第19話 決行

文字数 3,735文字

 氷炎の傷の具合が悪くなっているという噂がたってから数日、容体が急変したという報が獄長に届いた。
「なんだと、後3日で煉州に護送というのに、そんなに悪いのか」
 獄長は豊かな顎髭を撫でながら、不機嫌そうに部下を見る。
「ええ、一度は治りかけていた傷がまた腐り始めたようで、房の中いっぱいに悪臭が広がって罪人どもが閉口しています。手当てしていた幻風もとうとう匙を投げたようで」
 煉州出身の部下がおずおずと答えた。
「幻風か――」
 獄長は腕組みをして顔をしかめた。
「あいつはそんなことよりもっとやることがあるだろうに。何をぐずぐずしているのだ」
 その時、ばたばたと獄吏が駆け込んできた。
「獄長殿、氷炎が、し、死にました」
「なんだと」
 獄長が房に駆け付けると、暗い牢獄で上半身裸のままうつ伏せになった氷炎が横たわっていた。
 ランプの光で映し出された皮膚は黄色く、背中の傷はただれて血と膿が溢れている。そのあまりの腐臭に獄長は顔をしかめた。腐臭の中にかすかに銀老草の匂いが漂っている。
「臭くてよお、たまらねえぜ。どうにかしろよ」
 雷蛇が口を動かしながら文句を言う。
 やめたと聞いていたが、また銀老草を噛み始めたのか。自らの命を縮めるとも知らず浅はかなことよ。獄長は大男の囚人を見て鼻先で笑うと、氷炎の傍らで看病する幻風の方を向いた。
「死んだのか」
 獄長の問いに幻風はうなずく。
「残念じゃが、傷を見ている最中にこと切れてしもうた」
 幻風は氷炎の顔を獄長に向ける。しばらく獄長が見つめていたが、氷炎は息をしなかった。
「早くどっかにやれよ。あの腐れがうつっちまうぜ」雷蛇がわめきたてた。
「回復に向かっていたのに、本当に死んだのか」獄長はまだ半信半疑だ。
 幻風は顔を元に戻すと無言で膨れ上がった傷口に、ぐさりと細い棒を突き立てた。傷口からたらたらと膿が流れ出る、しかし氷炎は微動だにしない。
「馬鹿野郎、このじじい何しやがるんだ。風に乗って飛び散った腐れがこっちに来たらどうするんだ」
 人垣の後ろに隠れるようにして、雷蛇が叫んだ。
「お疑いとあれば、獄長殿がお確かめを」
 幻風がべっとりと膿のついた棒で手招きする。棒から腐臭を帯びた緑色の膿がたらりと垂れさがっている。
「い、いや、もういい」獄長は慌てて後ずさった。「あの傷だ。どうせ助からんと思っておった」
「どうします。この男の死骸。置いておくと腐れの病が蔓延(まんえん)するのも時間の問題です」
 房の警備に当たっている勇儀が訪ねた。
「今日はずだ袋に入れて死体安置所に出しておきましょうか」
「本当に死んだのか、念のために首だけでも掻き切っておくか」
 獄長が、腐れて今にも崩れそうな体を見下ろして筋肉質の腕を組んだ。
「首を斬ると切り口から腐れの毒がまき散らされます。腐れは近くに置いておくと、自分も毒に侵されてしまうと聞いています。首を受け取りに来た使者の方に万が一のことがあっては」
 獄長の顔色が変わった。
「それはまずい。使者の首実検が終わるまでそのままにして、そのあとは袋に入れたまま燃やしてしまえ」
 勇儀の言葉にうなずいて、獄長はそそくさと獄を後にした。
 その後氷炎の体は、ずだ袋に入れられ遺体の安置所に移された。



「おい、そろそろいいぞ。この時刻なら、警備が薄くなっている」
 夜も更けて仲間と見張りの交代をした勇儀は獄の中に声をかけた。
「誰にもばれてはいないか。みな寝息を立てていたか?」
 麗射がたずねる。
「ああ」勇儀が声を潜めてうなずいた。
「さすがに今回は死体安置所にも警備が付いている。先ほど見に行ったら、警備交代したばかりの地塩が死体安置所で脈や呼吸はおろか目の中までしつこく氷炎先生の身体をあらためていた」
「脈と呼吸は銀老草でかなり弱まっていたはずだが」
 走耳が心配そうに勇儀に訪ねる。
「大丈夫だ、私も同席したが、先生は呼吸も上手く止めておられたし、脈も弱すぎて触れなかったから安心しろ」
「地塩ってどんな奴だ」麗射が問う。
「のっぺりとした顔で頭の毛が縮れている――」
「あいつか」
 皆まで言わせず雷蛇が顔をしかめる。獄吏達は名乗らないため、名前を囚人が知ることはないが、その一言で皆の頭には皆同じ男の姿が浮かび上がった。頭が切れるが、獄吏の中で一番酷薄で、囚人たちから蛇蝎(だかつ)のように嫌われている男である。
 麗射も入獄初日にボロボロになるまで暴行を受けた記憶がよみがえった。
 支度ができたのか、走耳が獄の入り口に姿を現す。彼はまるで散歩にでも行くかのように淡々と勇儀が空けた牢獄の戸をくぐった。そして勇儀から鍵を受け取ると無造作に懐に投げ入れる。
 半開きになったままの扉を見た幾人かの囚人がごくりと喉を鳴らす。みな脱獄を夢見ているのだ。ちらりと雷蛇の方に向く囚人たちだが、じろりと睨みかえされ、誰も動こうとはしなかった。
「道案内をよろしく頼む。無事に氷炎先生を助けてジェズムのところに送り届けてくれ」
 勇儀が深々と頭を下げる。
 無言で頷くと、走耳は皆に一礼して闇の中に消えていった。
「それでは今度は勇儀の番だ」
 麗射の言葉に、勇儀は苦笑いしながら牢内に入ってきた。
「じゃあ、俺を誰か殴り飛ばしてくれ。遠慮はいらん、本当に意識が飛ぶくらいにやってくれ」
「おう、任せろ」
 勇儀の呼びかけに立ち上がったのは雷蛇だった。
「お、おまえか……」
 雷蛇の盛り上がった筋肉を見て勇儀は一瞬ひるむ。が、覚悟を決めたように目をつぶった。
「いいぞ、やってくれ」
「安心しろ、痛いのは一瞬だ。そのあとの事は覚えちゃいねえ」
 言葉が終わらないうちに雷蛇の腕が一閃した。勇儀の整った顔は一瞬ひどく変形し牢の壁まで吹っ飛んだ。
「さ、俺たちの仕事は終わったぜ。あとはあいつらの幸運を祈って、知らんふりをして寝るだけだ」
 失神して床に倒れ込む勇儀を確認した雷蛇は、房内に入るとあけ放たれた牢獄の戸を真向かいに見ながら牢獄の床に寝そべった。
「俺たちが寝ているうちに走耳が腹痛があると勇儀を騙して牢内に導き入れ、昏倒させて脱獄したことにする。お前ら何もしゃべるんじゃないぞ。それと戸が開いたからと言って勝手な真似は許さねえからな」
 囚人たちは雷蛇の言葉に、皆真剣な目でうなずいた。
 ついに計画は動き出した。麗射も獄の奥に身体を横たえたが、興奮のあまり息が荒くなり、心臓の高鳴りが全身を震わせている。目を閉じてもとても眠れそうにはなかった。
 今頃、走耳はずだ袋に入れられて安置所にいる氷炎を助け出し、細い月の薄明りのもと唯一の出入り口である大門に向かってひた走っているのであろう。
 はたして、うまく行くだろうか。
 ジェズムと合流して、無事に、無事に氷炎が波州に生きてたどり着けますように。
 麗射は組んだ手を胸に当て、天帝に祈りをささげる。
 それにしても工房で学んでいてよかった。
 ただ、面白いから劇団の化粧を手伝っていただけなのに、思いがけないところで役に立った。まさに師の言う通り、役に立たない学びなどないのだ。麗射の口元がほころぶ。
 でも、教えてもらうばかりではなかった。自分でも進んで施療院に手伝いに行き、掃除洗濯や排せつの手伝いなどをしながら病の状態を見せてもらったりした。
 治療が効いて瀕死の状態から回復した男などは真っ黄色の皮膚が劇的に白くなって、その変化を劇団の公演に使わせてもらった。
「驚いたなあ、あの時には。まっ黄色だった目まで、すっかりもとどおりに白く――」
 つぶやいた言葉を麗射は息を飲み込んだ。
 皮膚が黄色いなら、目も黄色くなったはずだ。
 しかし、氷炎の白目は染めていなかった。
――地塩は目の中まで。
 勇儀の言葉が脳裏によみがえり、反響する。
 黄疸は、目まで黄色みを帯びる。地塩が、あの真っ黄色な皮膚にもかかわらず氷炎の目が白いままである、その意味に気が付いたら――。
 地塩は冷酷で、そして勘の鋭い男だ。
「まずい、走耳たちが危ない」
 麗射は叫んで立ち上がった。囚人たちもみな麗射のほうをみて起き上がる。
「どうした兄貴、加勢するぜ」雷蛇が腕のこぶを叩きながら立ち上がった。
「断る、これから何があってもお前達は知らなかったで通せ」
「へっ、なんでえ水臭い」
「下手をすれば、刑が重くなる。雷蛇おまえ死罪になるぞ。誰も来るな。これは俺の落ち度だ」
 麗射は薄く笑いを浮かべた。
「それに俺なんぞオアシス放逸、まあ体のいい死刑だからな。これ以上刑は重くならない」
 ここに幻風がいれば、何か良い知恵を出してくれたに違いないのに。幻風はここ数日毎日獄吏達に呼び出されていた。そして今日もまた数刻前に彼は獄吏の占いに駆り出されていた。
「好都合じゃ、わしが奴らの気をそらしておくからな。今日は上手いことを言って帰らないかもしれない」
 幻風が任せておけというように片眼をつぶって去って行ってから、まだ帰ってこない。他に牢の中に頼れそうなものはいない、麗射は舌打ちした。
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登場人物紹介

麗射:「青銀の風」の主人公。絵師を目指して砂漠の真ん中にある「美術工芸研鑽学院(美術工芸院)」にやってくる。砂漠で隊商に見限られたり、ラクダに逃げられたり、艱難辛苦の果てにたどり着いた美術工芸院だが、入試受付は前日で締め切られていた。おおざっぱだが、打たれ強く男気のある性格。常に前向きな彼の周りには、いつの間にか仲間が寄ってくる。黒目、黒髪、肌はやや褐色。

イラム:麗射と泉で出会った謎を秘めた少女。金髪、青い目。

走耳:スリをして服役中、麗射と知り合う。いつもいるか居ないかわからない存在感の無い男だが、神がかった運動神経を持つ。孤高を保ち誰のことも信じない。茶色の髪と茶色の目。

「清那」入学年齢に達しない13~4歳だが、訳あって美術工芸院で学生兼講師をしている叡州第三公子。細密画が得意で、風景を描かせれば右に出る者がいないが、なぜかその絵は寂寞としている。

「雷蛇」なで切りの雷蛇として囚人達からも恐れられる極悪人。牢獄の中で麗射を目の敵にして暴力を振るうが、妙に単純で人なつこいところもある。


「幻風」エセ占いで捕まった得体の知れないジジイ。笑い上戸で、走耳が唯一心を許す人間。

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