第21話 罪
文字数 3,165文字
風を切る小刀の音。
しかし。
予想された痛みの代わりに、走耳の背後から鋭い叫びが上がった。
振り向くと右肩に刀が付き立った獄長が倒れ、同時に黒い影が飛び掛かっていくのが見えた。
獄長と黒い影は血しぶきを上げながら砂漠の上を組みあってごろごろと転がっている。
「今だ、逃げろ氷炎」
聞き覚えのある声。
「麗射――」走耳が目を見張った。
麗射はナツメヤシの棘を束ねたものを握って獄長と戦っている。一本一本は細いが、毒のある棘をまとまって刺すとそれなりの攻撃力があった。
獄長の動きは出血のためか、明らかに鈍い。とうとう麗射が馬乗りになって押さえつけた。
その隙に氷炎が走耳たちの元に走り寄ってくる。
「幻風、裏切ったな」獄長が弱弱しく叫ぶ。
何が起こったのか戸惑いの表情を浮かべて走耳は幻風の顔を見た。
「これでわしの仕事も、終了じゃ」
幻風が走耳に笑いかけた。殺気はどこへやら、いつの間にかその顔は元の好々爺に戻っている。
「あいつは相当な剣の達人でな、お前さんとわしだけでは太刀打ちが難しいと思って奴の隙を狙っていたのだ。あれほどの達人の前では手加減した偽りの太刀筋は見抜かれる、悪かったがお前さんも騙すしかなかった。しかし、地塩が脱獄計画を看破してわしらの所に報告しに来た時には肝を冷やしたぞ」
まだ事態が飲み込めない走耳は眉をひそめて幻風の方を見ている。
「わしは敵ではない。お前さんの殺害を引き受けたのも、お前さんを守るためじゃ。しかし殺害依頼が舞い込んできた時にはびっくりしたよ。まさか、あの坊やと再会できるとは思ってもいなかったからな」
「再会?」
「覚えてないのも無理はない。まだお前さんが乳飲み子のころ、母上と一緒にわしらはしばらくの間旅をしたのだ」
幻風の脳裏には遠き日の胸の疼きがよみがえる。
「共に、旅をした――」
走耳は記憶の糸をたどるが、幼い日の記憶は霧の奥に消え去っている。
だが思い起こせば、幻風には会った時からなぜか警戒を解いていた自分がいた。
笑い漏斗の幻風。まるで閉ざした心を開ける魔法のカギを携えているかのように、彼の笑い声は初めから滑り込むように心の内に入ってきた。
ああ。
走耳の耳の奥で、突然少し若い幻風の笑い声が蘇る。
もしかして自分は声を覚えていたのか。
「お前さんの母上とはちょっとした縁 があったんでな」
「縁? もしかしてあんたは――」
それには答えず、幻風は悪戯っぽい目で走耳を見た。
「ジェズムによろしくと伝えてくれ。さあ、行け」
幻風は錠前に腰についていた鍵を差し込み門を開ける。
そしてまだ話したそうにしている走耳を促すと、二人を門の外に押し出した。
幻風は、麗射と獄長の方を振り向く。深手とはいえ武人の端くれである獄長は、気力で麗射をひっくり返すと足で突き飛ばし、砂地に刺さっていた刀を引き抜いた。そして血しぶきで染まった顔に憤怒の形相を浮かべ、門前の幻風に切りかかった。
「このおいぼれがっ」
獄長の刃が、振り下ろされる。しかし、多量の出血のためか刃先に勢いがない。
それに気が付いたか、幻風は薄笑いを浮かべながらまるで花びらが舞うような軽やかな跳躍で刃先をかわす。そして間髪入れず美しい円弧を描きながら鋭いけりを相手の前頭部に繰り出した。獄長の頭は反動で激しく門扉にぶつかり、手から大刀が抜ける。
「この意地汚いサソリめ。自らの刃で冥漠 の砂に飲まれるがいい」
意識を失い足下に崩れ落ちた獄長めがけて、呪いの言葉を吐くと幻風がとどめとばかり獄長の刀を振りあげた。
「待て、待ってくれ」
声の方を振り向くとよろよろと立ち上がった麗射がかぶりを振っている。
「頼む、殺さないでくれ幻風」
幻風は眉をひそめた。
「今ここで命を絶たないと、後々禍根を残すことになろう」
「やめてくれ。俺は、誰にも殺人者になって欲しくはないんだ」
「心配ない、走耳を殺そうとした爬剛 をやったのもわしじゃ。とっくの昔に殺人者という訳だ」
幻風はこともなげに言う。
「魚毒と毒草、拮抗する二つの毒で効果を遅らせたため獄長も毒殺と思わなかったみたいだがな」
幻風は昏倒する獄長を見下ろしてつぶやく。
「こいつは金に目がくらんで無実の若者を殺そうとした。命をとられても文句は言えん」
「だけど幻風、殺されてはいけない人間と、殺されてしかるべき人間。どこに線引きがあるんだ?」
麗射は幻風の横ににじり寄り、刀を持つ腕を抑えた。
「人を裁く権利をいつ天帝から託された? 俺たち人間の命を奪うことができるのはただ天帝のみだ。その禁を破るものは、たとえ人助けをしていてもいつか天から罰せられる」
低い嗚咽が静寂に響く。
「泣いているのか」
麗射が自分のことを思って、獄長の助命を願っていると気が付いた幻風はため息をついた。
「わしのために泣く――か」
松明の光に照らされて、麗射の濡れた瞳が輝いている。
「幸せな目だな」
わしには眩しすぎる。血みどろのどん底を知らぬ青年の無垢な眼光に撃たれ、幻風は思わず目をそらした。
だが、親が、恋人が、親友が――大切なものが蹂躙 されても、お前は同じことが言えるのか。
喉元まで来た言葉を幻風は飲み込んだ。
若いのだ、この男は。しかしこういう男こそがそのうち否応なしに人生の業火に焼かれ、荒波に打たれ、心を裂かれて、荒れ狂う魂へと変貌するのだろう。
「煉州で起こった反乱はいずれすべての国を巻き込んだ戦乱へと発展するだろう。原野をさまよう野獣の記憶を呼び覚まさねば生きられぬ時代が迫っている、そのときお主は――」
幻風の言葉が途切れた。
「獄長殿ーっ」
呼び声とともにいくつものかがり火が揺れている。
地塩が帰らぬ獄長を不審に思い、獄吏を引き連れて探しに来たらしい。
「もうここには用はない。お前も来い」
幻風はそそくさと刀を鞘に納め、門の外をうかがった。
「俺は残ります」
麗射の言葉に、老人の目が丸くなる。
「馬鹿な。すべての罪をなすりつけられるぞ」
「罪を償った後に晴れてここから出たいんです。そしていつの日かまた美術工芸学院の試験を受けたい」
「美術工芸学院には、罪人に開けられた門はない」
麗射は黙って微笑んだ。その目は誰の言葉も聞かない頑固さを秘めている。
この男を突き動かすのは地を走る溶岩にも似た熱情だ。わが身をも顧みない、時にはわが身さえも焼き尽くすことを是とするほどの強い思い。
幻風はため息をついた。
「お前、脱獄のすべての責を負うつもりだな」
「追手が来る、早く行ってください」
幻風の問いには答えず、麗射はあけ放たれた門を指さした。
「天帝の慈悲がお主に降り注がんことを」
幻風はそう呟くと、くるりと背中を向けて走り去った。
麗射は鍵を閉め、掲げてあった松明を手に持つ。
かがり火を持った一団のざわめきが聞こえてきた。あたりが急に明るくなり、走り寄る足音が大きくなる。
麗射は松明を高く掲げながら門とは反対の方に走り出した。
「獄長殿、しっかりしてください」
闇の中で叫ぶ声が聞こえる。
「門は閉まっているぞ」
その声でほとんどの追手は松明を追ってきた。
しばらく獄中を走っていた麗射だが、とうとう大きなかがり火に取り囲まれる。
「おまえ、獄長に何をした」
獄吏達は麗射の肩を乱暴につかんで引きずり倒した。そのままがんじがらめに縄をかけて、麗射を牢獄へと引っ立てて行った。
麗射の時間稼ぎは長くはなかったが、闇使いの巧者である走耳が氷炎を連れて逃げおおせるには十分な時間であった。
しかし。
予想された痛みの代わりに、走耳の背後から鋭い叫びが上がった。
振り向くと右肩に刀が付き立った獄長が倒れ、同時に黒い影が飛び掛かっていくのが見えた。
獄長と黒い影は血しぶきを上げながら砂漠の上を組みあってごろごろと転がっている。
「今だ、逃げろ氷炎」
聞き覚えのある声。
「麗射――」走耳が目を見張った。
麗射はナツメヤシの棘を束ねたものを握って獄長と戦っている。一本一本は細いが、毒のある棘をまとまって刺すとそれなりの攻撃力があった。
獄長の動きは出血のためか、明らかに鈍い。とうとう麗射が馬乗りになって押さえつけた。
その隙に氷炎が走耳たちの元に走り寄ってくる。
「幻風、裏切ったな」獄長が弱弱しく叫ぶ。
何が起こったのか戸惑いの表情を浮かべて走耳は幻風の顔を見た。
「これでわしの仕事も、終了じゃ」
幻風が走耳に笑いかけた。殺気はどこへやら、いつの間にかその顔は元の好々爺に戻っている。
「あいつは相当な剣の達人でな、お前さんとわしだけでは太刀打ちが難しいと思って奴の隙を狙っていたのだ。あれほどの達人の前では手加減した偽りの太刀筋は見抜かれる、悪かったがお前さんも騙すしかなかった。しかし、地塩が脱獄計画を看破してわしらの所に報告しに来た時には肝を冷やしたぞ」
まだ事態が飲み込めない走耳は眉をひそめて幻風の方を見ている。
「わしは敵ではない。お前さんの殺害を引き受けたのも、お前さんを守るためじゃ。しかし殺害依頼が舞い込んできた時にはびっくりしたよ。まさか、あの坊やと再会できるとは思ってもいなかったからな」
「再会?」
「覚えてないのも無理はない。まだお前さんが乳飲み子のころ、母上と一緒にわしらはしばらくの間旅をしたのだ」
幻風の脳裏には遠き日の胸の疼きがよみがえる。
「共に、旅をした――」
走耳は記憶の糸をたどるが、幼い日の記憶は霧の奥に消え去っている。
だが思い起こせば、幻風には会った時からなぜか警戒を解いていた自分がいた。
笑い漏斗の幻風。まるで閉ざした心を開ける魔法のカギを携えているかのように、彼の笑い声は初めから滑り込むように心の内に入ってきた。
ああ。
走耳の耳の奥で、突然少し若い幻風の笑い声が蘇る。
もしかして自分は声を覚えていたのか。
「お前さんの母上とはちょっとした
「縁? もしかしてあんたは――」
それには答えず、幻風は悪戯っぽい目で走耳を見た。
「ジェズムによろしくと伝えてくれ。さあ、行け」
幻風は錠前に腰についていた鍵を差し込み門を開ける。
そしてまだ話したそうにしている走耳を促すと、二人を門の外に押し出した。
幻風は、麗射と獄長の方を振り向く。深手とはいえ武人の端くれである獄長は、気力で麗射をひっくり返すと足で突き飛ばし、砂地に刺さっていた刀を引き抜いた。そして血しぶきで染まった顔に憤怒の形相を浮かべ、門前の幻風に切りかかった。
「このおいぼれがっ」
獄長の刃が、振り下ろされる。しかし、多量の出血のためか刃先に勢いがない。
それに気が付いたか、幻風は薄笑いを浮かべながらまるで花びらが舞うような軽やかな跳躍で刃先をかわす。そして間髪入れず美しい円弧を描きながら鋭いけりを相手の前頭部に繰り出した。獄長の頭は反動で激しく門扉にぶつかり、手から大刀が抜ける。
「この意地汚いサソリめ。自らの刃で
意識を失い足下に崩れ落ちた獄長めがけて、呪いの言葉を吐くと幻風がとどめとばかり獄長の刀を振りあげた。
「待て、待ってくれ」
声の方を振り向くとよろよろと立ち上がった麗射がかぶりを振っている。
「頼む、殺さないでくれ幻風」
幻風は眉をひそめた。
「今ここで命を絶たないと、後々禍根を残すことになろう」
「やめてくれ。俺は、誰にも殺人者になって欲しくはないんだ」
「心配ない、走耳を殺そうとした
幻風はこともなげに言う。
「魚毒と毒草、拮抗する二つの毒で効果を遅らせたため獄長も毒殺と思わなかったみたいだがな」
幻風は昏倒する獄長を見下ろしてつぶやく。
「こいつは金に目がくらんで無実の若者を殺そうとした。命をとられても文句は言えん」
「だけど幻風、殺されてはいけない人間と、殺されてしかるべき人間。どこに線引きがあるんだ?」
麗射は幻風の横ににじり寄り、刀を持つ腕を抑えた。
「人を裁く権利をいつ天帝から託された? 俺たち人間の命を奪うことができるのはただ天帝のみだ。その禁を破るものは、たとえ人助けをしていてもいつか天から罰せられる」
低い嗚咽が静寂に響く。
「泣いているのか」
麗射が自分のことを思って、獄長の助命を願っていると気が付いた幻風はため息をついた。
「わしのために泣く――か」
松明の光に照らされて、麗射の濡れた瞳が輝いている。
「幸せな目だな」
わしには眩しすぎる。血みどろのどん底を知らぬ青年の無垢な眼光に撃たれ、幻風は思わず目をそらした。
だが、親が、恋人が、親友が――大切なものが
喉元まで来た言葉を幻風は飲み込んだ。
若いのだ、この男は。しかしこういう男こそがそのうち否応なしに人生の業火に焼かれ、荒波に打たれ、心を裂かれて、荒れ狂う魂へと変貌するのだろう。
「煉州で起こった反乱はいずれすべての国を巻き込んだ戦乱へと発展するだろう。原野をさまよう野獣の記憶を呼び覚まさねば生きられぬ時代が迫っている、そのときお主は――」
幻風の言葉が途切れた。
「獄長殿ーっ」
呼び声とともにいくつものかがり火が揺れている。
地塩が帰らぬ獄長を不審に思い、獄吏を引き連れて探しに来たらしい。
「もうここには用はない。お前も来い」
幻風はそそくさと刀を鞘に納め、門の外をうかがった。
「俺は残ります」
麗射の言葉に、老人の目が丸くなる。
「馬鹿な。すべての罪をなすりつけられるぞ」
「罪を償った後に晴れてここから出たいんです。そしていつの日かまた美術工芸学院の試験を受けたい」
「美術工芸学院には、罪人に開けられた門はない」
麗射は黙って微笑んだ。その目は誰の言葉も聞かない頑固さを秘めている。
この男を突き動かすのは地を走る溶岩にも似た熱情だ。わが身をも顧みない、時にはわが身さえも焼き尽くすことを是とするほどの強い思い。
幻風はため息をついた。
「お前、脱獄のすべての責を負うつもりだな」
「追手が来る、早く行ってください」
幻風の問いには答えず、麗射はあけ放たれた門を指さした。
「天帝の慈悲がお主に降り注がんことを」
幻風はそう呟くと、くるりと背中を向けて走り去った。
麗射は鍵を閉め、掲げてあった松明を手に持つ。
かがり火を持った一団のざわめきが聞こえてきた。あたりが急に明るくなり、走り寄る足音が大きくなる。
麗射は松明を高く掲げながら門とは反対の方に走り出した。
「獄長殿、しっかりしてください」
闇の中で叫ぶ声が聞こえる。
「門は閉まっているぞ」
その声でほとんどの追手は松明を追ってきた。
しばらく獄中を走っていた麗射だが、とうとう大きなかがり火に取り囲まれる。
「おまえ、獄長に何をした」
獄吏達は麗射の肩を乱暴につかんで引きずり倒した。そのままがんじがらめに縄をかけて、麗射を牢獄へと引っ立てて行った。
麗射の時間稼ぎは長くはなかったが、闇使いの巧者である走耳が氷炎を連れて逃げおおせるには十分な時間であった。