第45話 難題
文字数 2,828文字
ここだな。麗射の前にそびえる2階建ての清楚な白亜の館は、ぱっと見にはどこにでもある日干し煉瓦の普通の家だがよく見ればその造りはがっしりと堅牢、地味だが細部に趣味の良い装飾が施されていた。ジェズムの部下はここが清那の住居だと教えてくれたが、確かにあの清楚で聡明な公子が好みそうな家である。場所もあの壁に群衆が集まればそのざわめきが聞こえてもおかしくはないところに建っていた。
意を決して麗射は鉄の門の前に立った。しかし、また正攻法で尋ねても屈強な警備の者に追い返されるのが関の山だ。とすれば……。
麗射は腹にまで息を吸い込むと声のかぎりに叫んだ。
「清那、清那講師っ、麗射です、話を聞いてください」
数度呼びかけたとき、内側からガチャリと鍵が開いた音がした。
「またお前か」
鍛え上げられた筋肉をむき出しにした、浅黒い肌の長身の男が麗射を睨みつけた。背中まで達する波打った髪を後ろで束ねているが、この髪は肌の色とは対照的な金色に近いうす茶色であった。
「頼む、清那に大切な話があるんだ。夕陽が洪水を予言した、学生が死んでしまう」
「人違いだ、ここには清那という者はいない」
そっけない言葉とともに、ドアが素早く閉じられる。しかしその直前、ドアに足を挟んで麗射は叫んだ。
「黒砂糖飴、黒砂糖飴の男と伝えてくれ――」
ドアの隙間に入れていた足先を蹴り上げられ、麗射は足を抱えて悶絶する。無情にもその隙にドアは勢いよく閉められた。
立ち上がることができず、路上にうずくまる麗射。
痛みの余り麗射はそのまま道の端っこで固まっていた。家のドアはぴったりと閉じられたままで、望みは潰えたかに思えた。
しかし、突然麗射の目の前に華奢な白い手が差し出された。麗射の目の前にたたずんでいたのはどこから姿を現したのか頭巾付きの白いマントに身を包んだ小柄な人影だった。
「大丈夫ですか? 手荒なことをしてすみません」
その声は。
「痛みが強いようですね、もしよければおつかまりください」
目深にかぶった頭巾の顔を覗き込んで、麗射の目が丸くなる
「清那講師――」
「告機 の件ですね。さ、中に」
夕陽の事を知っているのだろう、清那は黙ってとばかりに目で麗射を制した。
少年は手を貸して麗射を助け起こすと、裏口から建物の中に導きいれた。
「ご無礼をお許しください。身辺に少しばかり問題があるので身を隠していたのです」
一階にはかまどがあり、数人の召使たちが黙々と働いている。公子の家にしては質素すぎる、何処にでもあるやや裕福な家の光景であった。清那は頭巾を取ると石の階段を上がった2階に麗射をいざなった。
そこには、先ほどの男がミントティーの用意をして控えていた。声には出さないが、深々とした礼は麗射への謝罪であろう。
清那は麗射に椅子を勧めると、茶を勧めるのもそこそこに真剣な表情で切り出した。
「夕陽が体調を崩したとのことは伝え聞きました。彼が洪水を予言したのですか」
姿はまごうことない少年なのに、そのたたずまいはまるで年を経た賢者のように落ち着いている。初対面、黒砂糖飴で目を丸くした屈託のない少年の顔はどこかに封印されていた。
「夕陽は雨が降る、そして洪水が起こると半狂乱で叫んでいます。いつ起こるかはわかりませんが、あの夕陽の様子では事態は切迫しているようです。でも、あのわからずや――、いや玲斗は顔料の材料を求めて砂漠に出て行ったんです」
清那の顔色が変わった。
「夕陽の母親の予言は当たったと聞きます。その後の彼女の惨劇も有名な出来事です。彼は自らの出自を隠していますが、その彼が言うのなら大変な事態になるのかもしれません」
紫水晶の瞳に憂いがさす。
「盛夏に砂漠を渡るものはいないと思いますが、城壁の外にいる者があればオアシスの中に入れる必要があります。これは私が美術工芸院付きの広沙州の役人に手配をしましょう。それで、玲斗は今どこに」
「煉州 七色洞に向かって今朝出立したようです」
「それはいけませんね、何とかしなければ」
清那が目を閉じて考え込んだ。この美術院の実質的な庇護者である叡州 の公子としては、学院生を守るのも一つの義務と考えているのだろう。
「俺、俺が奴を追います。説得して何とか連れて帰ってきます」
麗射はテーブルに手をついて思わず立ち上がった。
「だめです、危険すぎます。あなたが巻き込まれるかもしれません」
清那は大きく首を振って頭を抱えた。
「彼らの素行は決して良いものではありませんが、それでも私たち学院の同胞です。何とかして助けないといけません、でもなんの義務もないあなたを行かせるわけには――」
「友人たちが船を作っています。俺は波州の海育ち、濁流が来ても船で漕ぎ渡る自信があります」
麗射は筋肉質の上腕を反対の手でぽんとたたいて、にこりと白い歯をのぞかせた。
が、その笑顔は急にすぼまり、言いにくそうに清那から目をそらす。
「だけど、その、船を作る……」
麗射の心を読んだかのように清那は皆まで言わさずきっぱりと言い放った。
「わかりました、資金を出しましょう」
「あ、ありがとうございます」
いつまでも頭を深々と降ろし続ける麗射のほうを、清那は少しきまり悪げな表情で見つめていたが、突然その瞳が閃いた。
「ただし、一つ条件があります」
「も、もちろんです公子。俺、何年かかっても絶対金を返します」
「そんなことではありません。出資するのは――」
しばらくの沈黙の後に発せられた一言は麗射の予想をはるかに超えたものだった。
「私も連れて行っていただけるなら、の話です」
「えっ」
まさかの難題出現に麗射は絶句した。叡州の公子をただでさえ危険な熱砂の砂漠に連れて行けるはずが無い。
「それが資金援助の条件です」
「ちょ、ちょっと待ってください。あなたに万が一のことがあれば美術工芸院の存続にかかわる大問題になります」
「かまいません。私は従者以外の者に黙ってあなた方についていきます。もし何かあれば、私が失踪したように伝えていただければいいのです。おそらくさほどの騒ぎにはなりません。叡州も私がいなくなったほうが都合がいいでしょうから」
最後の言葉は消え入るような声で壁に吸い込まれて行った。厚いガラスの窓に映るぼんやりとした外の景色に顔を向け、目を伏せる清那の顔には自虐を思わせる薄い微笑みが浮かんでいた。
何不自由ない財力と才能にあふれた公子の憂いを目の当たりにして麗射は何も言えずに立ちすくむばかり。
「迷惑はかけません。故国にとって私は無用の存在なのです」
ならば。と、公子は麗射の方に目を向けた。
「あなた方と冒険をするのは私の勝手です」
まっすぐに麗射を見返す目の奥には、黒砂糖を口に入れた時の少年の瞳が蘇っていた。
意を決して麗射は鉄の門の前に立った。しかし、また正攻法で尋ねても屈強な警備の者に追い返されるのが関の山だ。とすれば……。
麗射は腹にまで息を吸い込むと声のかぎりに叫んだ。
「清那、清那講師っ、麗射です、話を聞いてください」
数度呼びかけたとき、内側からガチャリと鍵が開いた音がした。
「またお前か」
鍛え上げられた筋肉をむき出しにした、浅黒い肌の長身の男が麗射を睨みつけた。背中まで達する波打った髪を後ろで束ねているが、この髪は肌の色とは対照的な金色に近いうす茶色であった。
「頼む、清那に大切な話があるんだ。夕陽が洪水を予言した、学生が死んでしまう」
「人違いだ、ここには清那という者はいない」
そっけない言葉とともに、ドアが素早く閉じられる。しかしその直前、ドアに足を挟んで麗射は叫んだ。
「黒砂糖飴、黒砂糖飴の男と伝えてくれ――」
ドアの隙間に入れていた足先を蹴り上げられ、麗射は足を抱えて悶絶する。無情にもその隙にドアは勢いよく閉められた。
立ち上がることができず、路上にうずくまる麗射。
痛みの余り麗射はそのまま道の端っこで固まっていた。家のドアはぴったりと閉じられたままで、望みは潰えたかに思えた。
しかし、突然麗射の目の前に華奢な白い手が差し出された。麗射の目の前にたたずんでいたのはどこから姿を現したのか頭巾付きの白いマントに身を包んだ小柄な人影だった。
「大丈夫ですか? 手荒なことをしてすみません」
その声は。
「痛みが強いようですね、もしよければおつかまりください」
目深にかぶった頭巾の顔を覗き込んで、麗射の目が丸くなる
「清那講師――」
「
夕陽の事を知っているのだろう、清那は黙ってとばかりに目で麗射を制した。
少年は手を貸して麗射を助け起こすと、裏口から建物の中に導きいれた。
「ご無礼をお許しください。身辺に少しばかり問題があるので身を隠していたのです」
一階にはかまどがあり、数人の召使たちが黙々と働いている。公子の家にしては質素すぎる、何処にでもあるやや裕福な家の光景であった。清那は頭巾を取ると石の階段を上がった2階に麗射をいざなった。
そこには、先ほどの男がミントティーの用意をして控えていた。声には出さないが、深々とした礼は麗射への謝罪であろう。
清那は麗射に椅子を勧めると、茶を勧めるのもそこそこに真剣な表情で切り出した。
「夕陽が体調を崩したとのことは伝え聞きました。彼が洪水を予言したのですか」
姿はまごうことない少年なのに、そのたたずまいはまるで年を経た賢者のように落ち着いている。初対面、黒砂糖飴で目を丸くした屈託のない少年の顔はどこかに封印されていた。
「夕陽は雨が降る、そして洪水が起こると半狂乱で叫んでいます。いつ起こるかはわかりませんが、あの夕陽の様子では事態は切迫しているようです。でも、あのわからずや――、いや玲斗は顔料の材料を求めて砂漠に出て行ったんです」
清那の顔色が変わった。
「夕陽の母親の予言は当たったと聞きます。その後の彼女の惨劇も有名な出来事です。彼は自らの出自を隠していますが、その彼が言うのなら大変な事態になるのかもしれません」
紫水晶の瞳に憂いがさす。
「盛夏に砂漠を渡るものはいないと思いますが、城壁の外にいる者があればオアシスの中に入れる必要があります。これは私が美術工芸院付きの広沙州の役人に手配をしましょう。それで、玲斗は今どこに」
「
「それはいけませんね、何とかしなければ」
清那が目を閉じて考え込んだ。この美術院の実質的な庇護者である
「俺、俺が奴を追います。説得して何とか連れて帰ってきます」
麗射はテーブルに手をついて思わず立ち上がった。
「だめです、危険すぎます。あなたが巻き込まれるかもしれません」
清那は大きく首を振って頭を抱えた。
「彼らの素行は決して良いものではありませんが、それでも私たち学院の同胞です。何とかして助けないといけません、でもなんの義務もないあなたを行かせるわけには――」
「友人たちが船を作っています。俺は波州の海育ち、濁流が来ても船で漕ぎ渡る自信があります」
麗射は筋肉質の上腕を反対の手でぽんとたたいて、にこりと白い歯をのぞかせた。
が、その笑顔は急にすぼまり、言いにくそうに清那から目をそらす。
「だけど、その、船を作る……」
麗射の心を読んだかのように清那は皆まで言わさずきっぱりと言い放った。
「わかりました、資金を出しましょう」
「あ、ありがとうございます」
いつまでも頭を深々と降ろし続ける麗射のほうを、清那は少しきまり悪げな表情で見つめていたが、突然その瞳が閃いた。
「ただし、一つ条件があります」
「も、もちろんです公子。俺、何年かかっても絶対金を返します」
「そんなことではありません。出資するのは――」
しばらくの沈黙の後に発せられた一言は麗射の予想をはるかに超えたものだった。
「私も連れて行っていただけるなら、の話です」
「えっ」
まさかの難題出現に麗射は絶句した。叡州の公子をただでさえ危険な熱砂の砂漠に連れて行けるはずが無い。
「それが資金援助の条件です」
「ちょ、ちょっと待ってください。あなたに万が一のことがあれば美術工芸院の存続にかかわる大問題になります」
「かまいません。私は従者以外の者に黙ってあなた方についていきます。もし何かあれば、私が失踪したように伝えていただければいいのです。おそらくさほどの騒ぎにはなりません。叡州も私がいなくなったほうが都合がいいでしょうから」
最後の言葉は消え入るような声で壁に吸い込まれて行った。厚いガラスの窓に映るぼんやりとした外の景色に顔を向け、目を伏せる清那の顔には自虐を思わせる薄い微笑みが浮かんでいた。
何不自由ない財力と才能にあふれた公子の憂いを目の当たりにして麗射は何も言えずに立ちすくむばかり。
「迷惑はかけません。故国にとって私は無用の存在なのです」
ならば。と、公子は麗射の方に目を向けた。
「あなた方と冒険をするのは私の勝手です」
まっすぐに麗射を見返す目の奥には、黒砂糖を口に入れた時の少年の瞳が蘇っていた。