第31話 夕陽

文字数 3,438文字

 その夜、寮の部屋には久しぶりにレドヴィンが帰ってきた。自分に対する態度が全く変わっていないことに麗射は安堵し、今日出会った不思議な絵について彼に尋ねてみた。
「あれか、稀代の名作だよな。うそかまことか、あれを見て気がふれた学生も出たという噂だ」
 今日の体験を思い出して思わずうなずく麗射。レドウィンはそんな彼を可笑しそうに見ると話を続けた。
「大傑作なのに、あまりにも禍々しすぎて人前には出せない。困った学院側が祭壇と共にあの行き止まりの廊下に飾っているという訳さ」
 うなずき続けている麗射を見たレドウィンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だが、あれを描いたのはお前さんも良く知っている人間だぜ」
 知っている人間は学院の中には沢山いるが、良く知っているという人間は片手にも満たない。そのうちの一人、銀の公子は全く画風が違う。
「もしかして、レドウィンか?」
「あんな絵が描けていれば、今頃講師さ」レドウィンは大笑いして否定した。
「講師……、もしかして実践画法1のあの嫌味な奴」
経是(けいぜ)講師か? まあ、上手い人だが違うな」
 頭を巡らせても全く思い浮かばない。麗射は降参した。
「夕陽だよ」
「え?」
 思わず麗射は頓狂な叫びをあげた。
 学院の案内をしてくれた、見るからにやる気のなさそうな夕陽色の髪の青年。
「絵を描かせたら天才なのに、全く描こうとはしない。描いていれば今頃教授になっていたかもしれないのにあの性格だから全く絵筆をとろうとはしないんだ。教授会も毎年放校と留年で揉めている稀有な奴だよ」
 それにしても、ひょうひょうとした夕陽からあのような神々しい絵が生み出されるとは。
「あれはもう絵ではない。冥界への入り口です」
「ま、それくらい心身を削って生み出したってことだろうな」
 レドウィンはそれだけ言うと、ベッドにもぐりこんだ。連日の創作で疲れ切っているのだろう、傍らからはすぐに安らかな寝息が聞こえてきた。麗射もベッドに入り、枕もとのランプを消す。
「でも、なんで夕陽さんは描かないんだろう」
 暗闇に今日見た絵が再び浮かび上がる。塗り重ねられた画面は盛り上がり、計算を越えた本能が的確な場所に人々を配置している。見る者が地獄に目が奪われてのたうち回った後に一筋の光に導かれて天女の姿にたどり着くように。
 最初会った時の夕陽の言葉が麗射の頭によみがえった。
「地獄のような経験をすることで、天上の美を具現できる」
 だとすれば、一体彼は何を見てきたのか。ふいに死にゆく女性の喘ぎ声が聞こえた気がして麗射の背中にたらりと冷たい汗が流れた。
 その夜、麗射はまんじりともせずに朝を迎えた。



「夕陽さん、夕陽さん」
 昼食が終わりひと気のない食堂。そこにのんびりと現れた留年生を見つけて、麗射は駆け寄っていった。
「おや、まだ授業中だろう。勤勉が服を着た麗射がどうした風の吹き回し?」
「授業なんてどうでもいいんです。レドウィンに午後になるとあなたがここに現れるって聞いて、ずっと待ってたんですよ」
「朝はどうも苦手。頭がふらふらするんだ」
 もう朝ではないのだが、ぼさぼさ頭を掻くこの青年には今の時間は早朝らしかった。
 夕陽は厨房に声をかけていつもの定番なのか手慣れた様子で残り物の粥をもらうと、隅っこに座りすすり始めた。どうやら今起きてきたばかりらしい。背を丸めて、ぼさぼさの頭を振りながら食べる姿はまるで捨て犬のようだ。
「で、何?」
 粥の皿に顔をうずめたままくぐもった声で夕陽はたずねた。
「あの、あなたの絵を見ました」
 粥をすくう手を止めて、夕陽は口の周りに粥を付けた顔を上げた。
「あんな、つまらな――」
「地獄の咆哮と天上の調べを聞きました。自分の些末な悩みをすべて吹き飛ばすような圧倒的な迫力でした」
 夕陽の言葉を遮って麗射が声を上げた。
「あの一作を描いてから、あなたは筆を止めたと聞きました」
 そこからの展開が予見できたのか、困ったように首をかしげて夕陽が麗射を見る。
「あなたの絵が見たい」麗射は夕陽に詰め寄った。「もっと見たいんです」
 鬼気迫る表情で迫ってくる新入生に気おされたように夕陽は体を引いた。
「いや、心を全部持っていかれてしまったんだよ、あの絵に」
 夕陽は麗射の熱をかわすように顔の横でひらひらと手を振る。
「残念ながら、今の僕は、ぬ、け、が、ら」
 そして他人事のように薄笑いを浮かべた。
「では、なぜここにいるんですか、夕陽さんはまだ描きたいんでしょう」
「でもね、絵は描きたい時に描けるってもんじゃないよ。描けたとしても、その先に具現化される深淵の中に、自らも知らなかった(ごう)を目の当たりにすることがある。それが怖くて筆が取れなくなることもあるんだ。それに頭の内には理想があっても、自らの筆がそれを具現化させられるわけではないしね。ま、それは君もよくわかっているかもしれないけど」
 麗射の顔色が変わる。麗射の即興写生が救いようもないくらい下手くそだという噂は学院全体に流れているようだ。
 その隙に夕陽は皿を傾けて一気に粥を流し込むと、顎に垂れた汁を袖でふいて立ち上がった。
「ごめんねえ、やる気のある人ってちょっと苦手なんだよ」
 ぽんと麗射の肩を叩くと、そのまま夕陽は立ち去って行った。
 そう、描きたいように描けるという訳ではない。苦しんで努力しても才能が無ければ思うような作品には仕上がらないのだ。
 夕陽を焚きつけに来たはずなのに、逆に自らの心に火傷を負ってしまった麗射は呆然とその姿を見送った。
 描きたい絵が描けるわけではない。夕陽の言葉が頭の中で反響する。
 麗射の心の中に浮かぶ絵と手が具現化する絵は天と地ほども違う。このまま自分の思うように絵が描けない状態が続くのだろうか。
 麗射は逃げるように学院の外に出た。
 太いレンガの壁で囲まれてひんやりとした学院の中とは違って、照り付ける陽ざしが容赦なく麗射に降り注ぐ。あてどなく歩みを進める麗射が向かったのはあの壁だった。
 壁画が取り外されて今は真っ白く修復された美術工芸院の壁。
 麗射は皆で顔料を投げつけたあのワクワクした気持ちを取り戻したかった。しかし、壁に照り返す白い光は、むしろ麗射に不正入学の(そし)りを思い出させるばかりだった。
 俺は美術工芸院にいてはいけない人間なのか。
「おい、兄ちゃん。壁画の兄ちゃんじゃないのか」
 声をかけてきたのは一人の果物売りだった。
「捕まってどうなったか気になってたんだが、獄から解放されたんだな。よく追放にならなかったもんだ」
 ああ、あの無遠慮な緑色の人だ。麗射に微笑みが戻る。この人が呼び水になって皆が顔料を投げ始めた、いうなればあの壁画の立役者だ。
「どうした、浮かない顔をしているな。俺の店にでも来ないか、出獄祝いに果物でも持って行けよ」
 断る理由はない。促されるままに麗射は親父についていった。
 粗末な屋台には、果物と不格好なざるが並んでいる。
 そのざるを見て麗射は目を丸くした。
「こ、このざるは?」
「ああ、牢獄の囚人どもが作ったざるだ。数か月前から牢獄で作り始めたみたいでよ、お前さんのこともあるし仕入れ値も安いし結構ものも良いんで置き始めたんだ。よく売れるんだけど、いつも一個だけ売れ残ってよお。困っているんだ」
 震える手でざるを取り上げる麗射。
「こ、これを買ってもいいか?」
「やるよ、どうせそれはおまけでついてくるんだ」
「いや、買いたいんだ。これを」
 麗射の目には涙があふれる。ポケットを探り、なけなしの小銭をつかむと親父に渡す。
「これを作った奴を知っているんだ」
 脳裏には、不格好な手つきでざるを編む雷蛇の姿が蘇っていた。
 何度か牢獄を訪ねようとした麗射だが、牢獄との境界の壁近くには一般人が近づかないように常に警備がされている。門の外の警備兵には知った顔はおらず、近寄ろうとすると長い槍で追い払われた。
 牢獄の話題は外には伝わってこなかったため彼はただ皆の無事を祈るしかなかったのだ。
 中でも気になるのは一番重罪の雷蛇だった、何らかのきっかけで刑が重くなっていないか、銀老草をまた始めていないか――。
 しかし、この不格好にゆがんだざるは下手なりに丁寧に編んであり、巧緻性(こうちせい)を奪う銀老草中毒の者に作れるものではなかった。
 獄の皆も頑張っているんだ、俺はなんて贅沢なことで悩んでいたんだ。
 やるしかない。雑念を払ってひたすら描くしかない。
 親父にもらった果物をざるに入れ、麗射は美術工芸院に戻って行った。

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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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