第51話 救出
文字数 3,697文字
「岸から洲まで約150尋 だな」
美蓮がまっすぐに手を伸ばし、指を使って洲までの距離を試算した。150尋というと大人が両手を広げた長さの150倍、濁流を越えていくことを考えれば近い距離ではなかった。
「ここで船を下ろせ。あまり真横に近寄りすぎると、あちらにつく前に船が流れに押されて洲を通り過ぎてしまう。このあたりから徐々に近づく方がいいだろう」
麗射は手をかざして流れを観察した。
「ここは青砂漠のどこらへんにあたるんだ」
「中心に近い場所です」
星見が答えた。
青砂漠の中心は、断末魔の龍が悶えながら砕け散った場所と伝えられているだけあって、青い巨岩がごろごろしているので有名だ。
「川の中にところどころ大きな岩がある。岩かげは流れがゆるくなっているからそこを縫うようにしてあちらに渡ろう。見えないが水流に隠れている岩もあるだろう、足掛かりに利用しながらなんとか行けるかもしれない」
この激流をそのまま横断するのは難しい。岩陰や蛇行の内側など、できるだけ水流を読んで船を勧めねばなるまい。麗射は流れをじっと見つめた。
幸い雨の勢いは弱まってきている。
「まず俺が行く」
「それは危ない、水が収まるまで待とう」朦朧としながらも無理やり上半身を起こした清那が弱弱しく麗射の服を掴んだ。
「いや、洲がどんどん水で削られている。急がないと奴らが溺れてしまう」
清那の手をそっと外すと、力尽きたのか清那は再びぐったりと砂の上に倒れ伏した。目は閉じられているが、息は整っている。牙蘭がそっと体を横たえた。
麗射は小さいほうのくりぬき船を下ろした。
「俺は波州の漁師の家の出身で波がゆりかごだった男だ、このくりぬき船にも慣れている。砂漠じゃ満足に駱駝にも載れない役立たずだが、船となればこっちのもんだ」
「ちょっと待て、お前は今の救出で疲れ切っている。僕も波州の人間だ。船には自信がある」
自分が行くと言わんばかりに美蓮が小舟の舳先を掴んだ。麗射は美蓮に首を振って、小舟を自分の方に引き寄せた。
「心配ない、体力だけは自信があるんだ。お前は俺が失敗した場合には船のどこが悪かったのか見極めて、次にうまく行くように操船なり重心なりを考えてくれ。俺はできないがお前にはそれができる」
「船を作ったのは僕だ、責任は僕にある」
「俺は学院の支度金を船の仕事で稼いだ。修羅場は何度もくぐっている、まあ任せておけ」
麗射は美蓮の肩をポンとたたいて微笑んだ。皆を巻き込んでここまで連れてきた、言い出したものが最も危険な仕事をするのは当たり前だと思っている。彼は再び美蓮の口が開く前に命綱の片方を押し付けるように手渡すとその片方を手早く船の後方に作られた突起に固く結びつけた。
「ここから流れに沿ってなんとか洲まで行く、洲まで言ったらこちらと洲が綱でつながるから今度はそれを伝ってもう一つの船で来てくれ、二往復もすればなんとか全員を救出できるだろう。こちらに戻る時には流れを利用したいから、綱を固定する地点を下流方向に変えてくれ」
皆はうなずくと、用意してきた棒きれを砂の中に打ちこみ、船に結わえた命綱の片方を結びつけた。縄は美蓮が調達してきた特別製で、蔓草を乾かしたものを編んで作る軽くて、強度の強い特別なものであった。
しばらくの間岩が点在する水面を見つめていた麗射だったが、郷里の海神と天帝に祈りの言葉をつぶやくと、狭い乗り込み口から足を入れ、下半身を船の前に滑り込ませるようにして座り躊躇なく櫂で岸を押した。軽い小舟は砂地を離れたとたん、木の葉のように翻弄されながら勢いよく河を下り始めた。
皆、声をかけるのも忘れて彼を見送る。
杭の下にまとめられた縄がしゅるしゅると水の方に引っ張られていく、全員祈るような気持ちで杭と綱を押さえた。
麗射は小舟の先端を上流に向ける。下流側に艇を傾けると流れに逆らって漕ぎあがるようにしながら艇を動かしていく。船は大きく上下して転覆しそうになりながらも水面を渡って行った。彼は半身を大きく動かし重心を細かに移動させる。後ろに重心を傾け舳先を大きく水から浮き上がらせ、そして長い櫂をできるだけ前方の水に突き立てるように操って巧みに流れをかわす。本流を避け、流れの幾分弱い岩影を縫うように進んでいくと、船は流されながらも方向を変えてじりじりと河を横切り始めた。
「麗射がんばれ」岸から大きな声援が飛ぶ。
洲の方からも誰が来ているのか分かったのだろう、同じく麗射への声援が湧きあがる。
河の半分を過ぎて、洲に立つ人々の顔がはっきりと見えだした。皆憔悴して青い顔をしているが、麗射の姿を見て目を輝かせている。
その時、ひときわ大きい濁流が小舟を襲った。
皆の目前で、麗射の乗る小舟が押し寄せる水流に押し上げられる。そのままくるりとひっくり返って、船底が水面に浮き上がった。
「沈没したっ」
「麗射っ!」
両岸から叫びがあがった。
この水流の中で投げ出されたら、いくら泳ぎのうまい麗射でもひとたまりもない。
たとえ船に残っていても水面下に頭がある間、麗射は息ができない。急いで岸辺に船を手繰り寄せたとしても、手遅れだろう。
溺死する。と、誰もが思ったその時。
水面から突如櫂が突き出された。小舟と平行になった櫂はぐるりと回転して、水を叩く。反動で浮き上がった麗射は腰を蛇のようにひねる、その瞬間、小舟が手品のようにぐるりと起き上がった。
ずぶ濡れの麗射は、何食わぬ顔で再び洲に向かい始めた。
両岸から歓声が上がる。
「す、すごい。浮上転 だ」美蓮が息を飲む。
「なんだ、その浮上転というのは」レドウィンが尋ねる。
「小舟の操船術の一つだ、すっぽり身体を収めるくりぬき船のような型の小船が転覆したとき、櫂を使って水面を叩いて反動で船を起こす方法だ。しかし、こんな流れの中でできるのは神業としか言いようがない」
まだ信じられないという面持ちで美蓮は小舟を見ている。少なからず水が入ったのか水面に浮いている部分が少なくなったが、何とか麗射はそのまま洲にたどり着いた。両岸から喝采が湧きあがる。
洲に乗り上げた小舟を、玲斗の子分が引っ張り上げた。
「感謝する、麗射」
絞り出すような声で、歩み寄ってきた玲斗が言った。言葉とは裏腹に心の中では屈辱に煮えくり返っているのであろう、ぴくぴくとした頬の痙攣と尖った視線はそれが真の言葉ではないことを物語っている。
「お前の勇気に敬意を表する」
己の心を押さえつけながらであろうが、玲斗は両手を頭上で組み大きく頭を下げた。
主人が頭を下げているのが悔しいのだろう、玲斗の後ろで安理が蛇のような目で睨みつけてきた。視線を合わせずに麗射は皆に呼びかける。
「礼は良いから早く乗れ。この船は俺のほかに一人しか乗れない。誰にするか決めてくれ」
玲斗が後ろを振り向いた。
「まずはお前たちが乗れ」
しかし、子分たちは皆チラチラとお互いを見るものの、乗り込もうとする者はいなかった。洲は刻々と流れに砂を削られて小さくなっている、誰もが乗りたいのはやまやまであろうが、階級を重んじる煉州の人間らしく玲斗を差し置いて乗ろうとするものは誰もいない。玲斗はそんな子分の遠慮を察したのか、大きく首を振った。
「俺は最後でいい、お前ら先に乗れ。順生、まずはお前からだ」
一番若いと思われる青年を玲斗は指名した。玲斗は自分勝手で横柄な男だが、上に立つものとしてそれなりの矜持があるようだ。
名指しされた順正は明らかにうろたえた視線で皆を見ている。
「早く行け、順正。最初に乗るものが必ずしも安全という訳じゃない」
玲斗は冷たく言い放った。
それでも動こうとしない順正に、麗射が話しかけた。
「これは2人乗りだが、これよりも一回り大きな船も持ってきている。この船についている縄を解いて、ここと川岸とに綱を渡せば、来る時ほど難渋せずにそれを伝いながら行き来できるだろう、まず君だけにしてみよう」
テントの骨組みに使用していた動物の大腿骨だろうか、そこらに散らばっていた長い骨を何本か束ねて砂に突き立てると麗射は船の突起に結び付けていた綱を解いてその骨で作った杭に結わえた。玲斗の子分が杭を砂に押し込む。これで岸と洲が綱で結ばれた。
次に麗射は両手を広げたくらいの長さの縄を取り出し、岸に渡された縄が中を通るように輪っかを作りもう片側は船の突起に結び付けた。
「心配するな、海仕込みの解けない結び方だ。これがあれば水流に流されても何とか岸にたどり着けるだろう」
美蓮達はすでに杭を最初の場所から抜き、今度は下流に突き立てている。これで、戻るときも水流に逆らわずに渡河できるという訳だ。
麗射は順生を乗せて再び河に乗り出した。
船は再び水流にもて遊ばれるが、今度は岸と洲をつなぐ綱が固定されている。麗射は行きよりもずいぶん早く船を岸につけて順生を下ろした。両側から歓声が上がった。
美蓮がまっすぐに手を伸ばし、指を使って洲までの距離を試算した。150尋というと大人が両手を広げた長さの150倍、濁流を越えていくことを考えれば近い距離ではなかった。
「ここで船を下ろせ。あまり真横に近寄りすぎると、あちらにつく前に船が流れに押されて洲を通り過ぎてしまう。このあたりから徐々に近づく方がいいだろう」
麗射は手をかざして流れを観察した。
「ここは青砂漠のどこらへんにあたるんだ」
「中心に近い場所です」
星見が答えた。
青砂漠の中心は、断末魔の龍が悶えながら砕け散った場所と伝えられているだけあって、青い巨岩がごろごろしているので有名だ。
「川の中にところどころ大きな岩がある。岩かげは流れがゆるくなっているからそこを縫うようにしてあちらに渡ろう。見えないが水流に隠れている岩もあるだろう、足掛かりに利用しながらなんとか行けるかもしれない」
この激流をそのまま横断するのは難しい。岩陰や蛇行の内側など、できるだけ水流を読んで船を勧めねばなるまい。麗射は流れをじっと見つめた。
幸い雨の勢いは弱まってきている。
「まず俺が行く」
「それは危ない、水が収まるまで待とう」朦朧としながらも無理やり上半身を起こした清那が弱弱しく麗射の服を掴んだ。
「いや、洲がどんどん水で削られている。急がないと奴らが溺れてしまう」
清那の手をそっと外すと、力尽きたのか清那は再びぐったりと砂の上に倒れ伏した。目は閉じられているが、息は整っている。牙蘭がそっと体を横たえた。
麗射は小さいほうのくりぬき船を下ろした。
「俺は波州の漁師の家の出身で波がゆりかごだった男だ、このくりぬき船にも慣れている。砂漠じゃ満足に駱駝にも載れない役立たずだが、船となればこっちのもんだ」
「ちょっと待て、お前は今の救出で疲れ切っている。僕も波州の人間だ。船には自信がある」
自分が行くと言わんばかりに美蓮が小舟の舳先を掴んだ。麗射は美蓮に首を振って、小舟を自分の方に引き寄せた。
「心配ない、体力だけは自信があるんだ。お前は俺が失敗した場合には船のどこが悪かったのか見極めて、次にうまく行くように操船なり重心なりを考えてくれ。俺はできないがお前にはそれができる」
「船を作ったのは僕だ、責任は僕にある」
「俺は学院の支度金を船の仕事で稼いだ。修羅場は何度もくぐっている、まあ任せておけ」
麗射は美蓮の肩をポンとたたいて微笑んだ。皆を巻き込んでここまで連れてきた、言い出したものが最も危険な仕事をするのは当たり前だと思っている。彼は再び美蓮の口が開く前に命綱の片方を押し付けるように手渡すとその片方を手早く船の後方に作られた突起に固く結びつけた。
「ここから流れに沿ってなんとか洲まで行く、洲まで言ったらこちらと洲が綱でつながるから今度はそれを伝ってもう一つの船で来てくれ、二往復もすればなんとか全員を救出できるだろう。こちらに戻る時には流れを利用したいから、綱を固定する地点を下流方向に変えてくれ」
皆はうなずくと、用意してきた棒きれを砂の中に打ちこみ、船に結わえた命綱の片方を結びつけた。縄は美蓮が調達してきた特別製で、蔓草を乾かしたものを編んで作る軽くて、強度の強い特別なものであった。
しばらくの間岩が点在する水面を見つめていた麗射だったが、郷里の海神と天帝に祈りの言葉をつぶやくと、狭い乗り込み口から足を入れ、下半身を船の前に滑り込ませるようにして座り躊躇なく櫂で岸を押した。軽い小舟は砂地を離れたとたん、木の葉のように翻弄されながら勢いよく河を下り始めた。
皆、声をかけるのも忘れて彼を見送る。
杭の下にまとめられた縄がしゅるしゅると水の方に引っ張られていく、全員祈るような気持ちで杭と綱を押さえた。
麗射は小舟の先端を上流に向ける。下流側に艇を傾けると流れに逆らって漕ぎあがるようにしながら艇を動かしていく。船は大きく上下して転覆しそうになりながらも水面を渡って行った。彼は半身を大きく動かし重心を細かに移動させる。後ろに重心を傾け舳先を大きく水から浮き上がらせ、そして長い櫂をできるだけ前方の水に突き立てるように操って巧みに流れをかわす。本流を避け、流れの幾分弱い岩影を縫うように進んでいくと、船は流されながらも方向を変えてじりじりと河を横切り始めた。
「麗射がんばれ」岸から大きな声援が飛ぶ。
洲の方からも誰が来ているのか分かったのだろう、同じく麗射への声援が湧きあがる。
河の半分を過ぎて、洲に立つ人々の顔がはっきりと見えだした。皆憔悴して青い顔をしているが、麗射の姿を見て目を輝かせている。
その時、ひときわ大きい濁流が小舟を襲った。
皆の目前で、麗射の乗る小舟が押し寄せる水流に押し上げられる。そのままくるりとひっくり返って、船底が水面に浮き上がった。
「沈没したっ」
「麗射っ!」
両岸から叫びがあがった。
この水流の中で投げ出されたら、いくら泳ぎのうまい麗射でもひとたまりもない。
たとえ船に残っていても水面下に頭がある間、麗射は息ができない。急いで岸辺に船を手繰り寄せたとしても、手遅れだろう。
溺死する。と、誰もが思ったその時。
水面から突如櫂が突き出された。小舟と平行になった櫂はぐるりと回転して、水を叩く。反動で浮き上がった麗射は腰を蛇のようにひねる、その瞬間、小舟が手品のようにぐるりと起き上がった。
ずぶ濡れの麗射は、何食わぬ顔で再び洲に向かい始めた。
両岸から歓声が上がる。
「す、すごい。
「なんだ、その浮上転というのは」レドウィンが尋ねる。
「小舟の操船術の一つだ、すっぽり身体を収めるくりぬき船のような型の小船が転覆したとき、櫂を使って水面を叩いて反動で船を起こす方法だ。しかし、こんな流れの中でできるのは神業としか言いようがない」
まだ信じられないという面持ちで美蓮は小舟を見ている。少なからず水が入ったのか水面に浮いている部分が少なくなったが、何とか麗射はそのまま洲にたどり着いた。両岸から喝采が湧きあがる。
洲に乗り上げた小舟を、玲斗の子分が引っ張り上げた。
「感謝する、麗射」
絞り出すような声で、歩み寄ってきた玲斗が言った。言葉とは裏腹に心の中では屈辱に煮えくり返っているのであろう、ぴくぴくとした頬の痙攣と尖った視線はそれが真の言葉ではないことを物語っている。
「お前の勇気に敬意を表する」
己の心を押さえつけながらであろうが、玲斗は両手を頭上で組み大きく頭を下げた。
主人が頭を下げているのが悔しいのだろう、玲斗の後ろで安理が蛇のような目で睨みつけてきた。視線を合わせずに麗射は皆に呼びかける。
「礼は良いから早く乗れ。この船は俺のほかに一人しか乗れない。誰にするか決めてくれ」
玲斗が後ろを振り向いた。
「まずはお前たちが乗れ」
しかし、子分たちは皆チラチラとお互いを見るものの、乗り込もうとする者はいなかった。洲は刻々と流れに砂を削られて小さくなっている、誰もが乗りたいのはやまやまであろうが、階級を重んじる煉州の人間らしく玲斗を差し置いて乗ろうとするものは誰もいない。玲斗はそんな子分の遠慮を察したのか、大きく首を振った。
「俺は最後でいい、お前ら先に乗れ。順生、まずはお前からだ」
一番若いと思われる青年を玲斗は指名した。玲斗は自分勝手で横柄な男だが、上に立つものとしてそれなりの矜持があるようだ。
名指しされた順正は明らかにうろたえた視線で皆を見ている。
「早く行け、順正。最初に乗るものが必ずしも安全という訳じゃない」
玲斗は冷たく言い放った。
それでも動こうとしない順正に、麗射が話しかけた。
「これは2人乗りだが、これよりも一回り大きな船も持ってきている。この船についている縄を解いて、ここと川岸とに綱を渡せば、来る時ほど難渋せずにそれを伝いながら行き来できるだろう、まず君だけにしてみよう」
テントの骨組みに使用していた動物の大腿骨だろうか、そこらに散らばっていた長い骨を何本か束ねて砂に突き立てると麗射は船の突起に結び付けていた綱を解いてその骨で作った杭に結わえた。玲斗の子分が杭を砂に押し込む。これで岸と洲が綱で結ばれた。
次に麗射は両手を広げたくらいの長さの縄を取り出し、岸に渡された縄が中を通るように輪っかを作りもう片側は船の突起に結び付けた。
「心配するな、海仕込みの解けない結び方だ。これがあれば水流に流されても何とか岸にたどり着けるだろう」
美蓮達はすでに杭を最初の場所から抜き、今度は下流に突き立てている。これで、戻るときも水流に逆らわずに渡河できるという訳だ。
麗射は順生を乗せて再び河に乗り出した。
船は再び水流にもて遊ばれるが、今度は岸と洲をつなぐ綱が固定されている。麗射は行きよりもずいぶん早く船を岸につけて順生を下ろした。両側から歓声が上がった。