第83話 天青切
文字数 4,097文字
ベッドの上の牙蘭は時折腰を押さえながら、試すように足を動かしている。先ほどまで全く動かなかった足も次第に感覚が戻ってきているようだ。
「清那。お前、この用心棒でよく生きていたな」
走耳は首をかしげた。
「こんな純真な武人、命がいくらあっても足らないぜ」
あの会食の最後。走耳はふざけて牙蘭の腰を触るまねをして、牙蘭の腰骨の一番上の高さにある背骨を探った。そして背骨の間のへこみに、指につけたサボテンの香水をすり込んだ。サボテン鳥の嗅覚は並外れている、万が一牙蘭が部屋で服を着替えても、かすかな香りがキュリルに刺す位置を教えてくれるはずだった。
会食後、走耳は部屋に帰って酒と食塩水で清めたキュリルのくちばしに強いしびれ薬をたっぷりと塗った。サボテンの花の蜜を吸う鳥は、細長くて鋭いくちばしと細長い舌を持っている。くちばしにしびれ薬を塗って背骨の隙間から打ち込ませれば、程なく下半身がしびれて利かなくなるという方法は、以前何かのおりに幻風から聞いたことがあった。わざと軽装で行ったのは、もし牙蘭が防具を着込んでいても、走耳の姿を見れば脱ぐに違いないという確信があったからだ。
後は相手が自分に斬りかかり、背骨の隙間が開いて刺しやすくなった瞬間にキュリルに合図を送るだけ。もし上手くいかないときは、さっさと広場から逃げ出す予定であった。
「しかし、徒手空拳で来ているなんて、普通おかしいと思うだろうさ。武芸にいくら自信があるかしらないが、あまりに無警戒なんでびっくりしたぜ」
走耳は肩をすくめる。
「そんな風に言うな。私の事になれば、鬼にも魔にもなってくれる優秀な士 だ」
清那がチラリと走耳をにらむ。
「ありがとうございます、清那様。しかし、私は自分の至らなさを思い知らされました。おのれの矜持 にこだわるあまり、勝つ事への執着が薄れておりました。走耳殿のほうが、護衛としては有能です」
さみしそうに目を伏せる牙蘭。清那は牙蘭から目を逸らす。常に身を挺して自分を守ってくれた忠臣との別れが近づいている。熱くなる目を悟られまいと、そっぽを向いているふりをして彼は走耳に話しかける。
「と、言うわけだ、走耳。給料ははずむ。もう盗みをする必要も無いから君も楽だろう。これからよろしく頼む」
清那が頭を下げた。
一瞬の間があったが、走耳は何かを飲み込むような声で「ああ」と告げた。
数日後、牙蘭が剴斗に召し抱えられたとの報が飛び込んできた。清那から暇を出されたという噂を聞きつけた剴斗が是非にと頭を下げたらしい。そしてすぐさま、また別の吉報ももたらされた。
「しかし、清那。勤め先が決まったら間髪入れず結婚してしまうなんて、牙蘭もやるなあ。それもあんな絶世の美人と……」
麗射は朝食のゆで卵を頬張りながら、満面の笑顔で清那に話しかける。昨夜の煌露 との結婚式は剴斗媒酌 の元で華々しく開かれ、逞 しい新郎と神々しいほど美しい新婦はともすれば反乱軍の話題で曇りがちな人々の顔に笑みを取り戻した。
「将というものは、いつ何時命を失うかも知れません。運命の相手に巡り会ったらすぐに行動に移せというのは、将たる者の心得です」
「しかし、すべてお前の思い通りに話が進んだな」
「別に、なるようになっただけですよ」
清那は温野菜を口に運びながら首を振った。「牙蘭を私だけの侍衛 で埋もれさせるのは、申し訳ないと思っていました。彼は千人、いや一万人の将になってもやっていける男ですから。本当に喜ばしいことです。願っていましたから、本当に……」
自分に言い聞かせるように繰り返された語尾が虚空に消えていく。清那は無表情を保っている。しかし、目の縁がほんのりと赤い事に麗射は気づいていた。
こほん、と咳払いをして麗射が清那の顔をのぞき込んだ。
「お、俺が、お前を守ってやる。走耳のように命は守れないが、俺はお前の心を守ってやる。悩みがあったらいつでも俺に言え。いいか、遠慮するな」
頬を赤く染めて、鼻を膨らませて宣言する麗射。その顔を見て、公子は思わず噴き出した。
「なんだよ、俺は真面目に言ったのに」
「いえ、ありがとうございます」
清那はくっくっ、と小さく笑う。
私の一番の心配はあなただ。暗闇の中でさえ、あなたの事を考えていた。いつも危険に引き寄せられていくあなたが気になって仕方ないのが悩みなのに、どうやって相談しろと?
清那の心の憂いは、まだはっきりとした形を取っていない。だが、麗射よりもある意味精神的に大人である彼は、なんとなく自分が麗射に抱く気持ちがどういったものなのかに気がつき始めていた。
美術工芸院への帰還を数日後に控えたある日。
剴斗お抱えの武人に与えられた邸内の部屋から出てきた牙蘭と食堂から出てきた麗射は、陽光あふれる回廊でばったりと行き会った。結婚式からこっち、全然姿を見なかった牙蘭に麗射は駆け寄る。たしか煌露と牙蘭は挙式後しばらく休暇をもらったはずであった。
「元気だったか」
「ええ、麗射様もお元気そうで何よりです」
満面の笑みで答える牙蘭だが、その目の下にはうっすらと黒い隈ができている。
「牙蘭、ちゃんと寝ているのか?」
牙蘭は頭をかいて恥ずかしそうに笑った。
「いや睦事 が楽しくて、最近はまともに寝ておりません。煌露が悦 ぶものですからついついこちらも熱が入り、二人とも終始夢の中でとろけているような日々でして」
筋骨隆々とした武人は、わはははと大声で笑った。
「すごいな、牙蘭が言うと全然いやらしくない」
唖然として麗射は牙蘭を見上げる。
「何を隠すことがあるのでしょうか、女性が求めるものを身を尽くして捧げるのが男としての甲斐性ですから」
再びあっけらかんとして笑う牙蘭。清那の従者であった時と比べ口数も増え、何か解き放たれたような雰囲気を纏 っていた。
「あ、走耳殿」
食堂から出てきた走耳をめざとく見つけると牙蘭は大きく手を振った。
走耳は口元を少し上げて笑顔を作ると二人に近づいてきた。
「元気そうで安心したぜ、足は大丈夫か」
「ええ、体は万全、房事 も絶好調です」
「あ、ああ。それは良かった」
思いがけない返答に、走耳の耳が赤くなる。この手の話題は苦手らしい。
「それはそうと試合中の暴言、誠にご無礼をいたしました」
深々と頭を下げる牙蘭。怪訝そうにその頭頂部を見る走耳。
「あれからいろいろとあの試合について考えました。最初はなぜ堂々と戦わないのか腹も立ちました。あなたの跳躍力、観察力、敏捷性があれば、キュリルを使わずに私の剣を躱 し体術だけで私を打ち倒すことも可能であったからです」
「はあ?」走耳は額に皺を寄せる。「勝てねえよ」
「あなたは皆にわかるようにわざと汚い手を使った。もし自分が勝つと私の顔に泥を塗ることになると思ったのでしょう。それにあの時あなたが望めば、禍根を残さないために私を半死半生の体にすることもできた。キュリルのくちばしを私の首のくぼみに刺せばいいだけですから」
「首に刺せばどうなるんだ?」麗射が首をかしげる。
「体の多くの部分が麻痺して動かなくなります。刺しどころによっては死んでいたでしょう。首のツボは恐ろしいのです。後で復讐できないように私の首を刺し体を壊しておく選択もあったでしょう。しかし走耳殿はそれをせずに、刺し場所としては難しい腰を狙った。私が今元通りに動けているのは、そのおかげです」
「お前、想像がたくましい奴だな」
走耳が肩をすくめる。「俺はそんなにいい奴じゃないぜ」
「いや、底抜けにいい奴だよ。お前は」麗射が背中をたたく。「それは俺がよく知ってる」
「お人好しの底抜け善良馬鹿に言われたくないぜ」
走耳はそっぽを向いてつぶやく。「ちぇっ、お前の馬鹿が伝染しちまったかな……」
「照れてるんだぜ、こいつ」麗射はそっと牙蘭に告げた。
「走耳殿あなたは勇敢な方だ。私は最初、天青切を出せばあなたが臆して試合を辞退するかと思った。しかし、あなたはこの剣の威力を知っていながら素手で戦いの場に現れた」
じっと走耳を見る牙蘭の目には尊敬の念があふれている。
「あ、そうだ。しばらくここでお待ちください」
牙蘭は、そう告げると、大股で自室に帰っていった。
しばらくして戻ってきた彼が手にしていたのは、青い鞘に入った剣と袋であった。
「天青切 ……」
二人は息をのむ。それは牙蘭が命よりも大切にしている、先祖代々伝わってきた剣であった。霧亜の剣をたたき切ったその活躍は今でも館の武人達の語り草だ。
彼はそれを何の躊躇 も無く走耳に差し出した。
「何のまねだ」
走耳は後ずさる。
「あなたに託したいのです。これは古 の名剣。空から落ちた龍を哀れんだ天帝が天人 を使わし青い鱗 から作ったと言い伝えられています。固いことこの上なし、上手く当てれば切れない物はありません」
「俺にくれたって、力の持ち腐れだぜ。刀を使わねえんだから」
「体術では、対応する敵の数が限られます。あなたがこの古剣を持てば、敵が何人居ても清那様をお守りいただけるでしょう」
彼は有無を言わせず、剣を走耳に握らせた。そして、一緒に持ってきた袋を差し出す。
「この袋の中の粉でしかこの剣は研げません。この粉は叡州の、とある山でしか産出しないのです。またその場所は後でお教えいたしましょう」
「そんなに大切な物は困る。俺は何も持たないのが身上なんだ」
「これからはお持ちください」
そう言うと牙蘭は、走耳が壊れ物を持つように捧げている剣を掴むと、走耳の胸にぐっと押し当てた。
「人は守るべき物を持ったときに本当に強くなれます。人に対しても、そして自分に対しても」
牙蘭は青年に微笑みかけた。
「お願いします、お持ちください。返さないのが煉州の礼儀です」
「わかったよ、牙蘭。ありがたくいただくとしよう」走耳は剣を握りしめてつぶやいた。
「そうと決まれば、さあ行きましょう。私もこのなまった体をなんとかしなければ」
「はあ?」走耳は目を丸くする。「どこに行くんだ?」
「今から剣の特訓です。あなたがたの出発まで数日しかありませんから、容赦はしませんよ」
牙蘭は隈のある顔でニヤリと笑った。
「清那。お前、この用心棒でよく生きていたな」
走耳は首をかしげた。
「こんな純真な武人、命がいくらあっても足らないぜ」
あの会食の最後。走耳はふざけて牙蘭の腰を触るまねをして、牙蘭の腰骨の一番上の高さにある背骨を探った。そして背骨の間のへこみに、指につけたサボテンの香水をすり込んだ。サボテン鳥の嗅覚は並外れている、万が一牙蘭が部屋で服を着替えても、かすかな香りがキュリルに刺す位置を教えてくれるはずだった。
会食後、走耳は部屋に帰って酒と食塩水で清めたキュリルのくちばしに強いしびれ薬をたっぷりと塗った。サボテンの花の蜜を吸う鳥は、細長くて鋭いくちばしと細長い舌を持っている。くちばしにしびれ薬を塗って背骨の隙間から打ち込ませれば、程なく下半身がしびれて利かなくなるという方法は、以前何かのおりに幻風から聞いたことがあった。わざと軽装で行ったのは、もし牙蘭が防具を着込んでいても、走耳の姿を見れば脱ぐに違いないという確信があったからだ。
後は相手が自分に斬りかかり、背骨の隙間が開いて刺しやすくなった瞬間にキュリルに合図を送るだけ。もし上手くいかないときは、さっさと広場から逃げ出す予定であった。
「しかし、徒手空拳で来ているなんて、普通おかしいと思うだろうさ。武芸にいくら自信があるかしらないが、あまりに無警戒なんでびっくりしたぜ」
走耳は肩をすくめる。
「そんな風に言うな。私の事になれば、鬼にも魔にもなってくれる優秀な
清那がチラリと走耳をにらむ。
「ありがとうございます、清那様。しかし、私は自分の至らなさを思い知らされました。おのれの
さみしそうに目を伏せる牙蘭。清那は牙蘭から目を逸らす。常に身を挺して自分を守ってくれた忠臣との別れが近づいている。熱くなる目を悟られまいと、そっぽを向いているふりをして彼は走耳に話しかける。
「と、言うわけだ、走耳。給料ははずむ。もう盗みをする必要も無いから君も楽だろう。これからよろしく頼む」
清那が頭を下げた。
一瞬の間があったが、走耳は何かを飲み込むような声で「ああ」と告げた。
数日後、牙蘭が剴斗に召し抱えられたとの報が飛び込んできた。清那から暇を出されたという噂を聞きつけた剴斗が是非にと頭を下げたらしい。そしてすぐさま、また別の吉報ももたらされた。
「しかし、清那。勤め先が決まったら間髪入れず結婚してしまうなんて、牙蘭もやるなあ。それもあんな絶世の美人と……」
麗射は朝食のゆで卵を頬張りながら、満面の笑顔で清那に話しかける。昨夜の
「将というものは、いつ何時命を失うかも知れません。運命の相手に巡り会ったらすぐに行動に移せというのは、将たる者の心得です」
「しかし、すべてお前の思い通りに話が進んだな」
「別に、なるようになっただけですよ」
清那は温野菜を口に運びながら首を振った。「牙蘭を私だけの
自分に言い聞かせるように繰り返された語尾が虚空に消えていく。清那は無表情を保っている。しかし、目の縁がほんのりと赤い事に麗射は気づいていた。
こほん、と咳払いをして麗射が清那の顔をのぞき込んだ。
「お、俺が、お前を守ってやる。走耳のように命は守れないが、俺はお前の心を守ってやる。悩みがあったらいつでも俺に言え。いいか、遠慮するな」
頬を赤く染めて、鼻を膨らませて宣言する麗射。その顔を見て、公子は思わず噴き出した。
「なんだよ、俺は真面目に言ったのに」
「いえ、ありがとうございます」
清那はくっくっ、と小さく笑う。
私の一番の心配はあなただ。暗闇の中でさえ、あなたの事を考えていた。いつも危険に引き寄せられていくあなたが気になって仕方ないのが悩みなのに、どうやって相談しろと?
清那の心の憂いは、まだはっきりとした形を取っていない。だが、麗射よりもある意味精神的に大人である彼は、なんとなく自分が麗射に抱く気持ちがどういったものなのかに気がつき始めていた。
美術工芸院への帰還を数日後に控えたある日。
剴斗お抱えの武人に与えられた邸内の部屋から出てきた牙蘭と食堂から出てきた麗射は、陽光あふれる回廊でばったりと行き会った。結婚式からこっち、全然姿を見なかった牙蘭に麗射は駆け寄る。たしか煌露と牙蘭は挙式後しばらく休暇をもらったはずであった。
「元気だったか」
「ええ、麗射様もお元気そうで何よりです」
満面の笑みで答える牙蘭だが、その目の下にはうっすらと黒い隈ができている。
「牙蘭、ちゃんと寝ているのか?」
牙蘭は頭をかいて恥ずかしそうに笑った。
「いや
筋骨隆々とした武人は、わはははと大声で笑った。
「すごいな、牙蘭が言うと全然いやらしくない」
唖然として麗射は牙蘭を見上げる。
「何を隠すことがあるのでしょうか、女性が求めるものを身を尽くして捧げるのが男としての甲斐性ですから」
再びあっけらかんとして笑う牙蘭。清那の従者であった時と比べ口数も増え、何か解き放たれたような雰囲気を
「あ、走耳殿」
食堂から出てきた走耳をめざとく見つけると牙蘭は大きく手を振った。
走耳は口元を少し上げて笑顔を作ると二人に近づいてきた。
「元気そうで安心したぜ、足は大丈夫か」
「ええ、体は万全、
「あ、ああ。それは良かった」
思いがけない返答に、走耳の耳が赤くなる。この手の話題は苦手らしい。
「それはそうと試合中の暴言、誠にご無礼をいたしました」
深々と頭を下げる牙蘭。怪訝そうにその頭頂部を見る走耳。
「あれからいろいろとあの試合について考えました。最初はなぜ堂々と戦わないのか腹も立ちました。あなたの跳躍力、観察力、敏捷性があれば、キュリルを使わずに私の剣を
「はあ?」走耳は額に皺を寄せる。「勝てねえよ」
「あなたは皆にわかるようにわざと汚い手を使った。もし自分が勝つと私の顔に泥を塗ることになると思ったのでしょう。それにあの時あなたが望めば、禍根を残さないために私を半死半生の体にすることもできた。キュリルのくちばしを私の首のくぼみに刺せばいいだけですから」
「首に刺せばどうなるんだ?」麗射が首をかしげる。
「体の多くの部分が麻痺して動かなくなります。刺しどころによっては死んでいたでしょう。首のツボは恐ろしいのです。後で復讐できないように私の首を刺し体を壊しておく選択もあったでしょう。しかし走耳殿はそれをせずに、刺し場所としては難しい腰を狙った。私が今元通りに動けているのは、そのおかげです」
「お前、想像がたくましい奴だな」
走耳が肩をすくめる。「俺はそんなにいい奴じゃないぜ」
「いや、底抜けにいい奴だよ。お前は」麗射が背中をたたく。「それは俺がよく知ってる」
「お人好しの底抜け善良馬鹿に言われたくないぜ」
走耳はそっぽを向いてつぶやく。「ちぇっ、お前の馬鹿が伝染しちまったかな……」
「照れてるんだぜ、こいつ」麗射はそっと牙蘭に告げた。
「走耳殿あなたは勇敢な方だ。私は最初、天青切を出せばあなたが臆して試合を辞退するかと思った。しかし、あなたはこの剣の威力を知っていながら素手で戦いの場に現れた」
じっと走耳を見る牙蘭の目には尊敬の念があふれている。
「あ、そうだ。しばらくここでお待ちください」
牙蘭は、そう告げると、大股で自室に帰っていった。
しばらくして戻ってきた彼が手にしていたのは、青い鞘に入った剣と袋であった。
「
二人は息をのむ。それは牙蘭が命よりも大切にしている、先祖代々伝わってきた剣であった。霧亜の剣をたたき切ったその活躍は今でも館の武人達の語り草だ。
彼はそれを何の
「何のまねだ」
走耳は後ずさる。
「あなたに託したいのです。これは
「俺にくれたって、力の持ち腐れだぜ。刀を使わねえんだから」
「体術では、対応する敵の数が限られます。あなたがこの古剣を持てば、敵が何人居ても清那様をお守りいただけるでしょう」
彼は有無を言わせず、剣を走耳に握らせた。そして、一緒に持ってきた袋を差し出す。
「この袋の中の粉でしかこの剣は研げません。この粉は叡州の、とある山でしか産出しないのです。またその場所は後でお教えいたしましょう」
「そんなに大切な物は困る。俺は何も持たないのが身上なんだ」
「これからはお持ちください」
そう言うと牙蘭は、走耳が壊れ物を持つように捧げている剣を掴むと、走耳の胸にぐっと押し当てた。
「人は守るべき物を持ったときに本当に強くなれます。人に対しても、そして自分に対しても」
牙蘭は青年に微笑みかけた。
「お願いします、お持ちください。返さないのが煉州の礼儀です」
「わかったよ、牙蘭。ありがたくいただくとしよう」走耳は剣を握りしめてつぶやいた。
「そうと決まれば、さあ行きましょう。私もこのなまった体をなんとかしなければ」
「はあ?」走耳は目を丸くする。「どこに行くんだ?」
「今から剣の特訓です。あなたがたの出発まで数日しかありませんから、容赦はしませんよ」
牙蘭は隈のある顔でニヤリと笑った。