第108話 後詰め
文字数 2,908文字
「麗射、しっかりしてください。すぐにオアシスに戻らなければなりません」
青砂漠の戦いから明けて一夜。清那は、吐くものが無くなり空嘔吐をしている麗射の前に回ると、両肩を掴んで顔を上げさせた。瞳からは光が消え、呆けたように無表情になった顔に涙だけが伝っている。
「麗射」
清那が肩を揺さぶるも、指揮官の視線は宙をさまようばかり。
心が戻ってこない、清那の表情が硬くなる。戦場の洗礼は、世の中の真の闇を見ること無く生きてきた青年には余りにも過酷だった。
その時。いきなり長い影が二人を包み込んだ。
清那から麗射を奪うように、筋肉の付いた腕が麗射の襟元を掴み、無理矢理立たせる。間髪を入れず、高い音とともに平手が麗射の頬を張った。
「あちらも死んだが、こちらも死人が出てるんだ。総大将が呆けていてどうする。押しつけられた役目とはいえ、お前が先頭に立って俺たちをここに連れてきたんだ。お前に逃げる権利はない」
もう一発。今度は手の甲が麗射の右頬を打擲 した。
麗射の唇から、赤い血が垂れる。襟を掴んでいた手が広げられ、麗射は土の上に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか、麗射」
慌てて清那が膝を突き、抱き起こす。
「甘えるな。その味を喰らえ、味わえ、嗅げ。皆、血を流して死んでいったんだ」
「玲斗……」
うつろな目が、血しぶきに服を染めた青年に向けられる。
「悲しみに逃げ込むな、目を開けろ、これがお前の選んだ道だ」
振り上げられた手の先には、骸 が散らばっている。どこから来たのか早くも鳥たちがその肉をついばむために集まっていた。
「お前は冥府に頭から突っ込んだんだ。正義の香りがした激情に踊らされてな。そして、美術工芸院の皆もまたお前の熱に浮かされて、冥府への道行きを歩み始めたんだよ、けっして戻れない一方通行のな」
無我夢中で戦った人々も、一夜明けて我に返っているのだろう。
彼らはもともと戦を生業 とした者達ではない。心に刻まれた傷は、日の出と共にうずき始めているにちがいない。
「だからな、お前は我に返ってはいけないんだ。己を欺してでも微笑め。勝利を言祝 げ。そして皆を欺 いてやるんだ。俺たちは人を殺したのではない、敵を葬った英雄なのだとな」
麗射の視線が、助けを求めるように清那に向けられる。清那は静かな瞳で麗射を見返し、口を開いた。
「あなたが落ちる冥府なら、私は最後までお供します」
麗射はがっくりと首を垂れる。しばらく、彼は小刻みに身体を震わせていた。が、震えは次第に大きくなり、そして、いつしか常軌 を逸 したような笑いに変っていった。
「そ、そうだ、俺たちはあの大軍を破ったんだ、大勝利だ」
彼は自分に言い聞かせるように、笑いながら何度も何度も叫び続けた。
「今必要なのは、正気に返って自らの所業 を顧みる将では無い。血飛沫 に酔いながら冥府への道を突き進む将なのだ」
麗射の姿を見ながら、金髪の青年がつぶやく。
「玲斗、感謝します」
清那が深く頭を下げる。
玲斗は清那に背中を向けたまま、微動だにしない。
「同胞に刃を向けたあなたもまた、心に――」
「無用なお気遣いです、清那様。勝ちは勝ちだと思えばいいのだと、この腰抜けに伝えに来ただけですから」
それだけ言うと、玲斗は振り向かずに陣地に戻っていった。
清那は、そっと叫びを止めた麗射を振り返る。
麗射の表情が違う。それは今まで彼が知っていた彼では無かった。憂いを吐き出した瞳の奥には、底知れぬ虚無の業火が揺らめいていた。
「残念ですが、彼らを埋葬する暇はありません。オアシスに戻りましょう。まだ戦いは続いています。次にこうなるのは、私たちかもしれません……」
波州に人々がたどり着くまで、あと二日は必要であろう。それまで彼らはオアシスで敵を引きつけなければならなかった。そして二日後には、彼らもまた波州に向けて出発する計画である。
「ああ」
麗射は先に立って歩き始める。清那の初めて見る、無表情な顔。
自分が彼を変えてしまった。
清那は押し寄せる罪悪感を振り払いながら、後を追う。
しかし、感傷に浸る余裕は無かった。二人の後ろから荒々しい蹄の音が迫り、辺りに砂煙が舞い上がる。
「麗射」
早駆けの駱駝にしがみつくようにして、そこに現れたのは走耳だった。彼は飛ぶようにして立った駱駝から大地に降りると、充血した目をらんらんと光らせて駆け寄ってきた。
「まずいぞ、敵が『砂漠の涙』まで来ている。それも大軍だ」
戦が終わってからすぐ彼は偵察に出ていた。不眠不休で駆け戻ってきたのだろう、こけた青い顔にまだ殺気をたぎらせている。偵察の最中に敵とやりあったのか、生乾きの返り血が鉄臭い香りを辺りに漂わせていた。
「早い」
清那が唇を噛む。さすが斬常だ、戦いが始まる前から、こちらが奇策を用いることを見越して、油断なく後詰めを行っていたという訳か。
今ここで迎え撃っても、疲労困憊の麗射軍は為す術なく殲滅 されてしまうだろう。
彼は砂漠に降り注ぐ柔らかい日差しに目をやる。今から秋、そして冬が訪れる。砂漠を荷駄が通ることのできる季節。包囲戦も真夏に比べてやりやすくなる時期に入る。
高い壁に囲まれているとはいえ、結構な広さのオアシスを大軍から500人足らずで守るのには限界がある。オアシスを囲む城壁から内側に侵入された場合、最終的に立てこもるのは美術工芸院――美の砦になるだろう。しかし、あそこに籠城するという事はすでに『銀嶺の雫』は敵方に占拠されていると言うことだ。無尽蔵な水を手に入れた大軍相手に、いったい何ができるというのか。
降伏。清那の頭にちらりとその言葉がよぎる。
いや、こちらは結構な数の敵兵を殺している。受けいれられるはずはない。
オアシスで防戦しながら、隙を見て水音の道から脱出……。
だが果たして、あそこから全員が逃げられるのか?
清那は麗射達と水音の道を歩いてみた時の事を思い出す。
ランプを掲げて、細くて暗い道を延々と歩いて行くと、不意に行き止まりとなり頭上の石の扉が地上への出口となっていた。彼らがやっとの思いで石をずらして這い上がったところには、いくつかの巨岩が背中合わせで寄り集まっていた。巨岩が砂嵐を遮りこの出口が埋没しないように守ってくれていたのだろう。
彼らは巨岩の隙間からなんとか這い出ることができたが、そこはオアシスから2里も離れていない場所だった。数人であれば、追っ手の目から逃れることができても、500人近い徒歩の人々がそこから歩いて血に飢えた大軍をまくことは不可能に近い。
どうすればいいんだ。
清那は肩で荒く息をする。自分たちの命運は波州に向かったジェズムと瑠貝が波州皇帝を説得してオアシスに援軍を送ってくれるかどうかにかかっている。もちろん交渉にはかなりの時間を要するだろうが、彼らならきっと説得してくれる。
それまで、援軍が来るまで、できるだけ長く持ちこたえなければ。
天帝よ、そこにいるのであれば――空に向かって祈りかけた清那は首を振った。
いつだって、助かる道は自分で切り開くしか無かった。これまでの人生で、祈りが彼を助けてくれたことは、一度たりともなかったのである。
青砂漠の戦いから明けて一夜。清那は、吐くものが無くなり空嘔吐をしている麗射の前に回ると、両肩を掴んで顔を上げさせた。瞳からは光が消え、呆けたように無表情になった顔に涙だけが伝っている。
「麗射」
清那が肩を揺さぶるも、指揮官の視線は宙をさまようばかり。
心が戻ってこない、清那の表情が硬くなる。戦場の洗礼は、世の中の真の闇を見ること無く生きてきた青年には余りにも過酷だった。
その時。いきなり長い影が二人を包み込んだ。
清那から麗射を奪うように、筋肉の付いた腕が麗射の襟元を掴み、無理矢理立たせる。間髪を入れず、高い音とともに平手が麗射の頬を張った。
「あちらも死んだが、こちらも死人が出てるんだ。総大将が呆けていてどうする。押しつけられた役目とはいえ、お前が先頭に立って俺たちをここに連れてきたんだ。お前に逃げる権利はない」
もう一発。今度は手の甲が麗射の右頬を
麗射の唇から、赤い血が垂れる。襟を掴んでいた手が広げられ、麗射は土の上に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか、麗射」
慌てて清那が膝を突き、抱き起こす。
「甘えるな。その味を喰らえ、味わえ、嗅げ。皆、血を流して死んでいったんだ」
「玲斗……」
うつろな目が、血しぶきに服を染めた青年に向けられる。
「悲しみに逃げ込むな、目を開けろ、これがお前の選んだ道だ」
振り上げられた手の先には、
「お前は冥府に頭から突っ込んだんだ。正義の香りがした激情に踊らされてな。そして、美術工芸院の皆もまたお前の熱に浮かされて、冥府への道行きを歩み始めたんだよ、けっして戻れない一方通行のな」
無我夢中で戦った人々も、一夜明けて我に返っているのだろう。
彼らはもともと戦を
「だからな、お前は我に返ってはいけないんだ。己を欺してでも微笑め。勝利を
麗射の視線が、助けを求めるように清那に向けられる。清那は静かな瞳で麗射を見返し、口を開いた。
「あなたが落ちる冥府なら、私は最後までお供します」
麗射はがっくりと首を垂れる。しばらく、彼は小刻みに身体を震わせていた。が、震えは次第に大きくなり、そして、いつしか
「そ、そうだ、俺たちはあの大軍を破ったんだ、大勝利だ」
彼は自分に言い聞かせるように、笑いながら何度も何度も叫び続けた。
「今必要なのは、正気に返って自らの
麗射の姿を見ながら、金髪の青年がつぶやく。
「玲斗、感謝します」
清那が深く頭を下げる。
玲斗は清那に背中を向けたまま、微動だにしない。
「同胞に刃を向けたあなたもまた、心に――」
「無用なお気遣いです、清那様。勝ちは勝ちだと思えばいいのだと、この腰抜けに伝えに来ただけですから」
それだけ言うと、玲斗は振り向かずに陣地に戻っていった。
清那は、そっと叫びを止めた麗射を振り返る。
麗射の表情が違う。それは今まで彼が知っていた彼では無かった。憂いを吐き出した瞳の奥には、底知れぬ虚無の業火が揺らめいていた。
「残念ですが、彼らを埋葬する暇はありません。オアシスに戻りましょう。まだ戦いは続いています。次にこうなるのは、私たちかもしれません……」
波州に人々がたどり着くまで、あと二日は必要であろう。それまで彼らはオアシスで敵を引きつけなければならなかった。そして二日後には、彼らもまた波州に向けて出発する計画である。
「ああ」
麗射は先に立って歩き始める。清那の初めて見る、無表情な顔。
自分が彼を変えてしまった。
清那は押し寄せる罪悪感を振り払いながら、後を追う。
しかし、感傷に浸る余裕は無かった。二人の後ろから荒々しい蹄の音が迫り、辺りに砂煙が舞い上がる。
「麗射」
早駆けの駱駝にしがみつくようにして、そこに現れたのは走耳だった。彼は飛ぶようにして立った駱駝から大地に降りると、充血した目をらんらんと光らせて駆け寄ってきた。
「まずいぞ、敵が『砂漠の涙』まで来ている。それも大軍だ」
戦が終わってからすぐ彼は偵察に出ていた。不眠不休で駆け戻ってきたのだろう、こけた青い顔にまだ殺気をたぎらせている。偵察の最中に敵とやりあったのか、生乾きの返り血が鉄臭い香りを辺りに漂わせていた。
「早い」
清那が唇を噛む。さすが斬常だ、戦いが始まる前から、こちらが奇策を用いることを見越して、油断なく後詰めを行っていたという訳か。
今ここで迎え撃っても、疲労困憊の麗射軍は為す術なく
彼は砂漠に降り注ぐ柔らかい日差しに目をやる。今から秋、そして冬が訪れる。砂漠を荷駄が通ることのできる季節。包囲戦も真夏に比べてやりやすくなる時期に入る。
高い壁に囲まれているとはいえ、結構な広さのオアシスを大軍から500人足らずで守るのには限界がある。オアシスを囲む城壁から内側に侵入された場合、最終的に立てこもるのは美術工芸院――美の砦になるだろう。しかし、あそこに籠城するという事はすでに『銀嶺の雫』は敵方に占拠されていると言うことだ。無尽蔵な水を手に入れた大軍相手に、いったい何ができるというのか。
降伏。清那の頭にちらりとその言葉がよぎる。
いや、こちらは結構な数の敵兵を殺している。受けいれられるはずはない。
オアシスで防戦しながら、隙を見て水音の道から脱出……。
だが果たして、あそこから全員が逃げられるのか?
清那は麗射達と水音の道を歩いてみた時の事を思い出す。
ランプを掲げて、細くて暗い道を延々と歩いて行くと、不意に行き止まりとなり頭上の石の扉が地上への出口となっていた。彼らがやっとの思いで石をずらして這い上がったところには、いくつかの巨岩が背中合わせで寄り集まっていた。巨岩が砂嵐を遮りこの出口が埋没しないように守ってくれていたのだろう。
彼らは巨岩の隙間からなんとか這い出ることができたが、そこはオアシスから2里も離れていない場所だった。数人であれば、追っ手の目から逃れることができても、500人近い徒歩の人々がそこから歩いて血に飢えた大軍をまくことは不可能に近い。
どうすればいいんだ。
清那は肩で荒く息をする。自分たちの命運は波州に向かったジェズムと瑠貝が波州皇帝を説得してオアシスに援軍を送ってくれるかどうかにかかっている。もちろん交渉にはかなりの時間を要するだろうが、彼らならきっと説得してくれる。
それまで、援軍が来るまで、できるだけ長く持ちこたえなければ。
天帝よ、そこにいるのであれば――空に向かって祈りかけた清那は首を振った。
いつだって、助かる道は自分で切り開くしか無かった。これまでの人生で、祈りが彼を助けてくれたことは、一度たりともなかったのである。