち獄吏の裏をかいて脱獄したように見せかければいいんだよな」
「いい考えがあるのか」勇儀が目を輝かせる。
「ない」
 大きな期待を一瞬にして無にする麗射の答えに、牢は大きなため息で一杯になった。
「鍵を開けてもらっても牢獄から門までにはかなりの距離がある。回復したとはいえ、病み上がりの氷炎が走り抜けるのは難しいだろう。それにここから外までは獄吏の控え所をいくつかやり過ごさねばならん。百戦錬磨の悪党どもならいざ知らず、学者肌の氷炎では難しいな」
 幻風がため息をつく。
「どうにか氷炎をもっと門に近い監視の薄い場所に移せれば――」
「そんなところ、無いぜ」誰かが声を上げる。
「おい、諦めたら話は進まない。無理だと思われることでも知恵を絞ればなにかいい考えが湧いてくるってもんだ」
 麗射は目をつぶって両手を額に当てた。
「天帝よ、郷里の海神よ、俺に力を与えてくれ。ばれても責任はすべて俺が持つ。なんせ俺にはもう、失うものがないからな――」
 彼の脳裏に美術工芸院の崩された壁が浮かんだ。望みを託していた作品が無くなってしまったと聞いた日から、彼にとって残りの人生は余禄に他ならない。
 だが、たとえ夢は潰えても、せめて何か信念のある美しい生き方がしたいと考えている。氷炎のようなことはできないが、せめて彼を手伝うことが麗射にとって自分の生の証、美の表現であった。
「あ」
 目を開けた麗射が声を漏らす。
「できるかもしれない」
 彼の目の前にはあれから何度か制作した花染めで色づいた青い指先があった。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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