第98話 変化
文字数 3,163文字
煉州に新政権ができて半年。
麗射にとって、美術工芸院3年目の夏が巡ってきた。
もうすぐ盛夏の作品展である。しかし、春の卒展もそうであったが、今までのような盛り上がりは影をひそめていた。
卒展は戦で亡くなった学院関係者が何人か出たせいで、皆華美な作品を作らなかった。作品の質自体が落ちたわけではないが、地味な作品が並んだせいで静かな雰囲気に終始した。学院生達が課題に沿って製作する夏の作品展も、同じ傾向が見られている。
入学者が激減し、人数が減ったことも盛り上がらないことの一因だった。今まで新入生の若いざわめきは、毎年の学院に活力を与えてきた。しかしこの不安な情勢のなかで、軍事における重要拠点であるオアシスに子供を預けるのを親が嫌がった事もあり、新入生は毎年の半分以下にとどまっている。
新入生が少ない原因は、それだけではない。今のご時世では芸術で飯が食えなくなったことも大きかった。
社会も、そして一般家庭も、来たるべき大転換に備えて財布の紐はきつく締め上げられ、芸術のために開けられる隙間は無かった。学院長の蛮豊の顔色が優れないのは経営がうまくいかないせいだと噂された。
どこか落ち着かない美術工芸研鑽学院に、さらなる驚きの知らせがもたらされた。
「とうとう煉州 が叡州 に攻め込んだ」
煉州の前王室には叡州公の妹が嫁いでいた。その皇女も斬常によって王城が落とされたときに王とともに命を奪われている。それをきっかけに一気に二州の関係は悪化していた。
国境での小競り合いが発端となり、煉州は叡州に攻め込んだ。
学内は騒然とした。学内には煉州と叡州の出身者が多い。
蛮豊の憂いをよそに学生達の心は芸術どころではなくなり、中には決死の覚悟で真夏の砂漠越えをしてそれぞれの州に帰り、戦いに身を投じる者もいた。
叡州出身者と煉州出身者。学院の中では友人でも、国に帰れば敵同士だ。
涙の杯を干して、袂を分かつ学院生の姿が連日見られるようになっていた。
「噂では、度重なる挑発で、叡州の警備隊を戦いに巻き込んだのは煉州軍のようです」
清那は、三州の詳細な地図を見ながらため息をつく。
「困ったことになりました。叡州軍は貴族の子弟の集まりです。あの斬常に勝てるとは思いません」
「でも、大国の叡州だ。兵力も多いし、新しい政権になって軍の組織も十分に固まっていない煉州に負ける訳がないんじゃないのか」
「麗射、勝ち負けは戦力の多寡で決まるものではないのです。常識では説明の出来ない火の玉のような勢いが勝ちをもたらすことは少なくありません。斬常は頭の切れる見目の良い武将で、州民から異常なほどの人気があります。今、煉州は個の集まりではなくて、戦を好む一匹の獰猛 な動物になっているのです。このままでは……」
腕組みをした清那の目は鋭く光り、唇は真一文字に結ばれている。
彼はここ1年で急激に背も伸びて麗射と目線がほぼ同じくらいになっていた。小さい小さいと思っていた清那だが、実は長身の家系であったらしい。視線が合うようになってから、麗射を子供扱いするような言動も多くなっている。
清那は故国の事が気になるのか、最近は笑顔も消え、常に目に憂いを湛えている。しかし、それがまた震いつきたくなるような魅力となり、美に敏感な学院生達の視線を一身に集めていた。
「一人で行くなよ」
不意に麗射が清那の瞳を見つめる。
「君に何かあったら――」
「ありがとうございます。でも、もう子供ではないのですから、自分のことは自分で守れます」
清那は冷たく言い放つと窓の方を向いた。温かな漆黒の瞳に射られると、何かとんでもないことを口走りそうな自分が怖くて、彼はいつも彼の視線から逃げていた。
「そうか。そうだな」麗射が笑い声を上げた。「俺はいつまで経ってもお節介な兄貴だ」
清那は今年で16歳、あと2年で元服を迎える。麗射はもうこの年には工房で学びながら海で働き、美術工芸院への入学を目指していた。子供扱いはもう止めてやらなければ、と自覚はしている。
「盛夏の展覧会には何を出すのですか?」
最近、製作室に入り浸って麗射はあまり部屋に帰って来なくなっている。
熱の入った作品は清那も興味があった。
「見るか?」
麗射は、製作室に清那を連れて行った。
布のかかった縦長の板が部屋の隅っこに立てかけられている。
清那は顔料をすりつぶす乳鉢に目をとめた。そこには半分ほど粉になった、目が痛くなるほど鮮やかな青い欠片が入っていた。
「これは、剴斗殿からもらった煉州の玉 ではないですか」
「ああ、牙蘭にはすりつぶさないようにと言われていたが、俺はこの石に新たな命を吹き込みたくなったのさ」
言葉とともに麗射は布を剥ぎ取る。
そこには、木枠に張られた厚い布の上に青一色で描かれた美しい少女がいた。
麗射の全力を尽くした絵画は、まるで彼女が生きているかのように命を与えている。
顔の素描は実物とは異なっているが、絵全体を包む熱い何かがあった。
「イラム……」
清那のつぶやきにそっとうなずく麗射。
清那の心に何か鋭いものが刺さる。
麗射の瞳は、熱を帯びて。いつも自分に向けられる視線とはあきらかに違っていることを清那は思い知った。
絵の中の少女は、麗射の愛に包まれていた。
「いつも、俺の心の中に彼女の声が聞こえる。ただ、お互いに名前を呼び合うだけだが、心の深いところでつながっているんだ」
麗射は、清那から視線を逸らすようにイラムの絵に向かう。
「俺、やっぱり煉州に――」
「行かないでくださいね」
麗射の背中に向けて、ポツリと清那がつぶやく。
「あなたは、学院生代表です。この美術工芸研鑽学院を率いていく責任があります」
麗射が真顔で振り向く。
「あなたは自分の意志でどこかに行ける立場ではないのです」
「もしかして、それが、目的だったのか?」
「何のことです」
「ずっと、お前がなぜ俺なんかを代表に推すのか疑問に思っていた。もしかして俺をここにつなぎ止めるために、代表に推したのか?」
「それは、流れです。あの時、あなたが代表になる流れでした。運命には流れがあります。どう抗おうとも、流れには逆らえないのです」
この人の心は、自分には無い。
解っていたことなのに。
清那は麗射をまっすぐに見つめる。しかし、視線は帰ってこなかった。
身を翻すと、麗射はだまって製作室から出て行く。
彼は、もう無条件に自分を庇護 する存在では無い。
時には、遠慮無くむき出しの感情をぶつけてくる、対等な男同士である。
心の中に一陣の風が吹く。
清那はその日、自分の少年期が終わりを告げたことを知った。
平飼いの鶏が柵の中を駆け回る。産卵箱の中から糞の付いた卵をそっと取り出すと、彼は手元のかごにそっと入れる。この後は鶏の休む鶏舎の掃除が待っている。
照りつける日差しの中で、玲斗は空を仰いだ。
煉州から来た玲斗の部下達もみんな何かしら働いて日銭を稼いでいる。その金を持ち寄って、皆で食材を買い、ともに分け合って食べるのが日課になっていた。筋肉はそげ落ち、目をギラギラと光らせた彼は、美術工芸院の頃の貴族的な雰囲気をすっかり失っている。
大柄な部下達はいつも腹を空かせている。人の目を盗んで、彼は糞の付いた卵を自分の懐 にそっと隠した。
剴斗からの仕送りは日に日に少なくなっている。叡州に攻め込んだはいいが、肝心な資金が不足しているのだろう。故国もギリギリの橋を渡っているのだ。せめてその飢餓感が、煉州の力になってくれれば――と祈らずにはいられない。斬常は憎いが、故国は愛しい。兄を殺した父は憎いが、どうしようも無い愛しさもある。
相反する二つの感情に引き裂かれながら、玲斗は苦悶していた。
戦によって、人々に大きな変化が訪れようとしている。
麗射にとって、美術工芸院3年目の夏が巡ってきた。
もうすぐ盛夏の作品展である。しかし、春の卒展もそうであったが、今までのような盛り上がりは影をひそめていた。
卒展は戦で亡くなった学院関係者が何人か出たせいで、皆華美な作品を作らなかった。作品の質自体が落ちたわけではないが、地味な作品が並んだせいで静かな雰囲気に終始した。学院生達が課題に沿って製作する夏の作品展も、同じ傾向が見られている。
入学者が激減し、人数が減ったことも盛り上がらないことの一因だった。今まで新入生の若いざわめきは、毎年の学院に活力を与えてきた。しかしこの不安な情勢のなかで、軍事における重要拠点であるオアシスに子供を預けるのを親が嫌がった事もあり、新入生は毎年の半分以下にとどまっている。
新入生が少ない原因は、それだけではない。今のご時世では芸術で飯が食えなくなったことも大きかった。
社会も、そして一般家庭も、来たるべき大転換に備えて財布の紐はきつく締め上げられ、芸術のために開けられる隙間は無かった。学院長の蛮豊の顔色が優れないのは経営がうまくいかないせいだと噂された。
どこか落ち着かない美術工芸研鑽学院に、さらなる驚きの知らせがもたらされた。
「とうとう
煉州の前王室には叡州公の妹が嫁いでいた。その皇女も斬常によって王城が落とされたときに王とともに命を奪われている。それをきっかけに一気に二州の関係は悪化していた。
国境での小競り合いが発端となり、煉州は叡州に攻め込んだ。
学内は騒然とした。学内には煉州と叡州の出身者が多い。
蛮豊の憂いをよそに学生達の心は芸術どころではなくなり、中には決死の覚悟で真夏の砂漠越えをしてそれぞれの州に帰り、戦いに身を投じる者もいた。
叡州出身者と煉州出身者。学院の中では友人でも、国に帰れば敵同士だ。
涙の杯を干して、袂を分かつ学院生の姿が連日見られるようになっていた。
「噂では、度重なる挑発で、叡州の警備隊を戦いに巻き込んだのは煉州軍のようです」
清那は、三州の詳細な地図を見ながらため息をつく。
「困ったことになりました。叡州軍は貴族の子弟の集まりです。あの斬常に勝てるとは思いません」
「でも、大国の叡州だ。兵力も多いし、新しい政権になって軍の組織も十分に固まっていない煉州に負ける訳がないんじゃないのか」
「麗射、勝ち負けは戦力の多寡で決まるものではないのです。常識では説明の出来ない火の玉のような勢いが勝ちをもたらすことは少なくありません。斬常は頭の切れる見目の良い武将で、州民から異常なほどの人気があります。今、煉州は個の集まりではなくて、戦を好む一匹の
腕組みをした清那の目は鋭く光り、唇は真一文字に結ばれている。
彼はここ1年で急激に背も伸びて麗射と目線がほぼ同じくらいになっていた。小さい小さいと思っていた清那だが、実は長身の家系であったらしい。視線が合うようになってから、麗射を子供扱いするような言動も多くなっている。
清那は故国の事が気になるのか、最近は笑顔も消え、常に目に憂いを湛えている。しかし、それがまた震いつきたくなるような魅力となり、美に敏感な学院生達の視線を一身に集めていた。
「一人で行くなよ」
不意に麗射が清那の瞳を見つめる。
「君に何かあったら――」
「ありがとうございます。でも、もう子供ではないのですから、自分のことは自分で守れます」
清那は冷たく言い放つと窓の方を向いた。温かな漆黒の瞳に射られると、何かとんでもないことを口走りそうな自分が怖くて、彼はいつも彼の視線から逃げていた。
「そうか。そうだな」麗射が笑い声を上げた。「俺はいつまで経ってもお節介な兄貴だ」
清那は今年で16歳、あと2年で元服を迎える。麗射はもうこの年には工房で学びながら海で働き、美術工芸院への入学を目指していた。子供扱いはもう止めてやらなければ、と自覚はしている。
「盛夏の展覧会には何を出すのですか?」
最近、製作室に入り浸って麗射はあまり部屋に帰って来なくなっている。
熱の入った作品は清那も興味があった。
「見るか?」
麗射は、製作室に清那を連れて行った。
布のかかった縦長の板が部屋の隅っこに立てかけられている。
清那は顔料をすりつぶす乳鉢に目をとめた。そこには半分ほど粉になった、目が痛くなるほど鮮やかな青い欠片が入っていた。
「これは、剴斗殿からもらった煉州の
「ああ、牙蘭にはすりつぶさないようにと言われていたが、俺はこの石に新たな命を吹き込みたくなったのさ」
言葉とともに麗射は布を剥ぎ取る。
そこには、木枠に張られた厚い布の上に青一色で描かれた美しい少女がいた。
麗射の全力を尽くした絵画は、まるで彼女が生きているかのように命を与えている。
顔の素描は実物とは異なっているが、絵全体を包む熱い何かがあった。
「イラム……」
清那のつぶやきにそっとうなずく麗射。
清那の心に何か鋭いものが刺さる。
麗射の瞳は、熱を帯びて。いつも自分に向けられる視線とはあきらかに違っていることを清那は思い知った。
絵の中の少女は、麗射の愛に包まれていた。
「いつも、俺の心の中に彼女の声が聞こえる。ただ、お互いに名前を呼び合うだけだが、心の深いところでつながっているんだ」
麗射は、清那から視線を逸らすようにイラムの絵に向かう。
「俺、やっぱり煉州に――」
「行かないでくださいね」
麗射の背中に向けて、ポツリと清那がつぶやく。
「あなたは、学院生代表です。この美術工芸研鑽学院を率いていく責任があります」
麗射が真顔で振り向く。
「あなたは自分の意志でどこかに行ける立場ではないのです」
「もしかして、それが、目的だったのか?」
「何のことです」
「ずっと、お前がなぜ俺なんかを代表に推すのか疑問に思っていた。もしかして俺をここにつなぎ止めるために、代表に推したのか?」
「それは、流れです。あの時、あなたが代表になる流れでした。運命には流れがあります。どう抗おうとも、流れには逆らえないのです」
この人の心は、自分には無い。
解っていたことなのに。
清那は麗射をまっすぐに見つめる。しかし、視線は帰ってこなかった。
身を翻すと、麗射はだまって製作室から出て行く。
彼は、もう無条件に自分を
時には、遠慮無くむき出しの感情をぶつけてくる、対等な男同士である。
心の中に一陣の風が吹く。
清那はその日、自分の少年期が終わりを告げたことを知った。
平飼いの鶏が柵の中を駆け回る。産卵箱の中から糞の付いた卵をそっと取り出すと、彼は手元のかごにそっと入れる。この後は鶏の休む鶏舎の掃除が待っている。
照りつける日差しの中で、玲斗は空を仰いだ。
煉州から来た玲斗の部下達もみんな何かしら働いて日銭を稼いでいる。その金を持ち寄って、皆で食材を買い、ともに分け合って食べるのが日課になっていた。筋肉はそげ落ち、目をギラギラと光らせた彼は、美術工芸院の頃の貴族的な雰囲気をすっかり失っている。
大柄な部下達はいつも腹を空かせている。人の目を盗んで、彼は糞の付いた卵を自分の
剴斗からの仕送りは日に日に少なくなっている。叡州に攻め込んだはいいが、肝心な資金が不足しているのだろう。故国もギリギリの橋を渡っているのだ。せめてその飢餓感が、煉州の力になってくれれば――と祈らずにはいられない。斬常は憎いが、故国は愛しい。兄を殺した父は憎いが、どうしようも無い愛しさもある。
相反する二つの感情に引き裂かれながら、玲斗は苦悶していた。
戦によって、人々に大きな変化が訪れようとしている。