第35話 稀覯本
文字数 3,556文字
数日後、麗射の絵に異変が起きた。
「お前、なんだか急にまともな絵を描くようになったな」
瑠貝が麗射の後ろに立って、麗射の頬を引っ張った。
「それともお前は麗射の皮をかぶった砂漠トカゲか?」
大きな砂漠トカゲは年を経ると頬の皮膚が垂れさがる。そうなるとよからぬ知恵を持ち、人を襲って食うと言われていた。砂漠に脱皮した大きな皮を見つけると、人々は砂漠トカゲが自らの皮を脱ぎ、食べた人間の皮をかぶって人間になりすましているのだろうと噂しあった。
波間の真珠には、怪我をしても痛がらない男を不思議に思った人々が、思い切り皮膚を引っ張ると破れた皮の下から丸裸のトカゲが現れたという有名な昔話が伝えられている。
「やめろ、俺は本物だ」笑いながら麗射は懐から一冊の本を出した。
「これさ」
ボロボロになった革表紙の本は題名がすり切れて読めないが、ページをめくると事細かに素描の練習法をはじめとした画法についての記載がされていた。
「ある日寮の部屋の前に、俺あてでこの本が置かれていたんだ」
ふうん、と手に取りながら瑠貝 がページをめくる。
「これは高価そうな本だな。そうとう使い込まれているが、紙も極上だし、装丁に金糸が使われている。うまく売ればきっと高値がつく、俺が売ってやるから手数料を折半――」
「馬鹿言うな」
慌てて瑠貝から本を取りかえす麗射。
「この本にはな、数学を使った画面の構成方法とか色彩による凹凸の表現とか、とにかく金に換えられない知識がこれでもかとばかり詰まっているんだよ」
しかし、確かに言われてみれば誰が自分にこんな高価な本を与えてくれたのかがわからない。毎夜ただひたすら貪るようにこの本を読んで、日が上るまで自主練習を重ねたおかげで麗射の素描の腕はぐんぐんと上がっていったのだ。送り主には是非お礼をしたいところである。
「みんな、心当たりは無いか? この本のことを周りの皆に聞いても誰も知らないって言うんだ」
「お前に宛てて置かれていたんだろう、宛名の字はどうだった?」
「きれいな字だったが、だれもこんな筆跡は知らないというんだ」
「ふうん、相手は学のある人物と見える」
生徒たちは絵は上手いが字はからっきしというものも結構いた。皆、工房で手伝いをしながら絵の修行だけに明け暮れてここにきているので、字は書ければ上出来。ましては、美しい字体を習えるほど恵まれた環境にいる者はほとんどいなかった。
「持ち主の手掛かりが本に残っているかもしれないぞ。絵を描いている最中に本を見ることも多いから、青が好きな奴の本なら青の顔料の付着が多かったりな」
確かに瑠貝の言う通り、本には元の持ち主が絵筆を握りながら触った痕と思われる顔料の付着や、指の形が残っていた。指は女性を思わせるかなり華奢な指だ。
麗射はまだ読んでいない後半のページをめくってみる。しおりの代わりか、ページの谷間に細く切った紙が挟んであった。
「こ、これは」
麗射が息を飲んだ。紙には細い筆で書かれた一筋の線が光っていた。
それは忘れもしない銀の色。
「深窓の令嬢――」
「はあ? 何を言っているんだ」瑠貝が首をかしげる。
「高価な白金の顔料だ。高すぎて手が出ないって意味で俺が深窓の令嬢と呼んでいる――」
値段をまじえた説明は瑠貝にしっくりきたらしい。彼は大きくうなずいた。
「白金の顔料なんて使えるのは一握りの富裕な絵描きだけさ。あの銀は、天女のような無垢の輝きを発するくせして、こちらに強い欲情を掻き立てる罪作りな顔料だよ」
そこまで話した瑠貝は麗射の表情が眉をひそめたまま固まっているのに気が付いた。
「おい、どうした」
「いや、なんでもない」
麗射は本を懐に突っ込む。
まさか。麗射は頭に浮かんだことを冷静に吟味できなかった。
俺にこの本をくれたのは、銀の公子?
確かに清那なら麗射の部屋を知っている。深窓の令嬢も自由に買える財力もある。
板書の字は数字が多いが、確かにこの手紙の字と似ていると言われれば似ている。
「これ以上あなたと打ち解けるつもりはありません」
だが、会いに行った時の彼の冷たい口調が麗射の脳裏によみがえった。
これをくれたのが清那であるならば、いったいどういう風の吹き回しだ?
傍らの瑠貝の怪訝な表情にも気づかず。麗射は腕組みをしてひたすら悩み続けた。
日々が過ぎ、教場に並べられた作品は迫力の麗射と、技術の玲斗の一騎打ちの様相を呈してきた。
「麗射、上手くなったなあ」
皆が急成長した麗射の周りに集まって口々にほめたたえる。
「どうやって練習したんだ? だれか上級生に習っているのか?」
「レドウィンは卒業制作でお前に教えるどころじゃないよな」
「じゃあ、魔術でも使ったのか?」
麗射は懐から本を出した。
「これ、誰からかわからないけど部屋の扉の前に置いてあったんだ。誰のものか知らないか?」
へえ、とみんなが革表紙の本を回し見る、が、持ち主を知る者はいなかった。
「今度貸してくれよ」
友人たちの言葉に麗射は快くうなずいた。
「ああ、俺一人で読むのはもったいない――」
「ちょっと待て」
いきなり輪の外から長い腕が伸びて、麗射の本を取り上げた。
「これは禁帯出の図書館の本ではないのか」
意地の悪い声は玲斗であった。彼は背表紙をなでながらぎろりと麗射を睨む。
「この性根の悪い盗人が」
「証拠はどこにあるんだ」さすがの麗射も顔を赤くして言い返す。
「もの知らずめ、背表紙の裏側に塔と書いてあるのを見ても何も思わないのか? これは、歴史的名著。叡州の塔技 高師の著書だ。塔家は北方の古い名家で、塔技高師は天の智を濃縮したと評されるような天才だったらしい。この世に現存するのは数冊、一冊はこの美術工芸院の図書館にあるが、他は各州の名家や王族の持ち物として保管されているはずだ。普段は貸し出すことも許されない稀覯本で、汚すことを恐れて蔵書の印も押されない宝物だ」
これは俺が図書館に返しておく。と、玲斗は本を懐に入れようとした。このまま持ち去られるかもしれない、いや、奴ならそうする。麗射は玲斗の腕をつかんだ。
「待て、図書館には俺も行く」
すると、
「俺たちも行こう」
教室の皆も二人の周りを取り囲んだ。
「勝手にしろ」
流石にこの人数を相手にするのは分が悪いとふんだのか、麗射の手を払いのけながらも、玲斗はうなずいた。
玲斗と麗射を先頭に学院生たちが廊下を連なって歩くのを、すれ違った院生たちが怪訝な顔で振り向く。
「どうしたんだ?」
「もめてるんだってさ。また、あの玲斗と麗射が」
面白がってすれ違った人々が最後尾にくっつく。
図書館につくころには、学院始まって以来の大行列になっていた。
「どうしたっていうんだ?」司書が飛び出してきた。彼らは単なる司書ではなく美術史の研究者が持ち回りで司書を兼任している。
「この本です。麗射が図書館から盗んだものではないですか?」
玲斗の糾弾に、人々がざわめく。
「人聞きの悪いことを言わないでください。俺の部屋の前に置いてあったんです」
麗射が顔を赤くして反論した。
「これは確かに珍しい本だ。確かにこんな稀覯本には図書館蔵書の印鑑を押さないが――」
革表紙の本を受け取った司書は、禁帯出の本が入っている図書館の奥の部屋に引っ込んだ。しばらくして彼はもう一冊同じ本を持って出てきた。図書館の本は、麗射の使っていた本よりはずっと美品であった。
「図書館の蔵書はあった。濡れ衣は晴れたよ」
本は玲斗ではなく、麗射に直接渡された。
司書の言葉を聞いて、図書館に歓声が響き渡る。今度は玲斗が顔を紅く染める番だった。彼は血がにじむほど唇をかみしめて、快哉を上げる人々に背を向けると足早に去って行った。
司書は麗射にそっと耳打ちした。
「もう一冊は、確か銀の公子が持っておられたはずだ。たずねてみたらどうだい」
やはり想像通りだった。司書の言葉に頷く麗射だったが、同時に公子の意図が見えずに困惑のうなりを上げた。
なぜ公子は自分なんかに本をくれたのであろうか。あまりの下手さを憐れんでだろうか。
宛名だけで名前を書かないという事は、贈り主の名前を隠しているのだろう。しかし、しおりに描かれた一筋の銀色の線は、麗射にそれとなく自分の存在を告げようとしているようでもあった。やはりお礼に行った方が良いのであろうか。しかし、罪人の自分が銀の公子に会いに行くのは、はばかられる――。
以前の面会の気まずさが頭から離れない麗射には、すぐさまお礼に行く勇気はなかった。
「お前、なんだか急にまともな絵を描くようになったな」
瑠貝が麗射の後ろに立って、麗射の頬を引っ張った。
「それともお前は麗射の皮をかぶった砂漠トカゲか?」
大きな砂漠トカゲは年を経ると頬の皮膚が垂れさがる。そうなるとよからぬ知恵を持ち、人を襲って食うと言われていた。砂漠に脱皮した大きな皮を見つけると、人々は砂漠トカゲが自らの皮を脱ぎ、食べた人間の皮をかぶって人間になりすましているのだろうと噂しあった。
波間の真珠には、怪我をしても痛がらない男を不思議に思った人々が、思い切り皮膚を引っ張ると破れた皮の下から丸裸のトカゲが現れたという有名な昔話が伝えられている。
「やめろ、俺は本物だ」笑いながら麗射は懐から一冊の本を出した。
「これさ」
ボロボロになった革表紙の本は題名がすり切れて読めないが、ページをめくると事細かに素描の練習法をはじめとした画法についての記載がされていた。
「ある日寮の部屋の前に、俺あてでこの本が置かれていたんだ」
ふうん、と手に取りながら
「これは高価そうな本だな。そうとう使い込まれているが、紙も極上だし、装丁に金糸が使われている。うまく売ればきっと高値がつく、俺が売ってやるから手数料を折半――」
「馬鹿言うな」
慌てて瑠貝から本を取りかえす麗射。
「この本にはな、数学を使った画面の構成方法とか色彩による凹凸の表現とか、とにかく金に換えられない知識がこれでもかとばかり詰まっているんだよ」
しかし、確かに言われてみれば誰が自分にこんな高価な本を与えてくれたのかがわからない。毎夜ただひたすら貪るようにこの本を読んで、日が上るまで自主練習を重ねたおかげで麗射の素描の腕はぐんぐんと上がっていったのだ。送り主には是非お礼をしたいところである。
「みんな、心当たりは無いか? この本のことを周りの皆に聞いても誰も知らないって言うんだ」
「お前に宛てて置かれていたんだろう、宛名の字はどうだった?」
「きれいな字だったが、だれもこんな筆跡は知らないというんだ」
「ふうん、相手は学のある人物と見える」
生徒たちは絵は上手いが字はからっきしというものも結構いた。皆、工房で手伝いをしながら絵の修行だけに明け暮れてここにきているので、字は書ければ上出来。ましては、美しい字体を習えるほど恵まれた環境にいる者はほとんどいなかった。
「持ち主の手掛かりが本に残っているかもしれないぞ。絵を描いている最中に本を見ることも多いから、青が好きな奴の本なら青の顔料の付着が多かったりな」
確かに瑠貝の言う通り、本には元の持ち主が絵筆を握りながら触った痕と思われる顔料の付着や、指の形が残っていた。指は女性を思わせるかなり華奢な指だ。
麗射はまだ読んでいない後半のページをめくってみる。しおりの代わりか、ページの谷間に細く切った紙が挟んであった。
「こ、これは」
麗射が息を飲んだ。紙には細い筆で書かれた一筋の線が光っていた。
それは忘れもしない銀の色。
「深窓の令嬢――」
「はあ? 何を言っているんだ」瑠貝が首をかしげる。
「高価な白金の顔料だ。高すぎて手が出ないって意味で俺が深窓の令嬢と呼んでいる――」
値段をまじえた説明は瑠貝にしっくりきたらしい。彼は大きくうなずいた。
「白金の顔料なんて使えるのは一握りの富裕な絵描きだけさ。あの銀は、天女のような無垢の輝きを発するくせして、こちらに強い欲情を掻き立てる罪作りな顔料だよ」
そこまで話した瑠貝は麗射の表情が眉をひそめたまま固まっているのに気が付いた。
「おい、どうした」
「いや、なんでもない」
麗射は本を懐に突っ込む。
まさか。麗射は頭に浮かんだことを冷静に吟味できなかった。
俺にこの本をくれたのは、銀の公子?
確かに清那なら麗射の部屋を知っている。深窓の令嬢も自由に買える財力もある。
板書の字は数字が多いが、確かにこの手紙の字と似ていると言われれば似ている。
「これ以上あなたと打ち解けるつもりはありません」
だが、会いに行った時の彼の冷たい口調が麗射の脳裏によみがえった。
これをくれたのが清那であるならば、いったいどういう風の吹き回しだ?
傍らの瑠貝の怪訝な表情にも気づかず。麗射は腕組みをしてひたすら悩み続けた。
日々が過ぎ、教場に並べられた作品は迫力の麗射と、技術の玲斗の一騎打ちの様相を呈してきた。
「麗射、上手くなったなあ」
皆が急成長した麗射の周りに集まって口々にほめたたえる。
「どうやって練習したんだ? だれか上級生に習っているのか?」
「レドウィンは卒業制作でお前に教えるどころじゃないよな」
「じゃあ、魔術でも使ったのか?」
麗射は懐から本を出した。
「これ、誰からかわからないけど部屋の扉の前に置いてあったんだ。誰のものか知らないか?」
へえ、とみんなが革表紙の本を回し見る、が、持ち主を知る者はいなかった。
「今度貸してくれよ」
友人たちの言葉に麗射は快くうなずいた。
「ああ、俺一人で読むのはもったいない――」
「ちょっと待て」
いきなり輪の外から長い腕が伸びて、麗射の本を取り上げた。
「これは禁帯出の図書館の本ではないのか」
意地の悪い声は玲斗であった。彼は背表紙をなでながらぎろりと麗射を睨む。
「この性根の悪い盗人が」
「証拠はどこにあるんだ」さすがの麗射も顔を赤くして言い返す。
「もの知らずめ、背表紙の裏側に塔と書いてあるのを見ても何も思わないのか? これは、歴史的名著。叡州の
これは俺が図書館に返しておく。と、玲斗は本を懐に入れようとした。このまま持ち去られるかもしれない、いや、奴ならそうする。麗射は玲斗の腕をつかんだ。
「待て、図書館には俺も行く」
すると、
「俺たちも行こう」
教室の皆も二人の周りを取り囲んだ。
「勝手にしろ」
流石にこの人数を相手にするのは分が悪いとふんだのか、麗射の手を払いのけながらも、玲斗はうなずいた。
玲斗と麗射を先頭に学院生たちが廊下を連なって歩くのを、すれ違った院生たちが怪訝な顔で振り向く。
「どうしたんだ?」
「もめてるんだってさ。また、あの玲斗と麗射が」
面白がってすれ違った人々が最後尾にくっつく。
図書館につくころには、学院始まって以来の大行列になっていた。
「どうしたっていうんだ?」司書が飛び出してきた。彼らは単なる司書ではなく美術史の研究者が持ち回りで司書を兼任している。
「この本です。麗射が図書館から盗んだものではないですか?」
玲斗の糾弾に、人々がざわめく。
「人聞きの悪いことを言わないでください。俺の部屋の前に置いてあったんです」
麗射が顔を赤くして反論した。
「これは確かに珍しい本だ。確かにこんな稀覯本には図書館蔵書の印鑑を押さないが――」
革表紙の本を受け取った司書は、禁帯出の本が入っている図書館の奥の部屋に引っ込んだ。しばらくして彼はもう一冊同じ本を持って出てきた。図書館の本は、麗射の使っていた本よりはずっと美品であった。
「図書館の蔵書はあった。濡れ衣は晴れたよ」
本は玲斗ではなく、麗射に直接渡された。
司書の言葉を聞いて、図書館に歓声が響き渡る。今度は玲斗が顔を紅く染める番だった。彼は血がにじむほど唇をかみしめて、快哉を上げる人々に背を向けると足早に去って行った。
司書は麗射にそっと耳打ちした。
「もう一冊は、確か銀の公子が持っておられたはずだ。たずねてみたらどうだい」
やはり想像通りだった。司書の言葉に頷く麗射だったが、同時に公子の意図が見えずに困惑のうなりを上げた。
なぜ公子は自分なんかに本をくれたのであろうか。あまりの下手さを憐れんでだろうか。
宛名だけで名前を書かないという事は、贈り主の名前を隠しているのだろう。しかし、しおりに描かれた一筋の銀色の線は、麗射にそれとなく自分の存在を告げようとしているようでもあった。やはりお礼に行った方が良いのであろうか。しかし、罪人の自分が銀の公子に会いに行くのは、はばかられる――。
以前の面会の気まずさが頭から離れない麗射には、すぐさまお礼に行く勇気はなかった。