第48話 涙

文字数 5,321文字

 清那はちらりと麗射の方を向く。情熱だけで皆を巻き込んで砂漠まで連れてきた焼刻纏いの青年は、焚火に照らされて顔を赤く染めながら大口を開けて笑っている。銀髪の少年はそれを見てかすかに微笑んだ。
 その夜は皆焚火の周りにテントを張り、早々に眠りについた。
「盛夏と言えども夜は結構冷える。しっかりと毛布をかけるんだぞ」
 皆の寝床を確認して回っていたレドウィンも眠りについた。
 旅立ち初日の興奮で寝付けそうにない麗射は、出立までの火の番を買って出ていた。
 何の確証もない半信半疑の砂漠行、無我夢中で決行したのはいいが、今更ながらにぼんやりとした不安が形をとってくるように麗射の心にのしかかり始めている。
 たき火で沸かしたポットの湯がシュンシュンと声を上げ始めた。ポットの中に香草の残りを入れ、懐からイラムにもらった銀色のコップを取り出し香草湯を注いだ。傍らに置いて、熱湯が冷めるまで空を仰ぐ。 
 ひんやりとした風の中、満天に広がる星の光が目に刺さる。
 彼は色を失った夜の砂漠に大の字になって横たわった。
 しばらく眺めていると、視界の中に散りばめられた星々の一つがまるで天から落っこちるように流れた。
「そういえば、お祖母さんが星が流れるときには誰かに良いことが起こっているときだと言っていた」麗射はつぶやいた。
 見知らぬ誰かが幸せになっている、それはどんな幸せだろう、離れ離れの親子が会えたのか、すきっ腹の旅人が美味しい夜食にありつけたのか。誰にせよ幸せになっている姿を想像すると自分まで心が温まる気がして、不安の底を漂っていた麗射の心は徐々に落ち着きを取り戻してきた。
 その時。
「ご一緒してもかまいませんか」
 ふと見ると清那が傍らに立っていた。
「え、ええ」
「先ほどはありがとうございました」
 公子は片膝を着いて左胸に手を当てて首を垂れた。麗射は慌てて起き上がる。
「あ、頭をお上げください。別にお礼を言われることなんか――」
「途中で会話に入って話を変えてくれたのは、私の困惑を察してくれていたのでしょう」
 清那の目に感謝が溢れていた。
「いや、俺は空気が読めないもんで、ついつい会話をぶった切ってしまうんですよ。すみませんでした」
 麗射は頭を掻いた。
 清那はそっと麗射の横に腰を下ろした。焚火の火が揺れて、少女のように長いまつげが煌めく。
 ヒョウとふきすぎる風に清那の体がかすかに震えた。
「寒いですか? ちょうどいい、香草茶をどうぞ」
 麗射は傍らに置いた銀のコップを清那に渡した。寒かったのだろう、公子は一礼して温かいコップを両手で包むようにして口を付ける。
 しばらくの沈黙の後、清那は口を開いた。
「私は妾腹なのです。母は政略結婚ですが、確かに大そう父の寵愛を受けていました、周りが跡継ぎ争いの火種になるのではないかと危ぶむくらい」
 焚火の明かりが清那の顔に陰影を作り、愁いを際立たせる。長いまつげが煌めきまるで陶器で作った人形のような美しさに麗射は思わず息を飲んだ。
「ところが母が急逝してしまったのです。その瞬間から宮廷には私の味方はいなくなりました。特に正妃である玲妃が私を嫌ったため、それまでは母譲りのこの髪を口を極めてほめてくれていた人々も掌を返すように蛮族の髪とののしり始めました。父は金に近い茶色の髪でしたので、混じりけのない銀色の髪は実子ではない証拠との噂もたちました」
 清那は唇をかみしめた。
 そんな清那にかける言葉が無く、麗射はただ黙って聞いていた。話を聞くまでもなく宮廷の中で清那の居所が無いのは、今までの言葉の端々からわかっていた。夕食の時も、銀の髪の話題から清那の顔が曇ったのに気が付き麗射はわざと話を変えたのだ。
 必要以上に人を寄せ付けない清那の心の殻は、孤独な宮廷で形成されたのだろうか。麗射は人から羨まれる公子の寂寞とした内面を目の当たりにして言葉が継げなかった。
「そんな私を守ってくれたのが私の義理の兄の真秀(ましゅう)でした。彼は玲妃の次男でしたが、ことあるごとに彼女から私を守ってくれたのです、大きな明るい目をした優しい兄で――」
 そこで言葉を切って清那はじっと麗射を見つめた。
「麗射、あなたはおおらかな雰囲気が真秀に似ています。だから、私はあなたを避けてしまった。あの日々を思い出すのが辛くて」
 閉じられた目からいきなり大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。
 いろいろなことを思い出したのだろう、声を出さないように固く口を閉ざしてはいるが、こらえきれない嗚咽が漏れる。まだ少年の入り口に立ったばかりの余りにも華奢な肩がひどく震えていた。樽の栓を抜いたように思いが噴き出しているのか、頬を伝う涙はとどまるところを知らない。
 宮廷でどんな目にあったのか、きっと麗射の想像を超えた辛い思い出を胸の内に貯めていたのだろう。
「私は必要ない人間なのです。生きていては邪魔なだけの」
「おい、ちょっと待て。おまえの不遇はわかったが、自分を哀れんでひねくれるんじゃ無い」
 麗射は清那の紫の瞳をまっすぐに見つめて、声を荒げた。
「生きている価値がないなんて、この世に生まれ出ることができなかった幾千もの命に悪いと思わないのか」
 目の前の青年の剣幕に清那がびっくりしたように顔をあげる。
「他人には好きに言わせておけばいいじゃないか。自分はなぜ生きているのかなんて悩まなくていい。生きて、自分がやりたいことをすればいいんだ。それが天命だ」
「天命――」
「俺たちは描きたい一心で砂漠を越えて、この美の砦にたどり着いた人間だ。何も考えずにひたすら心の内を表現すればいいんだ。それが俺たちの生きている意味だ」
 清那の目がいっぱいに開かれて、麗射の方を見つめ返す。
「生きて好きなことをすればいいんだ。おまえの生はおまえのものだ。でも、辛くて仕方ないときはいつでも俺に言え。気の済むまですべて聞いてやる」
 清那は黙ってうなずいた。
 麗射はそっと細い肩に手をかけた。漁で鍛えたごつごつとした手の中に細い肩がすっぽりと包まれ、身体が力なく倒れてきた。
 麗射は目の前の少年をそっと抱きしめてやることしかできなかった。



 夜が明ける前に一同は甘いお茶で喉を潤すと堅パンとそれに負けないくらい固いチーズをかじりながら出発した。流石に麗射も二日目となるとなけなしの勘を取り戻したのか、駱駝から転げ落ちなくなっていた。
 麗射は、昨晩体中の水分をみな涙にしてしまったのではないかと思われるほど泣いた清那を気にしていたが、当の本人は顔が見えないように頭巾を目深にかぶっていること以外特に変わりはなく、いつものすました少年に戻っていた。
 夜が明けたころ、常人の域を超えた視力を持つレドウィンが彼方を指さした。
「人がやってくる」
 それからしばらくして麗射達の目にも砂の上に斑点のような人影が二つ見え始めた。
「おおい」と手を振るとそちらも手を振り返してくる。
「盛夏に砂漠を歩いてくるなんて自殺行為だ」美蓮が首を傾げた。「それとも賊の一味か?」
 隊商を狙って砂漠に出没する盗賊もいる。
「相手は二人、こちらは五人。まずいことにはなるまい。遭難者に手を差し伸べるのは砂漠の掟だ」レドウィンはそういうと一足早く駱駝を駆り彼らの元に駆け寄って行った。
 一団が追いついたころ、レドウィンとその二人は何やら真剣な顔で話し込んでいた。
「彼らは玲斗達の星見だそうだ」
 レドウィンの紹介に皆がどよめく。やせこけた二人組の男はおずおずと頭を垂れた。薄汚れたマントからは何年も洗っていないような饐えた臭いが漂ってきている。
「で、玲斗達はどこに?」
 麗射は意気込んで尋ねた。道筋はだいたい決まっていると言っても広大な砂漠の中でたった五人の旅人を見つけ出すのは至難の業である。彼らに会えたのは僥倖であった。途中まで同行していた星見達ならもっと正確な道筋を知っているに違いない。
「旦那様たちは砂漠の涙を目指して進んでおられます」
「砂漠の涙?」
 波州方面から来た美蓮はオアシスから煉州の方への道筋には疎い。ギリギリまで船の調整をしていた彼は渡された地図をほとんど見る暇もなく参加していた。
「煉州よりの小さな井戸だ。ただ、量も多くはないし塩分が強いので人々からは砂漠の涙と呼ばれている」
 ただ――、とレドウィンは額に皺を寄せた。
「井戸のあるところの土地は低い。おまけに近くには青い龍が天から落ちたときにその爪痕が残ったという伝説がある二本の大きなえぐれが南北に縦走している」
「それは危ない、雨が降ったら川になって大変なことになるぞ」麗射達の顔色が変わる。
「だが、なぜ星見は帰って来たんだ」美蓮が尋ねた。
 レドウィンの顔がゆがんだ。
「玲斗達は食料を駱駝に乗せて、星見達だけを歩かせて砂漠を進んだらしい。食事も星見達には自分たちの残飯を与える始末、その上星見達が進言する旅程には難癖をつけて怒鳴るときては、彼らも愛想が尽きたらしい。奴らを置き去りにして去ってきたようだ」
 レドウィンは玲斗の行為に嫌悪の色をあらわにした。
「わしらにはわしらの矜持ってもんがありますだ」
 吐き捨てるように星見のひとりが言った。
「家畜以下の扱いで、馬鹿にされるようじゃいくら金を積まれてもお仕えする気にはならねえだよ」
 星見達への報酬は出立前に半額、旅行が終わってから残りの半額を支払われるのが普通だ。途中で彼らが怠けたり逃げたりすることを防ぐための決まり事だが、半額を捨てても帰ってくるとは相当に嫌な目にあったのだろう。
「心配いらねえだ、星の見方も教えてきた。煉州にはたどり着けるだ」
 玲斗のところまで案内してもらえるように麗射達は星見を説得した。しかしふてくされた星見達は首を縦に振らない。
「玲斗からもらうはずだった半額を払おう」
 とうとう麗射が最後の切り札を出す。先ほど確認したが、半額と言えども結構な額であった。星見達も麗射の必死さと賃金の魅力に屈し、しぶしぶ承諾した。
「ああ、ああ、言い値で交渉するなんて、帰ったら瑠貝にこっぴどく怒られるぞ」
 値切り倒しの駆け引きにかけては右に出る者がいない瑠貝がこれを見ていたらどんな顔をするか。美蓮はため息をついた。
 星見達に余分に持ってきた駱駝を一頭貸し与える。やせた二人は器用に一頭の駱駝に収まった。これで一行は七人に増えた。
「問題は食料だな」さすがのレドウィンも渋い顔をした。今回、荷を軽くして速度を上げるために、水と食料はぎりぎりしか持ってきていない。彼らに分け与えないわけにはいかないが、かなりこちらの食糧事情が厳しくなることは明らかだった。
「食料ならば私が調達しましょう」
 いつの間にか駱駝に乗って細い弓を携えた清那が目深にかぶった頭巾の下から言った。
「今なら砂漠トカゲが朝陽を浴びて体温を上げるために表面に出ているはずです。動きも鈍いし、狙いごろでしょう」
 そう言うと、公子は駱駝に飛び乗ると砂漠に駆け出した。そのまま弓をつがえて天に向かって無造作に放つ。あまりの早業に皆が呆然と見守る中、弓は縦長の放物線を描いて地面に突き刺さった。
「いかがですか?」
 得意げに砂漠トカゲのしっぽを掴んで清那が戻ってきた。風にあおられて頭巾がめくれあがっている。
「美味しそうでしょう」
 にっこりと微笑む清那だったが、皆の視線が獲物よりも自分の顔に向けられていることに気が付いて慌てて頭巾を目深にかぶる。まだ赤みの残る目と明らかにむくんだ瞼は誰の目にも激しく泣いた後だと一目瞭然であった。
「麗射様、ありがとうございます」
 背後からの低い声に麗射はぎくりと振り向く。そこにはいつも口を開くことない清那の従者、牙蘭が立っていた。
「あのような快活なご主人様を見たのは久しぶりです。あなた様のおかげです」
「いや、俺は何も――」
 麗射が困惑している間に、筋骨隆々とした従者はさっと身をひるがえし清那のほうに走り去って行った。
 しばらく星見達の案内で進んだ後、陽が中天に近づいたところで昼も兼ねた遅い朝食となった。火を起こして、清那の狩ったトカゲが丸焼きにされる。
 この荒涼とした砂漠で何を食べているのか、砂漠トカゲはまるまると肥えており塩を振っただけで皆に歓声を上げさせる一品に変化した。パリパリの皮にかぶりつくと、肉汁が滴り落ちる。臭みはなく鶏肉に似た淡白な味わいだが、砂漠で鍛えられた筋肉質の肉はしばらく噛んでいると四つ足の獣のようなこくのあるうまみが湧きあがってきた。しばらくの間皆黙りこくってその身を咀嚼する。
 学院では麗射を避けていたとは信じられないくらい、当たり前のように清那は麗射の横に腰を下ろしている。誰もその腫れあがった顔については話題に上げようとはしなかった。
「星見もいるし、一刻も早く奴らに追いつくため、今日から夜間に歩いて一日の踏破時間を長くする」レドウィンが宣言した。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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