第84話 帰還
文字数 3,498文字
「ちぇっ、あいつ手加減というものを知らない……」
駱駝に揺られるたびに走耳は痛そうに顔をしかめる。数日だが牙蘭から相当な剣術のしごきを受けた彼は満身創痍の状態である。
「だから、遠慮しないで玲斗達と同じ駕籠 に乗れば良かったのに」
麗射が笑いながら声をかける。
「よせよ、人に担がれて移動するなんて気持ち悪い。俺は自分で移動したいんだ」
麗射の言葉にしかめっ面を返し、走耳は遙か後方の一団に目をやった。隊商二つ分くらいある大所帯の一団は、砂埃を纏 いながらゆっくりと進んでいる。麗射たちが館にいなかった間に玲斗の停学が取り消しになったという連絡がもたらされ、坊ちゃまは晴れて美術工芸院に復学できることが決まっていた。彼に付き従う青年達は今までより増えており、彼らを守る館の武人達も多く動員されていた。
「親心か……」
清那がぽつりとつぶやく。
玲斗の復学が決まると、彼のお伴が募集された。安里の事があったため、随行希望者は少ないと思われていたが、箱を開けてみると剴斗 直属の部下だけではなく、王に仕える諸侯の子供達まで必要数の2倍の若者が集まった。
内乱は時間の問題であり、子供達だけでもなんとか口実を付けてきな臭い煉州を逃れさせようと考えた貴族がいかに多かったかという事だ。
人が乗っていない駱駝には干し肉や乾物、水が小山のように積まれている。もちろん煉州貴族の子弟達は、盗賊に対する武器も山のように携 えていた。
「また、悶着 が起こらなければいいけどな」
清那はちらりと麗射の顔をうかがう。
「ま、麗射に下手なことをしたら、今度は走耳に顎を潰されて思い知らされるだろうけど」
走耳が自分の護衛を引き受けたのは、麗射が頼み込んだからだという事はよくわかっている。走耳はなぜか麗射の言葉には極めて従順であった。
麗射は砂混じりの風になぶられながら、どこか遠くを見ている。
そのまなざしは煉州に来る以前とは明らかに変わっている。表向き快活に振る舞ってはいるが、時折深い憂いを帯びた瞳を地平線にさまよわせる。その胸の中に去来するのはあの少女のことだろうか。煉州での体験が、彼を少年の香りが残った青年から、男に変えていた。
煉州に残る選択を止めて、自分に付いてきてくれた。そのことをうれしく思うと共に、引き裂かれるようなイラムと麗射の別れを思い出すと清那はいたたまれなくなる。
出発の日が決まったときに、清那は麗射に煉州に残るのかと恐る恐る尋ねた。しかし麗射はどこか吹っ切れた笑顔を浮かべて頭を振った。
「俺は真珠の都に帰る。俺はまだ何者でもない、武芸もできない、絵も中途半端。今の俺がイラムを略奪しても、彼女を幸せにすることはできない。斬常は彼女を溺愛している。彼女はある意味一番安全なところにいるんだ」
最後の方は自分に言い聞かせるようなつぶやきだった。
冬季の砂漠行は、熱風舞う夏季に比べ格段に歩きやすい。何度か砂嵐で立ち往生したが、一行は落伍者を出すこと無く無事美術工芸院にたどり着いた。
オアシスの検問所にはレドウィン、美蓮 、瑠貝 、そして白髭の中に顔がある学院長の蛮豊 、そのほか噂を聞きつけたのか美術工芸院の学生 達が出迎えていた。検問所にあふれかえり業務の邪魔になる学院生達を兵士達は追い払うが、彼らは一旦散ってもまた性懲 りもなく検問所ぎりぎりのところに集まり、麗射達の名前を呼んで騒ぎたてるため、堪忍袋の緒が切れた兵士達との小競り合いを繰り返していた。
麗射達の一団が検問所に近づくのを見ると、蛮豊が何枚かの書類を提出した。そこには叡州 公の印と煉州 王家の印が押されている紙が入っていた。兵士達は恐れ多い書類をまるで捧げ物のように頭を下げて受け取ると、代わりに身元引受人の保証書を差し出した。蛮豊はうなずいて懐から自前のペンを出すと、これまた自前のインク壺に浸しサインをする。太い指に似つかわしくない華奢なペンは、単なるサインを超えたまるで絵画のような美しい曲線を描き出し周りの人々を感嘆させた。
通過の手続きが終われば、もう用がないとばかりに到着した一団はさっさとオアシスの中に通された。
「おかえりなさい。よくぞご無事で公子」
蛮豊は駱駝から降りた清那の手を両手で握りこみ、深々と頭を下げた。
次に学院長は、麗射を見つけるとなにかわめきながら飛びつき、その大柄な体で抱きしめる。清那の場合とは違って、これは遠慮の無い最上級の歓迎の表現らしかった。
「停学を解いていただき恐悦 に存じます」
玲斗が蛮豊に深々とお辞儀をする。
麗射を解放した蛮豊は、急に表情を引き締めて彼に向き合った。
「ああ、お父様から丁寧なお手紙と心遣いをいただいているよ。君は才能があるんだし、つまらぬ問題を起こすんじゃない。『砂塵 の交わり』という言葉があるが、砂が混ざり合うように、以前のわだかまりを無くして溶け合う事が必要だ。二人とも砂漠で冒険をしてきたようだし、文字通り『砂塵の交わり』でこれからは仲良くすることだな」
微妙な顔つきを悟られまいと頭を下げる玲斗。その背中を蛮豊は厚いてのひらでバンバンとたたいた。
自宅に向かう清那とそこで起居 を共にする走耳はここで別れ、麗射はレドウィン、美蓮、瑠貝と共に学院に向かう。彼らの後ろにはまるでパレードをするように学院生がずらりと続く。真珠の都の人々は何事かと目を丸くしてこの騒々しい一団を眺めた。
玲斗はお供の者達を連れていつの間にか消えていた。かなりの大人数であったが、もともと煉州からの使者が先に彼らの住まいを用意していたのだろう、しばらくたって玲斗の館の周囲に煉州街とも言えるものが出現したらしいとの噂が流れた。
麗射が誘われた美術工芸院の食堂には昼とは思えない豪華な食事が用意されていた。隊商が行き来しやすい冬季に入ったためか、夏季よりも食材が多いのだろう、珍しい鴨や獣肉のパテや色とりどりの野菜料理が並ぶ。
そしてそこにはぎっしりと学院生たちが陣取り、酒を片手に歓声を上げて麗射を迎えた。
「み、みんな授業は――」
「今日は特別な休日だ。君達の勇気をたたえるためにレドウィンが教授達に掛け合って、祝日にさせたのさ」
美蓮が早速麗射の杯にワインをつぐ。
「君は英雄だ、僕らの誇りだよ」
美蓮の言葉に麗射は顔を曇らせる。
「いや、俺は安理 を救えなかった」
一瞬、場が静まる。
しかし、その静寂を破ってやってきたのは瑠貝であった。
「お疲れ様、麗射。遠慮せずに好きなだけ食ってくれ。いくら食っても俺の腹は痛まないからな」
瑠貝が満面の笑みで麗射の横に座る。
「まあ、はなむけとまでは行かないが、ちょっと一山当てたんで今回の冒険の借金の残りは払っておいたからな」
「止めてくれ、また土砂降りになるっ」
美蓮の叫びに皆が大笑いした。
まるで、牢獄から出て入学した時に遡ったかのようだ。何も心配の無い穏やかな空間に身を沈めた麗射は、砂漠から煉州のめまぐるしい日々がまるでまぼろしであったような錯覚に陥った。
ふと、彼は机の上に射す光をそのままたどり装飾格子の入った高窓から入る淡い光の筋に目をやった。天上の調べを思わせる幾筋ものその細い光の束は食堂の喧噪にも微動だにせず、静かにまっすぐに伸びていた。
天女の差し伸べる救いの手の様だ。
ふと麗射の顔がこわばり、周囲を見回した。目当ての男を探し当て、麗射の視線が固定される。彼は盛り上がる食堂の隅で一人、酒を飲んでいた。麗射はいきなり立ち上がった。
「どうした?」
美蓮の呼びかけに答える余裕も無く、彼はレドウィンに駆け寄った。出迎えにも来てくれていた彼だが、声をかけようとした麗射を避けるようにいなくなってしまったのである。
「レドウィン」
「おお、麗射。公子とともに無事に帰還してくれてうれしいよ」
レドウィンは頬を赤くして麗射に微笑みかけた。
「無事に帰ってこれたのはあなたの助力のおかげだ。本当にありがとう。で――」
続く麗射の言葉を予期していたのか、麗射の言葉を遮るようにレドウィンは言った。
「夕陽は、居なくなった」
「え……」
「あの豪雨の日、何かを叫びながら部屋を出て行ったらしい。それから誰も彼を見た者はいないようだ」
「オアシスの中にいるのか?」
「それを聞いた俺は四方を探し回ったが、オアシスの中にはあの日以来彼を見た者はいなかった」
「じゃあ、外に?」
「外には、門番がいる。あの雨降りの日だ、どういった理由があれ砂漠には出すまい」
レドウィンは強い酒をあおった。
「彼は消えたんだ、煙のようにな」
呆然と立ちすくむ麗射を、天上から射しこむ光が静かに包んでいた。
駱駝に揺られるたびに走耳は痛そうに顔をしかめる。数日だが牙蘭から相当な剣術のしごきを受けた彼は満身創痍の状態である。
「だから、遠慮しないで玲斗達と同じ
麗射が笑いながら声をかける。
「よせよ、人に担がれて移動するなんて気持ち悪い。俺は自分で移動したいんだ」
麗射の言葉にしかめっ面を返し、走耳は遙か後方の一団に目をやった。隊商二つ分くらいある大所帯の一団は、砂埃を
「親心か……」
清那がぽつりとつぶやく。
玲斗の復学が決まると、彼のお伴が募集された。安里の事があったため、随行希望者は少ないと思われていたが、箱を開けてみると
内乱は時間の問題であり、子供達だけでもなんとか口実を付けてきな臭い煉州を逃れさせようと考えた貴族がいかに多かったかという事だ。
人が乗っていない駱駝には干し肉や乾物、水が小山のように積まれている。もちろん煉州貴族の子弟達は、盗賊に対する武器も山のように
「また、
清那はちらりと麗射の顔をうかがう。
「ま、麗射に下手なことをしたら、今度は走耳に顎を潰されて思い知らされるだろうけど」
走耳が自分の護衛を引き受けたのは、麗射が頼み込んだからだという事はよくわかっている。走耳はなぜか麗射の言葉には極めて従順であった。
麗射は砂混じりの風になぶられながら、どこか遠くを見ている。
そのまなざしは煉州に来る以前とは明らかに変わっている。表向き快活に振る舞ってはいるが、時折深い憂いを帯びた瞳を地平線にさまよわせる。その胸の中に去来するのはあの少女のことだろうか。煉州での体験が、彼を少年の香りが残った青年から、男に変えていた。
煉州に残る選択を止めて、自分に付いてきてくれた。そのことをうれしく思うと共に、引き裂かれるようなイラムと麗射の別れを思い出すと清那はいたたまれなくなる。
出発の日が決まったときに、清那は麗射に煉州に残るのかと恐る恐る尋ねた。しかし麗射はどこか吹っ切れた笑顔を浮かべて頭を振った。
「俺は真珠の都に帰る。俺はまだ何者でもない、武芸もできない、絵も中途半端。今の俺がイラムを略奪しても、彼女を幸せにすることはできない。斬常は彼女を溺愛している。彼女はある意味一番安全なところにいるんだ」
最後の方は自分に言い聞かせるようなつぶやきだった。
冬季の砂漠行は、熱風舞う夏季に比べ格段に歩きやすい。何度か砂嵐で立ち往生したが、一行は落伍者を出すこと無く無事美術工芸院にたどり着いた。
オアシスの検問所にはレドウィン、
麗射達の一団が検問所に近づくのを見ると、蛮豊が何枚かの書類を提出した。そこには
通過の手続きが終われば、もう用がないとばかりに到着した一団はさっさとオアシスの中に通された。
「おかえりなさい。よくぞご無事で公子」
蛮豊は駱駝から降りた清那の手を両手で握りこみ、深々と頭を下げた。
次に学院長は、麗射を見つけるとなにかわめきながら飛びつき、その大柄な体で抱きしめる。清那の場合とは違って、これは遠慮の無い最上級の歓迎の表現らしかった。
「停学を解いていただき
玲斗が蛮豊に深々とお辞儀をする。
麗射を解放した蛮豊は、急に表情を引き締めて彼に向き合った。
「ああ、お父様から丁寧なお手紙と心遣いをいただいているよ。君は才能があるんだし、つまらぬ問題を起こすんじゃない。『
微妙な顔つきを悟られまいと頭を下げる玲斗。その背中を蛮豊は厚いてのひらでバンバンとたたいた。
自宅に向かう清那とそこで
玲斗はお供の者達を連れていつの間にか消えていた。かなりの大人数であったが、もともと煉州からの使者が先に彼らの住まいを用意していたのだろう、しばらくたって玲斗の館の周囲に煉州街とも言えるものが出現したらしいとの噂が流れた。
麗射が誘われた美術工芸院の食堂には昼とは思えない豪華な食事が用意されていた。隊商が行き来しやすい冬季に入ったためか、夏季よりも食材が多いのだろう、珍しい鴨や獣肉のパテや色とりどりの野菜料理が並ぶ。
そしてそこにはぎっしりと学院生たちが陣取り、酒を片手に歓声を上げて麗射を迎えた。
「み、みんな授業は――」
「今日は特別な休日だ。君達の勇気をたたえるためにレドウィンが教授達に掛け合って、祝日にさせたのさ」
美蓮が早速麗射の杯にワインをつぐ。
「君は英雄だ、僕らの誇りだよ」
美蓮の言葉に麗射は顔を曇らせる。
「いや、俺は
一瞬、場が静まる。
しかし、その静寂を破ってやってきたのは瑠貝であった。
「お疲れ様、麗射。遠慮せずに好きなだけ食ってくれ。いくら食っても俺の腹は痛まないからな」
瑠貝が満面の笑みで麗射の横に座る。
「まあ、はなむけとまでは行かないが、ちょっと一山当てたんで今回の冒険の借金の残りは払っておいたからな」
「止めてくれ、また土砂降りになるっ」
美蓮の叫びに皆が大笑いした。
まるで、牢獄から出て入学した時に遡ったかのようだ。何も心配の無い穏やかな空間に身を沈めた麗射は、砂漠から煉州のめまぐるしい日々がまるでまぼろしであったような錯覚に陥った。
ふと、彼は机の上に射す光をそのままたどり装飾格子の入った高窓から入る淡い光の筋に目をやった。天上の調べを思わせる幾筋ものその細い光の束は食堂の喧噪にも微動だにせず、静かにまっすぐに伸びていた。
天女の差し伸べる救いの手の様だ。
ふと麗射の顔がこわばり、周囲を見回した。目当ての男を探し当て、麗射の視線が固定される。彼は盛り上がる食堂の隅で一人、酒を飲んでいた。麗射はいきなり立ち上がった。
「どうした?」
美蓮の呼びかけに答える余裕も無く、彼はレドウィンに駆け寄った。出迎えにも来てくれていた彼だが、声をかけようとした麗射を避けるようにいなくなってしまったのである。
「レドウィン」
「おお、麗射。公子とともに無事に帰還してくれてうれしいよ」
レドウィンは頬を赤くして麗射に微笑みかけた。
「無事に帰ってこれたのはあなたの助力のおかげだ。本当にありがとう。で――」
続く麗射の言葉を予期していたのか、麗射の言葉を遮るようにレドウィンは言った。
「夕陽は、居なくなった」
「え……」
「あの豪雨の日、何かを叫びながら部屋を出て行ったらしい。それから誰も彼を見た者はいないようだ」
「オアシスの中にいるのか?」
「それを聞いた俺は四方を探し回ったが、オアシスの中にはあの日以来彼を見た者はいなかった」
「じゃあ、外に?」
「外には、門番がいる。あの雨降りの日だ、どういった理由があれ砂漠には出すまい」
レドウィンは強い酒をあおった。
「彼は消えたんだ、煙のようにな」
呆然と立ちすくむ麗射を、天上から射しこむ光が静かに包んでいた。