第118話 煽動

文字数 5,307文字

「腹を決めたらしいぜ、奴は」
 講堂の隅にたたずむ走耳は横の幻風にささやいた。
「ああ、そうらしいな。先ほどわしの所にもやってきた。あれを使うらしい」
「えっ」
 走耳は目を丸くする。
「爺さんが以前勧めたときに1度断ったって聞いたぞ、それは人の心を(ゆが)めるものだって」
「奴もやっと戦はきれい事では無いってことがわかったようじゃな。大切なのは何人殺すかではない、一人でも多く生き延びた方が勝ちなのじゃ。全力で勝ちきるためには、手段を選んでいる余裕はない」
 幻風の細い目が冷たく光る。それはこの好々爺がけっして日の当たる道ばかりを歩いてきたのではないことを示していた。
 講堂に詰めかけた人々は何が始まるのかわからず、ざわめきは最高潮に達していた。
 麗射は一人で壇上に上がった。いつもは背後に立つ清那も、美蓮も居ない。彼らは聴衆と同じように壇の下で麗射を見上げている。麗射は今日、一人で話をさせて欲しいと彼らに頼んでいた。
「突然すまない、今日は俺の一存で、皆に集まってもらった」
 朗々と響く声。それは一点の曇りも無い、狂気を帯びた声だった。
「敵は早晩攻めてくるだろう。しかし安心しろ、波州からの援軍がこちらに来るとの報告があった。だから、それまでなんとしてでも生き延びねばならない」
「本当なのか?」小声で走耳が聞く。
「うそに決まっとるじゃろう」幻風が肩をすくめる。
 うそだ。聞いていない。でまかせだ。人々もその胡散臭さを感じるのか、口々に叫びを上げる。
「嘘では無い」にっこりと麗射は余裕の笑みを浮かべた。「伝鳥(でんちょう)が来た。援軍は波州を出たようだ」
 驚きとも安堵ともつかない低いざわめきが講堂を満たす。
「波州軍は間に合うのか? 敵が攻めてきたらどうなるんだ、軍の来たところまで、逃げ延びられるのか」壇の下に駆け寄って叫んだのは、順正だった。
「今は言えないが、策はある」
 麗射の断言に、講堂は水を打ったように静まった。オアシス軍には清那という軍師がいる。青砂漠の戦いで彼が起こした奇跡は、人々の猜疑心を抑え込むのに充分だった。
「全員が逃げ延びられる道は考えてある。大切なのは、それまでみんなで信頼し合うことと、心を強く持つことだ。君たちは皆オアシスの住民を救うため志願してくれた義と勇の人々だ。オアシスの人々は君たちを何千年も語り継ぐだろう」
 人々の瞳が初めて麗射の方に集まった。
「知や武に優れた者、名を成し財を成す者、そういう者は沢山いるだろう。しかし、運良く伝説になれる者はわずかだ。ここでオアシスの民を救った君たちは、生きながらにしてすでに伝説なんだ」
 困惑が混ざった、ざわめきが広がる。
「しかし、周りを囲む敵に対して恐怖におびえる事もあるだろう。それは当たり前だ」
 麗射は手を振り上げ、大きな身振りで人々に訴えかける。
「だから、君たちに素晴らしいものを用意している。これは恐怖を取り去る飴だ。君たちにこれを配る。戦いの中で恐怖が最高潮に達したときに口に含めば、力は倍加し、苦痛と恐怖は無くなる。我慢ももう少しだ、皆で力を合わせて波州軍が来るまで頑張ろう。大丈夫だ、生き延びられる。そして、生き延びた君たちに待っているのは万雷の拍手と賞賛の嵐だ」
 麗射が叫ぶ。だが会場はしん、と静まりかえっていた。
 その静寂を破るように、誰かが拳を突き上げて叫んだ。
「麗射、麗射――」それは、美蓮の声に似ていた。
 我に返ったように、人々は彼の名を連呼し始める。
 声が講堂の壁に反響し、空気が震える。皆で拳を振り上げて、同時に叫び続けることで、彼らは恐怖を忘れ、個ではなく何か大きな存在の中の一部に溶けていくような感覚に浸っていた。
 人々が探していたものは、恐怖を忘れさせ狂気に誘ってくれる存在だった。


 演説を終えた麗射は深夜まで作戦会議室の彼の椅子に座ったまま、虚空を眺めていた。すでにこの部屋は彼一人になっている。
 食堂から甘い匂いが漂ってきた。人の居ない深夜を選んで幻風が飴を作っているのだろう。
 麗射は反芻(はんすう)するように、演説前に幻風とかわした会話を思い出す。
「以前、幻風が言っていた、恐怖と苦痛をなくす飴薬(あめぐすり)を作って欲しい」
「興奮剤の事だな。お安いご用だ」
「飴を作る材料はあるのか?」
「ああ、ここに来た当初、館内を探検していて見つけたのじゃ。実はこの美術工芸院で昔発想を得るために使っていたらしく大量に保管されていた。しかし、廃人になるものが出たためか、禁忌薬となり次第に忘れ去られていたようじゃ。これといくつかの野草を合わせて、煮出した汁と砂糖があれば飴は作れる」
 最後の砦である砂糖と塩の備蓄だけは、まだ余裕があった。底をつきかけたナツメヤシの代わりに最近は砂糖と塩を水に溶かして人々は食事代わりにしている。
「これは太古の昔、死地に(おもむ)く戦士に使われた薬だ。人は死ぬ時の苦痛が何よりも怖い。その恐怖が無くなるとわかれば、少しは落ち着くもんじゃ。だがいいか、作っている途中は食堂に人を寄せ付けるな、濃い煙を吸ったら昏倒してしまうぞ」
「幻風は、大丈夫なのか?」
「ああ、わしは薬に身体を慣らしておる……、というか、無理矢理慣らされたんじゃがな。しかし薬の誘惑を断つのは並大抵の事では無かった」
 幻風は遠くを見た。「もう2度とあのような思いはしたくない、な」
 皺の中に埋没していた目が見開かれ、切れ長の三日月のような鋭い姿を現わす。
 冬の月を思い出す、その冴え冴えとした光がまっすぐに麗射に向けられていた。
「いいか、この興奮剤を使うのは各自1回こっきり。そして、忘れてはいけない事は、恐怖を忘れた人間ほど強く、そしてもろいものは無い。と、いうことじゃ」
 すなわち、この薬はお守りじゃ。本当に使うのは死ぬとわかった時に限る。幻風はそう言い残して立ち去っていった。


「寝ないんですか? いつ敵の侵攻があるかもしれません。寝られるときに寝ないと」
 ドアが叩かれ、麗射の追想は途切れる。代わりに香草茶の良い香りが鼻腔をくすぐった。
 入ってきたのは、ポットとカップを持った清那だった。
「気分が高ぶった時にはこれを飲むと寝られます」
 清那は机の上に、二つのカップを並べた。
 定まらなかった麗射の視線が、目の前の青年に向けられる。薄暗い部屋の中で、彼の銀色の髪だけがランプの光を受けて瞬く星のように輝く。
「今まで、あなたは私の泣き言をいつも聞いてくださいました。今度は、私にその役目をさせてください」
 清那の落ち着いた声に、麗射がゆっくりとうなずいた。
 低い音を立てて、カップに香草茶が注がれる。
 麗射はコップに手を伸ばすが、震える手が取っ手に絡まない。清那は麗射の手にそっとカップを握らせた。
 うつむいた麗射の肩が揺れ、嗚咽が漏れる。
「俺の……」しばらくの沈黙の後、彼は喉から絞り出すように口を開いた。
「俺のしている事はあのときの氷炎と同じだ。いや、この戦いの無意味さを知りながら皆を(あお)って死地に赴かせると言う意味では氷炎よりも悪辣(あくらつ)だ」
「叡州からの伝鳥では、降伏したとしても我々を皆殺しにする指令が出ているようです。無意味でも、生きる希望が少しでもあるなら戦うしかありません」
 感情の薄い、迷いの無い言葉。しかし、今の麗射にはどんな慰めよりも心地よい。
「同じ死ぬなら、疑問を持たずに死なせてやるのが温情というものです」


 翌日の午後。
「麗射、清那、聞いてもらえますか?」
 ごっそり頬の落ちた顔に満面の笑みを浮かべて作戦会議室に飛び込んできたのは奇併だった。
「先日はご苦労様。防衛に仕えそうな毒がないか調べてくれたおかげで、いくつか作戦を立てることができた」清那が頭を下げる。
「いや、そんなことはどうでもいいんですが――」
 相変わらずの礼儀知らずぶりだが、息せき切って中に入ってくるからにはよほどのことがあったのだろう。麗射も清那も彼の言葉を待つように顔を向ける。
 ちょうど皆出払っており、部屋の中にはこの3人のみであった。
「俺たちが逃げるときに、敵の追撃を抑える方法があるんです」
「何か思いついたのか?」麗射が身を乗り出す。
「ええ」奇併はよほど自信があるのか、ニヤリとしてうなずく。
「番人どもめ、最後まで隠してやがった大きな岩があったんですよ。狂殺岩(きょうさつがん)と言って鉛やヒ素などのいろいろな猛毒が含まれている鉱物なんですが、水の中に漬けると徐々に毒が溶け出し、その水を飲んだものは急に死ぬこともあるらしいんです」
 嬉しそうに彼は布で包んだ柱状の結晶が固まった光沢のある黒灰色の欠片を見せた。
 清那と麗射は思わず息をのむ。
「なんと美しい」
「これを砕いて、星の彼方で舞う天女の煌めく髪を描きたい……」
 身を乗り出す清那と麗射の反応に奇併はあきれたように首を振る。
「いやいやいや、目を付けるのはそこじゃ無くて、これ猛毒なんです。この石の大きな塊を銀嶺の雫の中に入れたらいいと思うんです」
 一瞬、石を賛美する二人の会話が止った。
「今、なんて言った?」
 麗射の眉間に皺がよる。
「敵はもうすぐここに攻め入ります。俺たち逃げる宛てはあるんでしょう? 自分たちの飲み水を確保しておいて、泉の中にこれを入れて逃げるんです。敵は飲み水がなくなってオアシスには居られなくなるでしょう。いくつかに砕けば奴らも除去することができません。俺たちを追うどころではなくなるし、叡州を側面から攻める侵攻の足がかりにもできなくなるし、一石二鳥です」
 麗射の目が奇併をにらみつける。
「それは人のやることではない」
「えっ? 安全に逃げられるまで良心を捨てていいって言ったのは、あなたじゃ無いですか」
「良心を捨てていいのは、俺たちを殺しに来る敵にだけだ」
「泉を潰すことで、確実に奴らを――」
「源泉を潰すのは俺たちと敵の問題じゃ無い」
「そうしないと、俺たち追っ手に殺されますよ。あなた、感傷で味方を全滅させた史上最低の司令官として後世に名を残すつもりですか」
「この銀嶺の雫があるからこそ、砂漠を渡る人々の命が救われるんだ。これまでも、そしてこれからも――」
 麗射は奇併の目をじっと見る。
「俺の選択がおろかだったかどうかは後世、砂漠を行く人々が決めてくれるだろう」


「ちぇっ、なんだいなんだい、あの偽善者野郎っ。たかだか百年や二百年ぐらい泉の水が飲めなくてもいいじゃないかよ」
 3階を一周取り巻くベランダから美術工芸院の庭を見下ろしながら、奇併はぶつぶつと副官の縁筆相手に愚痴を垂れる。
「ま、この水は美味しいですからね」
 あああ。奇併はうめきながら頭を抱える。
「俺、もう庭に運び出してしまったんだよ。あの岩さあ、結構重くて、文句を言う兵士どもに『天才の大作戦に協力しろ、目から鱗の結果になるから楽しみにしとけ』って散々大口たたいてきたんだよ」
 つり上がった目がいきなり垂れて、奇併はがっくりと肩を落とす。
「今更、どの口で言えばいいんだよお、元のところに持って帰れってさあ」
「別に持って帰んなくてもいいでしょ。どっかに埋めとけば。事がすめば掘り出せばいいんですよ」
 もういい加減にして欲しいとばかりに縁筆が突き放す。
「そうか、そうだなあ。あ、あの根元にでも埋めさせよう」
 奇併の目は美術工芸院の端っこにある大きなサボテンを見ていた。



「牙蘭、体調はどうだ」
 オアシスを囲む、煉州軍。その小さな天幕に身をすぼめるようにして入ってきたのは、剴斗だった。
「清那殿の件は、心労だったな」
 奥に横たわる牙蘭はゆっくりと半身を起こした。土気色の顔色は、明らかに体調の悪さを示している。
「食あたりかも知れません、数日食べ物を受け付けなくて……」
「むしろ、それならばいいのだが」
 剴斗は手に持った瓶を枕元の小机に置いた。そこには明るい紅色の液体が入っていた。
「ここに来た貴公の気持ちはよくわかる。清那殿は斬常の娘を連れて逃亡し、妻の絵を焼き払った、奴にとっては許しがたい敵だ。戦の最中、清那殿の命が奪われればまだいいが、万が一捕獲されれば、斬常によってどんな責め苦が与えられるか想像も付かぬ。貴公がせめて天界への梯子は自分がかけてやりたいと思うのは当然だ」
「ですが、清那様は私に示されました。生きるという決意を」
 牙蘭は、門が閉められる直前、矢を引きながら自分を見つめた鋭い紫の目を思い出す。
 もう主従では無い。あの目は語っていた。
「私は、最も敬愛する方を、自分の勝手な思い込みで……」
 門が閉じる寸前、確かに矢が当たったのを見た。そして、あれから姿を見ない。銀の髪の青年は表舞台から姿を消してしまったのだ。筋肉質の身体が、震える。
「まあ飲め、新酒を取り寄せた。煉州の葡萄酒は百薬の長と言われている。煌露と子供のためにも、早く元気になってもらわねばならん」
 剴斗が持ってきたビンを開けると、強いブドウの香りが立ち上った。
「無粋ですまん」
 渡された木のカップは擦れて、取っ手が欠けていた。
「もったいない」
「これを飲んでしっかり眠ることだ。侵攻が近い。過ぎたことは忘れて鋭気を養ってくれ」
 牙蘭は一礼すると、なみなみと注がれた新酒を一気にあおった。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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