第36話 決着
文字数 4,347文字
図書館の一件から教室の勢力図がガラリと変わった。高慢で嫌われていた玲斗の周りにいるのは彼の身分が効力を発揮する煉州の子分だけとなった。今までは皆、彼の発言に従っていたが、一回生の中にも理不尽な命令に口答えしたり反抗するものが出始めた。
そうこうするうちに盛夏の展覧会の締め切りまであと5日となった。
教室の中で際立って目を引くのは、やはり玲斗と麗射の作品である。
「どっちが勝つのかな」
「技術では正確無比な玲斗が髪の毛一筋上手かな」
「でも、麗射の作品にはなんというか勢いのあるゆがんだ線に味があるぜ。また見たくなる型破りな魅力というか」
人々は口々に予想しあう。
「さあ、玲斗か麗射か。一口銅銭3枚からだぜ」
人々の背後から高らかな声がした。彼らが振り向くと、ひものついた箱を首からかけた瑠貝が帳簿を片手ににんまりと笑っている。箱には仕切りが入っており片方には玲斗、もう片方には麗射と書いてあった。
「瑠貝、なんのまねだ」
美蓮が眉をひそめる。
「賭けさ。買った方は、負けた方の金を皆で山分けだ。俺は掛け金から砂漠トカゲの涙ほどの手数料をいただくが、今人気は半々、結構いい小遣い稼ぎになるぜ」
ちゃっかりと瑠貝は賭けの胴元になることを思いついたらしい。
「麗射でも、玲斗でもない時は?」
「そりゃ、俺の総取りさ」
出来上がり具合から見て、親の総取りになる可能性は極めて低そうであった。
面白そうだと生徒たちが次第に瑠貝の周りに集まり始めた。3銭はほぼ外で食べる軽食一食分の値段で、財布が痛むほどの金額ではない。刺激のない砂漠の街に住む学生たちにとって、ちょうどいい余興である、皆財布を出して口々にどちらにかけるべきかを相談し始めた。
「迷う時にはやっぱり玲斗の身分が物を言うんじゃないかな」
「さすがに最近奴の横暴が問題になっているから、そうとも限らないと思うな」
「でも、やっぱり俺は玲斗が鉄板だと思うぞ」
学生たちは次々に箱に金を入れ、瑠貝から「麗射」「玲斗」と書かれた札をもらう。
これは面白い賭けになるぞと利にさとい瑠貝はほくそ笑んだ。
しかし、締め切りまであと3日となった朝。
教場に悲鳴が響き渡った。
血走った眼、口元をわなわなと震わせている麗射の視線の先には、ナイフで切り裂かれた彼の作品があった。
「だ、誰がこんなことを」
夕刻までは院生たちが創作できるように鍵が開けられているが、誰もいなくなった夜の教場には鍵がかけられている。鍵は美術工芸院の雇っている警備の者が持っており、通常入ることができないはずだった。
麗射の周りに人が寄ってくる。皆無残な姿になった作品を見てくちぐちに犯人を糾弾し始めた。その中には、玲斗を疑う声もあった。
「玲斗が買収したに違いないよ。警備兵の賃金は高くはない、金をつまれりゃあ――」
「証拠もないのに、めったなことを言うな」
被害者の麗射にたしなめられ、犯人を予想する声は止んだ。
「犯人捜しをしている暇はない。皆、心配してくれてありがとう。俺、描くよ」
麗射は気丈に新しい紙を準備して、絵筆で輪郭をとり始めた。
賭けの胴元の瑠貝は、連日麗射にかけた者からの返金を要求された。彼も流石にこのままでは賭けにならないと思ったのか、自分の総取りはあきらめて賭けの対象を「玲斗と、玲斗以外の者」に変更した。しかしこの事件以来、玲斗以外の者にかける者は誰もいなかった。むしろ駆け込みで玲斗に賭ける者が瑠貝の元に押し寄せた。ただ一人の例外を除いては。
「おい、もう10口分追加購入だ」
「お前、さっきも買ったばかりだろう。金はあるのか?」
鼻息荒く美蓮が、片手に盛り上げた銅銭を瑠貝の鼻先に突きつける。
「製作が終わってしばらく必要ないから、彫刻刀を売ってきた」
「やめておけよ、美蓮。麗射の肩を持つつもりだろうが、結局その金は全部玲斗に賭けた奴で山分けになるんだぞ」
金の亡者と呼ばれる瑠貝ですら、さすがにこんなに部の悪い賭けでは良心の呵責を感じるらしく美蓮に札 を渡そうとはしない。
「いや、絶対玲斗が勝つわけがない。天はそんな理不尽を許すもんか」
「ところが許すんだよ、天は。けっこういい加減だからな」
瑠貝が額にしわを寄せて、首を振る。しかし美蓮は納得しない。
「居ても立っても居られないんだ。どうにかして、麗射を応援してやりたいんだよ。買うって言ってるんだ。お前も商人の端くれなら、御託を並べずに売れ」
無理やり美蓮に金を押し付けられ、瑠貝はしぶしぶ札を渡した。「玲斗以外」と書かれた札を抱えて、美蓮は意気揚々と去って行く。
「どうにもあいつは、直情型すぎるな」
瑠貝自身も、何とか麗射に勝たしてやりたいし、それがかなわぬなら玲斗以外の誰かでもいいから勝ってほしいと思っているのだが。
「俺の薄塗りの絵では到底玲斗には勝てないしな」
美蓮には悪いが、彼が抱えた札はすべてただの木切れになってしまうだろうと、瑠貝はため息をついた。次の学期に彫刻刀なしであいつどうする気なんだ――。
そんな周りの喧騒をよそに目を血走らせて作品に取り組む麗射だが、時間が絶対的に足らないのは一目瞭然だった。
玲斗が画竜点睛とばかり余裕で細部を描き込むのに対し、麗射の輪郭線は焦りに歪み、書き直すうちにせっかくの豪放磊落な筆走りが失われていた。思うように構図が決まらず、書き損じた紙が足元に積み上がる。目は霞み、線を導くための思考は乱れ、睡眠不足の頭はもうろうとする。それでも麗射はあきらめなかった。
「本を貸してくれた公子にめったなものは見せられない」
最後の1日は慣例で各教室での徹夜が可能となる。
提出日の前夜、友人たちの差し入れのパンをかじりながら、教室で最後の一人となった麗射は寝るのも惜しんで描き続けていた。しかし根を入れ過ぎたのが祟ったのか、とうとう絵筆を握ったまま彼は未完の絵を残して昏倒してしまった。
「麗射っ」
たまたま徹夜の差し入れに来た美蓮が倒れている麗射を助け起こす。
美蓮がは呼んできた寮の仲間たちとともに麗射を部屋に運んで行った。誰かが同室者のレドウィンを呼びに行き、ぼさぼさの頭のレドウィンが夕陽とともに現れた。二人はテラスで夜空を眺めながら、酒を片手に芸術についてゆるく語っていたらしい。
「ありゃ、麗射どうしたんだ」
目を丸くする夕陽に美蓮が一部始終を語る。
「一応作品を提出場所に置いてきたから、落第にはならないと思うんだけど」
美蓮の報告に顔を赤くして憤慨するレドウィン。しかし、今は麗射の看病が先だと考えた彼は皆を落ち着かせるとそれぞれの部屋に帰るように指示した。
翌朝。
絵の提出に来た学生たちは、見慣れぬ絵が提出場所に立てかけてあるのに気が付いた。
墨一色で描かれたその絵は夜の内に描かれたのであろうか、画面には描かれていないランプの存在がはっきりとわかるくっきりとした陰影がつけられていた。灯火の揺らめきさえもが伝わってくるような絶妙な濃淡が、絵に命を吹き込んでいる。
透き通ったガラスは思わず手に触れてみたくなるほど冷たく妖艶。駱駝の頭骨は骨になってすら歯をむき出してにんまりと笑ったような表情で、そのこっけいな諧謔がなぜかいっそう哀しさを漂わせる。素材たちはそれぞれの個性を引き出されながらも、命のない静物のどこか達観した美しさを共有していた。
学生たちは絵を取り囲んで無言で立ちすくんだ。作品を持参した玲斗も足を止めて唖然とその絵を眺めている。
誰もが認めざる負えない圧倒的な画力。それはまさに次元の違う作品、だった。
「ゆ、夕陽――」
署名を見て誰かがつぶやいた。そのとたん、時が止まっていた教室がいきなりぐらりと動き出す。
「夕陽さんだ、これ、夕陽さんの作品だ」
「伝説の名手、降臨」
「新作だあああ」
その声の中に「不正は実らなかった」という歓声も少なからず含まれていた。玲斗は頬を紅潮させ悔し気に唇を噛むと、自分の絵を投げ捨てるように提出して踵 を返して出て行った。
麗射が目覚めたのは、選考も終わった夕刻だった。
「え? 夕陽さんの作品」
ベッドの上で麗射は見舞いに来た面々に何度も聞き返した。
「そうなんだよ、どうしたことか夕陽さんがいきなり絵を提出していたんだ」
その絵を見るなり選考に来た教授陣は悶絶し、慌てて駆けつけてきた学院長がまるで神への供物を捧げるかのように最優秀学院賞の札を置いたと可笑しそうに美蓮が話す。
「選考時間の最短記録だそうだ」
レドウィンが付け加えた。
「教授陣でもあそこまではなかなか描けんだろうな」
「でも、夕陽さんがなぜ」
「ああ、講義には出ないが、あいつも本当は留年生としてあの講義を取らないといけない立場だからな」
仙人のごとく院内を我が物顔に闊歩する夕陽だが、実は立場的には新入生と同じだったわけだ。
「あいつ昨日俺たちがお前の看病にバタバタしている間に姿をくらましてしまったから、どうしたのかと思っていたら、こういうわけだったんだな」
「おかげで、面白い賭けになりました」
瑠貝が満面の笑みで言った。結局「玲斗」に賭けたものは外れ、「玲斗以外」に賭けた者に思わぬ額の小遣いが転がり込んできたようだ。
「美蓮にたかるといいぜ麗射、むきになって「玲斗以外」の札を買っていたから結構儲けているぞ」
「でも、一番儲けたのは胴元のお前だろ」
美蓮に暴露された瑠貝は皆の冷たい目から視線を逸らして、口笛を吹いた。
「夕陽さんは、どうしてるの?」
「寝込んでるよ、お前みたいにな」レドウィンが苦笑した。
「あいつの絵に対する集中は異常だ、それだけに完成後はがたっと消耗するらしい。でも、寝顔は安らかだったから、これを機会に奴も創作を再開してくれればいいんだけどな」
「どうして夕陽さん、突然描いたんだろう」
麗射の言葉にレドウィンが微笑む。
「お前、祈りに行ってたろ、夕陽の絵のところに」
絵の前で弱音を吐く自分の姿が見られていたことを知り、麗射は顔を赤くした。いつ行っても人の気配が無かったので、あの空間には誰も来ないと高をくくって己をさらけ出し過ぎた。
「自分だけでなく絵の中の者の安寧まで祈ってくれていた、って夕陽は感謝していたぜ。しかし、かたき討ちなんて柄にもないことを」
レドウィンは喉の奥から絞るような声で笑った。
「飄々としているけど実は熱い奴なんだよ、あいつ。まあ、それだけに――」
語尾はかすれてレドウィンの喉に消えていった。
そうこうするうちに盛夏の展覧会の締め切りまであと5日となった。
教室の中で際立って目を引くのは、やはり玲斗と麗射の作品である。
「どっちが勝つのかな」
「技術では正確無比な玲斗が髪の毛一筋上手かな」
「でも、麗射の作品にはなんというか勢いのあるゆがんだ線に味があるぜ。また見たくなる型破りな魅力というか」
人々は口々に予想しあう。
「さあ、玲斗か麗射か。一口銅銭3枚からだぜ」
人々の背後から高らかな声がした。彼らが振り向くと、ひものついた箱を首からかけた瑠貝が帳簿を片手ににんまりと笑っている。箱には仕切りが入っており片方には玲斗、もう片方には麗射と書いてあった。
「瑠貝、なんのまねだ」
美蓮が眉をひそめる。
「賭けさ。買った方は、負けた方の金を皆で山分けだ。俺は掛け金から砂漠トカゲの涙ほどの手数料をいただくが、今人気は半々、結構いい小遣い稼ぎになるぜ」
ちゃっかりと瑠貝は賭けの胴元になることを思いついたらしい。
「麗射でも、玲斗でもない時は?」
「そりゃ、俺の総取りさ」
出来上がり具合から見て、親の総取りになる可能性は極めて低そうであった。
面白そうだと生徒たちが次第に瑠貝の周りに集まり始めた。3銭はほぼ外で食べる軽食一食分の値段で、財布が痛むほどの金額ではない。刺激のない砂漠の街に住む学生たちにとって、ちょうどいい余興である、皆財布を出して口々にどちらにかけるべきかを相談し始めた。
「迷う時にはやっぱり玲斗の身分が物を言うんじゃないかな」
「さすがに最近奴の横暴が問題になっているから、そうとも限らないと思うな」
「でも、やっぱり俺は玲斗が鉄板だと思うぞ」
学生たちは次々に箱に金を入れ、瑠貝から「麗射」「玲斗」と書かれた札をもらう。
これは面白い賭けになるぞと利にさとい瑠貝はほくそ笑んだ。
しかし、締め切りまであと3日となった朝。
教場に悲鳴が響き渡った。
血走った眼、口元をわなわなと震わせている麗射の視線の先には、ナイフで切り裂かれた彼の作品があった。
「だ、誰がこんなことを」
夕刻までは院生たちが創作できるように鍵が開けられているが、誰もいなくなった夜の教場には鍵がかけられている。鍵は美術工芸院の雇っている警備の者が持っており、通常入ることができないはずだった。
麗射の周りに人が寄ってくる。皆無残な姿になった作品を見てくちぐちに犯人を糾弾し始めた。その中には、玲斗を疑う声もあった。
「玲斗が買収したに違いないよ。警備兵の賃金は高くはない、金をつまれりゃあ――」
「証拠もないのに、めったなことを言うな」
被害者の麗射にたしなめられ、犯人を予想する声は止んだ。
「犯人捜しをしている暇はない。皆、心配してくれてありがとう。俺、描くよ」
麗射は気丈に新しい紙を準備して、絵筆で輪郭をとり始めた。
賭けの胴元の瑠貝は、連日麗射にかけた者からの返金を要求された。彼も流石にこのままでは賭けにならないと思ったのか、自分の総取りはあきらめて賭けの対象を「玲斗と、玲斗以外の者」に変更した。しかしこの事件以来、玲斗以外の者にかける者は誰もいなかった。むしろ駆け込みで玲斗に賭ける者が瑠貝の元に押し寄せた。ただ一人の例外を除いては。
「おい、もう10口分追加購入だ」
「お前、さっきも買ったばかりだろう。金はあるのか?」
鼻息荒く美蓮が、片手に盛り上げた銅銭を瑠貝の鼻先に突きつける。
「製作が終わってしばらく必要ないから、彫刻刀を売ってきた」
「やめておけよ、美蓮。麗射の肩を持つつもりだろうが、結局その金は全部玲斗に賭けた奴で山分けになるんだぞ」
金の亡者と呼ばれる瑠貝ですら、さすがにこんなに部の悪い賭けでは良心の呵責を感じるらしく美蓮に
「いや、絶対玲斗が勝つわけがない。天はそんな理不尽を許すもんか」
「ところが許すんだよ、天は。けっこういい加減だからな」
瑠貝が額にしわを寄せて、首を振る。しかし美蓮は納得しない。
「居ても立っても居られないんだ。どうにかして、麗射を応援してやりたいんだよ。買うって言ってるんだ。お前も商人の端くれなら、御託を並べずに売れ」
無理やり美蓮に金を押し付けられ、瑠貝はしぶしぶ札を渡した。「玲斗以外」と書かれた札を抱えて、美蓮は意気揚々と去って行く。
「どうにもあいつは、直情型すぎるな」
瑠貝自身も、何とか麗射に勝たしてやりたいし、それがかなわぬなら玲斗以外の誰かでもいいから勝ってほしいと思っているのだが。
「俺の薄塗りの絵では到底玲斗には勝てないしな」
美蓮には悪いが、彼が抱えた札はすべてただの木切れになってしまうだろうと、瑠貝はため息をついた。次の学期に彫刻刀なしであいつどうする気なんだ――。
そんな周りの喧騒をよそに目を血走らせて作品に取り組む麗射だが、時間が絶対的に足らないのは一目瞭然だった。
玲斗が画竜点睛とばかり余裕で細部を描き込むのに対し、麗射の輪郭線は焦りに歪み、書き直すうちにせっかくの豪放磊落な筆走りが失われていた。思うように構図が決まらず、書き損じた紙が足元に積み上がる。目は霞み、線を導くための思考は乱れ、睡眠不足の頭はもうろうとする。それでも麗射はあきらめなかった。
「本を貸してくれた公子にめったなものは見せられない」
最後の1日は慣例で各教室での徹夜が可能となる。
提出日の前夜、友人たちの差し入れのパンをかじりながら、教室で最後の一人となった麗射は寝るのも惜しんで描き続けていた。しかし根を入れ過ぎたのが祟ったのか、とうとう絵筆を握ったまま彼は未完の絵を残して昏倒してしまった。
「麗射っ」
たまたま徹夜の差し入れに来た美蓮が倒れている麗射を助け起こす。
美蓮がは呼んできた寮の仲間たちとともに麗射を部屋に運んで行った。誰かが同室者のレドウィンを呼びに行き、ぼさぼさの頭のレドウィンが夕陽とともに現れた。二人はテラスで夜空を眺めながら、酒を片手に芸術についてゆるく語っていたらしい。
「ありゃ、麗射どうしたんだ」
目を丸くする夕陽に美蓮が一部始終を語る。
「一応作品を提出場所に置いてきたから、落第にはならないと思うんだけど」
美蓮の報告に顔を赤くして憤慨するレドウィン。しかし、今は麗射の看病が先だと考えた彼は皆を落ち着かせるとそれぞれの部屋に帰るように指示した。
翌朝。
絵の提出に来た学生たちは、見慣れぬ絵が提出場所に立てかけてあるのに気が付いた。
墨一色で描かれたその絵は夜の内に描かれたのであろうか、画面には描かれていないランプの存在がはっきりとわかるくっきりとした陰影がつけられていた。灯火の揺らめきさえもが伝わってくるような絶妙な濃淡が、絵に命を吹き込んでいる。
透き通ったガラスは思わず手に触れてみたくなるほど冷たく妖艶。駱駝の頭骨は骨になってすら歯をむき出してにんまりと笑ったような表情で、そのこっけいな諧謔がなぜかいっそう哀しさを漂わせる。素材たちはそれぞれの個性を引き出されながらも、命のない静物のどこか達観した美しさを共有していた。
学生たちは絵を取り囲んで無言で立ちすくんだ。作品を持参した玲斗も足を止めて唖然とその絵を眺めている。
誰もが認めざる負えない圧倒的な画力。それはまさに次元の違う作品、だった。
「ゆ、夕陽――」
署名を見て誰かがつぶやいた。そのとたん、時が止まっていた教室がいきなりぐらりと動き出す。
「夕陽さんだ、これ、夕陽さんの作品だ」
「伝説の名手、降臨」
「新作だあああ」
その声の中に「不正は実らなかった」という歓声も少なからず含まれていた。玲斗は頬を紅潮させ悔し気に唇を噛むと、自分の絵を投げ捨てるように提出して
麗射が目覚めたのは、選考も終わった夕刻だった。
「え? 夕陽さんの作品」
ベッドの上で麗射は見舞いに来た面々に何度も聞き返した。
「そうなんだよ、どうしたことか夕陽さんがいきなり絵を提出していたんだ」
その絵を見るなり選考に来た教授陣は悶絶し、慌てて駆けつけてきた学院長がまるで神への供物を捧げるかのように最優秀学院賞の札を置いたと可笑しそうに美蓮が話す。
「選考時間の最短記録だそうだ」
レドウィンが付け加えた。
「教授陣でもあそこまではなかなか描けんだろうな」
「でも、夕陽さんがなぜ」
「ああ、講義には出ないが、あいつも本当は留年生としてあの講義を取らないといけない立場だからな」
仙人のごとく院内を我が物顔に闊歩する夕陽だが、実は立場的には新入生と同じだったわけだ。
「あいつ昨日俺たちがお前の看病にバタバタしている間に姿をくらましてしまったから、どうしたのかと思っていたら、こういうわけだったんだな」
「おかげで、面白い賭けになりました」
瑠貝が満面の笑みで言った。結局「玲斗」に賭けたものは外れ、「玲斗以外」に賭けた者に思わぬ額の小遣いが転がり込んできたようだ。
「美蓮にたかるといいぜ麗射、むきになって「玲斗以外」の札を買っていたから結構儲けているぞ」
「でも、一番儲けたのは胴元のお前だろ」
美蓮に暴露された瑠貝は皆の冷たい目から視線を逸らして、口笛を吹いた。
「夕陽さんは、どうしてるの?」
「寝込んでるよ、お前みたいにな」レドウィンが苦笑した。
「あいつの絵に対する集中は異常だ、それだけに完成後はがたっと消耗するらしい。でも、寝顔は安らかだったから、これを機会に奴も創作を再開してくれればいいんだけどな」
「どうして夕陽さん、突然描いたんだろう」
麗射の言葉にレドウィンが微笑む。
「お前、祈りに行ってたろ、夕陽の絵のところに」
絵の前で弱音を吐く自分の姿が見られていたことを知り、麗射は顔を赤くした。いつ行っても人の気配が無かったので、あの空間には誰も来ないと高をくくって己をさらけ出し過ぎた。
「自分だけでなく絵の中の者の安寧まで祈ってくれていた、って夕陽は感謝していたぜ。しかし、かたき討ちなんて柄にもないことを」
レドウィンは喉の奥から絞るような声で笑った。
「飄々としているけど実は熱い奴なんだよ、あいつ。まあ、それだけに――」
語尾はかすれてレドウィンの喉に消えていった。