第75話 穿羽の頼み
文字数 3,543文字
軍に潜り込んだ密偵の逃亡を恐れてか、兵舎と教練用の広場は夜間閉鎖されている。門には番が二人つき、夜通しの警備を行っていた。ここさえ突破すれば、厩まで途中に関門はない。厩で馬を奪ったら一か八かで城塞の大門を突き破って脱出する。今日の夜には斬常を始めとする幹部と屈強な兵士が、反乱軍協力者を迎えるため出立しているので、明け方の大門の警備は手薄になっている可能性がある。
麗射には勝算があった。今晩の兵舎の門番のうち一人は若くて細身、一人は足の遅い巨漢。二人とも麗射が絵に描いたことがある連中だ。絵を描きながら話をした記憶によると若いのは、おっとりしており、巨漢は反乱軍は飢える心配は無いが、走る教練がつらいとこぼしていた。
夜中、営舎周囲の見回りをするため、門番は一人になる時間がある。見回りは若いほうが行くことになっているので、もう一人の巨漢が門を守る。彼ならば麗射が逃げたとしてもすぐには捕まらないであろうし、麗射の逃走には闇が味方してくれるだろう。
待ち合わせの厩舎の周りには木が密集している場所が多く、夜明け前の待ち合わせまでなんとか隠れる場所もあるはずだ。
しかし。
「麗射、頼み事がある」
就寝前の点呼後に、寄ってきたのは弓術隊の穿羽 であった。彼は自尊心の強い弓の名手で、常に孤高を保つ強面の男である。
ついぞ人に頭を下げる姿を見せたことがない男が、今日は神妙な面持ちで麗射を見ている。そういえば、いつも麗射を新入りと呼ぶのに今日は名前だ。
「どうしました」
麗射の声がかすれる。
点呼の後、皆が寝静まったらなんとかうまくこの兵舎を抜け出し、門番がひとり見回りに出たすきに門を出ようとしていた麗射は、思いも寄らない穿羽の声かけに動揺を隠せない。
「そんなにかしこまらなくても、弓術の指導じゃないんだ、力を抜け」
そう言うと、穿羽は指の付け根に弓術だこの盛り上がった掌を見せた。
その上には光沢のある白い平たい石が載っていた。
「さっききれいな石を見つけたんだ。これという石を見つけたら、お前に描いてもらおうと思っていた」
じっと石を見る麗射に穿羽はいつになく照れたような声で言った。
「里で待っている婚約者をな」
自分の腕に絶対の自信を持ち、いつも孤高を保つこの男が決まり悪そうに笑っている。
「暇な時でいいから、頼む」
「い、いえ。今から描きます」
「もう、遅いからいいぜ」
あたりには早くもそこかしこから寝息が聞こえていた。
「いや、今から描かないと……」
多分もう二度と描く機会がない。穿羽には世話になった。この一見冷血漢に見える男が妙に面倒見がいいのを麗射は身をもって知っている。
麗射はうすいランプの光の下で画材を引っ張り出すと、穿羽に向き直った。
「顔は丸い?細長い?」
「そうだなあ、長すぎず、丸すぎず、ちょうどいいって感じだな。目は細い月のようで、唇は夕焼けの色だ」
穿羽は永芳が子供の絵を描いてもらうときに、親馬鹿だと笑っていたが、彼もいい勝負だ。
「鼻はな……」
穿羽は夜空に向かい、星に視線をさまよわせる。
この夜空にきっと婚約者の顔が浮かんでいるのだろう。
「銀嶺 の山のように高くて、そうだなあ、つんとした感じだ。一見気が強そうに見えるが、情の深い、いい女なんだ」
穿羽のうれしそうな顔を見ながら、麗射は一筆一筆丁寧に仕上げていった。焦る気持ちと、もう少しかき込みたいという気持ちが麗射のうちでせめぎ合う。
ついに麗射の中で折り合いが付いたのは夜もかなり更けてからだった。
「穿羽、これでどうだい」
やっと納得のいくできになり、絵筆を置いた麗射は、傍らで穿羽が幸せそうな寝顔で横になっているのに気がついた。麗射はそっと石を穿羽の顔の横に置いた。
一番鶏の鳴く声がする。
しまった。絵を描き始めると時間の感覚がなくなる麗射は、自分が思わず時間を過ごしてしまっていたことに気がついた。門番の見回りはすでに終わっているだろう。
走耳は夜明け前の看守の注意力が一番散漫な時を狙うと言っていた。もう時間が無い。厩 に向かわなくては。
そそくさと、立ち上がり兵舎を離れようとしたとき、穿羽がむくりと起き上がった。
ギクリと身を固くする麗射。
「ありがとよ、大切にするぜ」
そういうと、弓の達人は石を懐に入れると再びばたりと眠りこけてしまった。
麗射は薄い戸を開いて、そっと兵舎を抜け出す。兵舎の外壁に描いた兵士がまるで見送るかのように並んでいる。彼はそっと一礼した。
幸いにしてあたりはまだ暗い。
兵舎の陰からそっと伺うとかがり火に照らされた門兵は二人、眠そうに目をこすっている。一人は若く、そして一人は巨漢。
幸い二人とも屈強と言えるほどではない。不意をついて殴り倒せばなんとかなりそうであった。麗射は右手の拳を握りしめる。戦闘本能を呼び覚ますがごとく、ひとりでに麗射の息が大きくなった。
しかし。
ひとときといえ仲間であった者達である。麗射の足は地面に吸い付いたように踏み出せない。
ならば、訳を話して出してもらうか。
いや、いったい誰がそれを信じるだろう。第一それで通すようなら何のための門番だ。密偵だと判断されて、声を上げられればそれでおしまいだ。
何か気をそらすことができれば。幸い足には自信がある。なんとか気をそらして、そのすきに暗闇の中に駆け抜けることができれば。
先ほどまで闇の底に沈んでいた山の稜線が、ほんのりと浮き上がってきた。
もう、時間が無い。麗射の背中に汗が流れる。
ふと、記憶の底に押し込めていた氷炎の言葉が響いた。
『私の名前が役に立つことがあれば、いつでもどんなことにでも使ってくれ』
氷炎に少なからず迷惑がかかるかもしれない。が、もう手段は他にはない。自分には清那を助けないと行けないという使命があるんだ。
ごくり、麗射はつばを飲む。
「お、おい」
麗射の呼びかけに二人の門番が振り返り、目を丸くした。
「どうした麗射」
「氷炎先生から呼び出しだ」
門番の一人が額にしわを寄せる。
「こんな夜更けにか? おまえ寝ぼけているんじゃあるまいな」
「急がないと、至急の呼び出しなんだ」
血相を変えた麗射の顔に、兵士が眉をひそめる。
「いつそんな連絡があったんだ?」
「開門する夜明けまで待てよ。第一、氷炎先生は今ここにおられないはずだ」
「帰ってこられたんだよ、急遽。頼む、出してくれ」
門番二人は怪訝そうに麗射を見た。
いったん昇り始めた陽は速い、押し問答の間に、周辺ははすでに灯火なしでもお互いがぼんやりと見えるくらい薄明るくなっている。
「すまん、通してくれ」
押しのけて無理矢理通ろうとしたそのとき。彼方から土煙を上げて男が駆けつけてきた。体中にツタが絡まっている泥だらけの男は、何か大声で叫んでいるがはっきりとわからない。
「門、門を開けろ」
宮殿の方に勤務する位の高い兵だと気がついた二人は慌てて門の鍵を開ける。
男のほうに二人の注意が取られた瞬間、麗射は二人の横をすり抜けて門の外に出た。
「お、おい待てよ、 麗射」
若い門番が声をかけたが走り寄ってくる男に気を取られて本気で追ってきていない
「捕まえろっ、麗射を捕まえろっ」
男の声が響き、二人は飛び上がった。
すでに麗射はまだ闇の残る彼方に走り去っていた。
「麗射はイラム様をたぶらかし、囚人の脱走をもくろむ我らの敵だ」
門番が笛を吹く。夜明けの冷たい空気を引き裂いてその音は四方に響き渡った。
「総員起きろ、裏切り者を捕まえろっ」
兵舎は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「何が起こったんだよ」
目をこすりながら穿羽がぼやく。
「麗射だよ、麗射。裏切り者だったんだ」
駆け込んできた兵士が怒鳴る。
「何?」
思わず懐に手を突っ込むと、婚約者の似顔絵が描いてある石が触れた。
まさか。穿羽が見回すも、麗射が居ない。
「逃げ出したんだとよ」
「そういやあ、あいつなんだか叡州に攻め入る話に文句を付けてやがったな」
「氷炎先生も騙されていたってことか?」
兵士達は起きたそのままの格好で武器を持ち、兵舎の外に飛び出した。
「ちっ、まんまとはめられたぜ」
どうりで昨夜はなんだかそわそわしていた。逃げ出す算段をしていたのか。
穿羽は悪態をつきながら弓矢を手にする。麗射が見つかったら弓術隊を率いる彼にお呼びがかかることは明白だった。
「どうしたんだ?」
傍らの永芳の顔色が暗いのに気がついた穿羽が尋ねる。
「あいつな、行方知れずの弟分を探しにここに来ていたんだ」
穿羽は懐に手をやって石を取り出す。
彼の婚約者の似顔絵は隙間無く丁寧に塗り込まれていた。
麗射捕縛の号令がかかる。
「くそっ、行くぞ」
穿羽は蹴破るようにして兵舎の戸を開けると飛び出した。
麗射には勝算があった。今晩の兵舎の門番のうち一人は若くて細身、一人は足の遅い巨漢。二人とも麗射が絵に描いたことがある連中だ。絵を描きながら話をした記憶によると若いのは、おっとりしており、巨漢は反乱軍は飢える心配は無いが、走る教練がつらいとこぼしていた。
夜中、営舎周囲の見回りをするため、門番は一人になる時間がある。見回りは若いほうが行くことになっているので、もう一人の巨漢が門を守る。彼ならば麗射が逃げたとしてもすぐには捕まらないであろうし、麗射の逃走には闇が味方してくれるだろう。
待ち合わせの厩舎の周りには木が密集している場所が多く、夜明け前の待ち合わせまでなんとか隠れる場所もあるはずだ。
しかし。
「麗射、頼み事がある」
就寝前の点呼後に、寄ってきたのは弓術隊の
ついぞ人に頭を下げる姿を見せたことがない男が、今日は神妙な面持ちで麗射を見ている。そういえば、いつも麗射を新入りと呼ぶのに今日は名前だ。
「どうしました」
麗射の声がかすれる。
点呼の後、皆が寝静まったらなんとかうまくこの兵舎を抜け出し、門番がひとり見回りに出たすきに門を出ようとしていた麗射は、思いも寄らない穿羽の声かけに動揺を隠せない。
「そんなにかしこまらなくても、弓術の指導じゃないんだ、力を抜け」
そう言うと、穿羽は指の付け根に弓術だこの盛り上がった掌を見せた。
その上には光沢のある白い平たい石が載っていた。
「さっききれいな石を見つけたんだ。これという石を見つけたら、お前に描いてもらおうと思っていた」
じっと石を見る麗射に穿羽はいつになく照れたような声で言った。
「里で待っている婚約者をな」
自分の腕に絶対の自信を持ち、いつも孤高を保つこの男が決まり悪そうに笑っている。
「暇な時でいいから、頼む」
「い、いえ。今から描きます」
「もう、遅いからいいぜ」
あたりには早くもそこかしこから寝息が聞こえていた。
「いや、今から描かないと……」
多分もう二度と描く機会がない。穿羽には世話になった。この一見冷血漢に見える男が妙に面倒見がいいのを麗射は身をもって知っている。
麗射はうすいランプの光の下で画材を引っ張り出すと、穿羽に向き直った。
「顔は丸い?細長い?」
「そうだなあ、長すぎず、丸すぎず、ちょうどいいって感じだな。目は細い月のようで、唇は夕焼けの色だ」
穿羽は永芳が子供の絵を描いてもらうときに、親馬鹿だと笑っていたが、彼もいい勝負だ。
「鼻はな……」
穿羽は夜空に向かい、星に視線をさまよわせる。
この夜空にきっと婚約者の顔が浮かんでいるのだろう。
「
穿羽のうれしそうな顔を見ながら、麗射は一筆一筆丁寧に仕上げていった。焦る気持ちと、もう少しかき込みたいという気持ちが麗射のうちでせめぎ合う。
ついに麗射の中で折り合いが付いたのは夜もかなり更けてからだった。
「穿羽、これでどうだい」
やっと納得のいくできになり、絵筆を置いた麗射は、傍らで穿羽が幸せそうな寝顔で横になっているのに気がついた。麗射はそっと石を穿羽の顔の横に置いた。
一番鶏の鳴く声がする。
しまった。絵を描き始めると時間の感覚がなくなる麗射は、自分が思わず時間を過ごしてしまっていたことに気がついた。門番の見回りはすでに終わっているだろう。
走耳は夜明け前の看守の注意力が一番散漫な時を狙うと言っていた。もう時間が無い。
そそくさと、立ち上がり兵舎を離れようとしたとき、穿羽がむくりと起き上がった。
ギクリと身を固くする麗射。
「ありがとよ、大切にするぜ」
そういうと、弓の達人は石を懐に入れると再びばたりと眠りこけてしまった。
麗射は薄い戸を開いて、そっと兵舎を抜け出す。兵舎の外壁に描いた兵士がまるで見送るかのように並んでいる。彼はそっと一礼した。
幸いにしてあたりはまだ暗い。
兵舎の陰からそっと伺うとかがり火に照らされた門兵は二人、眠そうに目をこすっている。一人は若く、そして一人は巨漢。
幸い二人とも屈強と言えるほどではない。不意をついて殴り倒せばなんとかなりそうであった。麗射は右手の拳を握りしめる。戦闘本能を呼び覚ますがごとく、ひとりでに麗射の息が大きくなった。
しかし。
ひとときといえ仲間であった者達である。麗射の足は地面に吸い付いたように踏み出せない。
ならば、訳を話して出してもらうか。
いや、いったい誰がそれを信じるだろう。第一それで通すようなら何のための門番だ。密偵だと判断されて、声を上げられればそれでおしまいだ。
何か気をそらすことができれば。幸い足には自信がある。なんとか気をそらして、そのすきに暗闇の中に駆け抜けることができれば。
先ほどまで闇の底に沈んでいた山の稜線が、ほんのりと浮き上がってきた。
もう、時間が無い。麗射の背中に汗が流れる。
ふと、記憶の底に押し込めていた氷炎の言葉が響いた。
『私の名前が役に立つことがあれば、いつでもどんなことにでも使ってくれ』
氷炎に少なからず迷惑がかかるかもしれない。が、もう手段は他にはない。自分には清那を助けないと行けないという使命があるんだ。
ごくり、麗射はつばを飲む。
「お、おい」
麗射の呼びかけに二人の門番が振り返り、目を丸くした。
「どうした麗射」
「氷炎先生から呼び出しだ」
門番の一人が額にしわを寄せる。
「こんな夜更けにか? おまえ寝ぼけているんじゃあるまいな」
「急がないと、至急の呼び出しなんだ」
血相を変えた麗射の顔に、兵士が眉をひそめる。
「いつそんな連絡があったんだ?」
「開門する夜明けまで待てよ。第一、氷炎先生は今ここにおられないはずだ」
「帰ってこられたんだよ、急遽。頼む、出してくれ」
門番二人は怪訝そうに麗射を見た。
いったん昇り始めた陽は速い、押し問答の間に、周辺ははすでに灯火なしでもお互いがぼんやりと見えるくらい薄明るくなっている。
「すまん、通してくれ」
押しのけて無理矢理通ろうとしたそのとき。彼方から土煙を上げて男が駆けつけてきた。体中にツタが絡まっている泥だらけの男は、何か大声で叫んでいるがはっきりとわからない。
「門、門を開けろ」
宮殿の方に勤務する位の高い兵だと気がついた二人は慌てて門の鍵を開ける。
男のほうに二人の注意が取られた瞬間、麗射は二人の横をすり抜けて門の外に出た。
「お、おい待てよ、 麗射」
若い門番が声をかけたが走り寄ってくる男に気を取られて本気で追ってきていない
「捕まえろっ、麗射を捕まえろっ」
男の声が響き、二人は飛び上がった。
すでに麗射はまだ闇の残る彼方に走り去っていた。
「麗射はイラム様をたぶらかし、囚人の脱走をもくろむ我らの敵だ」
門番が笛を吹く。夜明けの冷たい空気を引き裂いてその音は四方に響き渡った。
「総員起きろ、裏切り者を捕まえろっ」
兵舎は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「何が起こったんだよ」
目をこすりながら穿羽がぼやく。
「麗射だよ、麗射。裏切り者だったんだ」
駆け込んできた兵士が怒鳴る。
「何?」
思わず懐に手を突っ込むと、婚約者の似顔絵が描いてある石が触れた。
まさか。穿羽が見回すも、麗射が居ない。
「逃げ出したんだとよ」
「そういやあ、あいつなんだか叡州に攻め入る話に文句を付けてやがったな」
「氷炎先生も騙されていたってことか?」
兵士達は起きたそのままの格好で武器を持ち、兵舎の外に飛び出した。
「ちっ、まんまとはめられたぜ」
どうりで昨夜はなんだかそわそわしていた。逃げ出す算段をしていたのか。
穿羽は悪態をつきながら弓矢を手にする。麗射が見つかったら弓術隊を率いる彼にお呼びがかかることは明白だった。
「どうしたんだ?」
傍らの永芳の顔色が暗いのに気がついた穿羽が尋ねる。
「あいつな、行方知れずの弟分を探しにここに来ていたんだ」
穿羽は懐に手をやって石を取り出す。
彼の婚約者の似顔絵は隙間無く丁寧に塗り込まれていた。
麗射捕縛の号令がかかる。
「くそっ、行くぞ」
穿羽は蹴破るようにして兵舎の戸を開けると飛び出した。