第71話 抱擁
文字数 3,618文字
次第に息苦しくなる。脈がどんどん早くなり、全身を震わせる。
このまま、正気を失って、死んでしまうのか。すべてを失って暗闇にこのまま飲み込まれるのか。耳を押さえて清那は叫んだ。
「誰か、誰か助けて」
叫びに一番驚いていたのはほかでもない清那だった。いつも、いつも自分なんか死んでしまえばいいと思っていたのに。
「大丈夫」
ふと、脳裏によみがえったのは力強い麗射の声だった。
「何をひねくれている。他人には言わせておけばいいじゃないか。自分はなぜ生きているのかなんて悩まなくていい。生きて、自分がやりたいことをすればいいんだ。それが天命だ」
目の前に画材を山と抱える麗射の姿が浮かぶ。
「私なんて、皆にとって邪魔な存在なんだ。死んでしまえば良かったんだーー」
「じゃあ、なぜ君は死ななかったんだ?」
清那の目が開く。
なぜ……。そう、なぜ自分は今まで生きていたのか?
「君の心の中から湧き出すものがあったからだろう。冥界の扉で蓋をすることができないほどの」
闇の中にたたずむ友はにっこりと微笑んだ。
「人のために生きるのでは無い、生は自分のものだ。君も、俺も、美術工芸院の住人だ。心の中から湧き出るものを表現したい衝動にかられて、砂漠を越えて美の砦に漂着した人間だ。描けばいいじゃないか。筆が無くても、紙が無くても、生きてさえいれば、どこだって思いは表現できる」
闇の中で清那は夢中でうなずいた。
清那は目の前の漆黒に心の中で線を描き始めた。そして、色を入れ始める。色が入ると絵はざわめき、動き始める。頭の中に響いていた声が静まっていき、徐々に動悸や息苦しさが消えていく。
清那は夢中で描き続けた。
暗闇の中に浮き上がったのは、果てなく続く緑の並木、立ち並ぶ瀟洒な店。行き交う人々。
すべてが懐かしい珠林 の街だった。
戻りたい、珠林へ。
幸せも悲しみも、喜びも絶望も、すべて詰まったあの街に。
清那の目から熱いものがこぼれ落ちた。
「なあ、おかしいとは思わないか?」
訓練を受ける仲間同士で、車座になって食べる夕食の席で麗射は口を開いた。
「何がだよ、新入り」
隣で飯をかき込んでいた穿羽は額にしわを寄せると麗射の方を向いた。
麗射が氷炎の知り合いと知れ、誰もが遠慮して彼を新入りと呼ばなくなったが、この穿羽だけは今も新入りと呼び続けている。この男は飛び抜けて弓が旨く周囲も一目置いていた。本人もその自覚があるのか、皆に指導するという面倒見の良いところがある反面、上に立つものに忖度するのをよしとしない強気な一面もあった。そのため、実質的には弓術隊長でありながら扱いは一兵卒にとどまっている。
「重税を課し、民のことを顧みない今の王室は最高権力機関としての資質に欠けているから打ち倒そう。氷炎の言う、ここまでは俺も賛成する。だけど、自国が貧しいからと言って外の国に攻め入るのは、おかしく無いか」
麗射の言葉に穿羽は首をふった。
「お人好しだな、お前は。政府をすげ替えて俺たちの意見が通るような国作りをしても、貧しい国は所詮貧しいんだよ。早くこの国を俺たちのものにして、増長し油断しきった叡州 を攻め取るのが幸せになる第一の方法なんだ」
「そうだよ、もともと叡州と波州 はそりが合わないから、うまく波州と手を組めば叡州に勝つのは難しいことでは無いよ」
周りの人々も、攻めるなら今のうちだと声をそろえる。
「別にお前さんの故国、波州を攻めるなんて言ってない。欲しいのは繁栄に溺れている叡州だぜ」
「待ってくれ、叡州にもお前らと同じ人間がいて、それぞれに家族や愛しい人が居て、日々一生懸命生きているんだ。大きく国と捉えるのでは無くて、中に居る人々のことも考えてやろうよ」
「馬鹿を言え、叡州は王室と手を組んで俺たちを弾圧している。氷炎先生だって、もともと叡州の兵に捕まえられたんだぜ。あいつらは俺たちが王室を倒したら、きっと王室を助けるために攻めてくるに違いない」
麗射の言葉が詰まる。
「正直わしらが故郷を捨て、家族を置いてここに命がけで来ているのは、別に政治を変えてほしいわけじゃない。食い物がいるんだ、家族に豊かな暮らしをして欲しいんだ」
「そうだ、王制を潰して、まずは俺たち自身の生活を守るためだ」
皆が麗射に詰め寄る。
「じゃあ、自分たちが食えれば、平和に暮らしている他国の人が死んでも、飢えてもいいのか」
麗射の剣幕に皆がひるむ。
「俺たちは畜生ではない、想像することができる人間だ。助け合うことを知ってる人間だ。お前達の故郷の奥さんや子供達がもし叡州に生きていたとしたらどうするんだ」
皆、顔を赤くして語る麗射をきょとんとして見ている。
思いが伝わらない。皆、やがてまくし立てる麗射に背を向けてそれぞれの話題を話し始めた。
麗射はそこにへたり込むように座り込んだ。冷えきった芋がゆをかき込むと、喉から胃の腑に冷たい感覚が染み渡った。
「銀の髪のお友達のことなんだけど、生きてはいるらしいわ」
イラムは持ってきた乾菓子と何やら膨れた袋を差し出した。最近、彼らの密会は人目に付かない炭焼き小屋近くの木立の隙間に決まりつつある。
「生きては……?」
それは全くの無事というわけでは無いのか。麗射は少女に詰め寄った。
「しばらくはきれいな部屋や使用人を与えられて、食事も十分に出ていたようだけど、今はその部屋に帰ってこないって噂を聞いたの。かといって牢獄で顔を見た使用人もいないようだし、だけど厨房では彼用の食事を作り続けていると聞いたわ」
わかるのはそのぐらい、と少女は重ねた両手を胸において頭を下げた。煉州女性のお詫びの仕草である。
「くそう斬常め、清那に何かあったら許さないからな」
怒った顔を隠すように横を向いた麗射は唇をかみしめる。
「ごめんなさい」
「違う、君に怒っているんじゃ無い」
慌てて麗射はイラムのほうに向き直ると両肩にそっと手を当てた。
「君には感謝しているんだ。氷炎に聞いてもわからない宮殿内の情報を教えてくれて。君は救世軍の兵士の家族なの?」
イラムは黙って首を振った。それは麗射の予想通りの反応であった。少女がくれた銀のコップは王族の持ち物だとレドウィンは言っていたし、そして何よりイラム自身の話し方や立ち居振る舞いにどことなく品が漂っている。野盗や平民から募った兵士の血縁とは思えなかった。
「君は……王族の人なの?」
「母は前王朝の直系の血を引いていたの。だから、命を狙われていてーー。それを救ったのが父なの」
素敵な話じゃないか、と言いかけてイラムの目に涙が溜まって居るのに気がつき、麗射は口をつぐんだ。
「父は戦が好きで、勝つためには手段を選ばない。怖くてたまらなくて、我慢できずにオアシスに逃げたけど、結局連れ戻されてーー」
こらえきれないとばかりにイラムが両手で顔を覆う。そのまま崩れ落ちそうなイラムの体をそっと麗射が支える。
イラムの顔が麗射の胸に埋まり、涙の熱さが伝わってきた。
麗射はおずおずと彼女を抱きしめる。
想像以上の柔らかい感触。無骨な筋肉質の腕にふわりとかかる黄金色の髪は、自分とはひどく不釣り合いなものに見えて麗射はたじろいだ。
しばらくして少女の嗚咽がやむと、そっと麗射はイラムを抱き寄せていた手を緩めた。
赤い目の少女は、そっと麗射を見上げる。麗射はその目を見返すと優しくうなずいた。少女は照れたように笑うと、麗射の胸元を指さした。
「ごめんなさい、服が濡れてしまったわ」
「だ、大丈夫だよ。これくらい」
少女の赤くなった目と鼻が微笑む。
「誰にも話したことなかったのに。あなたは不思議ね。初めて会った時からそうだった。なぜか、心を開ける安心感があるの。こんなことは初めて」
イラムの言葉に、麗射の心は手で水をかき回したように波立った。鈍感な麗射でも、このままこの渦が激しくなれば、特別な感情に育っていくことがわかっている。
しかし、今の彼には清那救出という重大な使命があった。それを成し遂げるまでは、集中の切れるような感情は一切封じ込めねばならない。彼は胸の鼓動を沈めるように大きく息を吸い込むと、意識して押さえた声で言った。
「お、俺にできることがあれば」
イラムはそっと首を振る。
「聞いてくれただけで十分。心が晴れたわ。お父様は冷酷な人だけど、私には優しいの。きっと亡くなった母の面影を私に見ているのね。私はお父様のそばにいる運命なのよ」
あなたにまた会えただけで幸せだったわ、と半ば諦めの微笑みを浮かべてイラムは持ってきた袋を差し出した。
「あのね、麗射。この袋にはね画材が入っているの」
促されるままに麗射は包みを開けるとそこには筆と、色とりどりの顔料を練った四角い固まりがずっしりと入っていた。
「描いてちょうだい」
イラムは潤んだ目で微笑んだ。
「あなたが描いたものをもう一度見るのが夢だったの」
少女はそう言うと森の中に消えていった。
このまま、正気を失って、死んでしまうのか。すべてを失って暗闇にこのまま飲み込まれるのか。耳を押さえて清那は叫んだ。
「誰か、誰か助けて」
叫びに一番驚いていたのはほかでもない清那だった。いつも、いつも自分なんか死んでしまえばいいと思っていたのに。
「大丈夫」
ふと、脳裏によみがえったのは力強い麗射の声だった。
「何をひねくれている。他人には言わせておけばいいじゃないか。自分はなぜ生きているのかなんて悩まなくていい。生きて、自分がやりたいことをすればいいんだ。それが天命だ」
目の前に画材を山と抱える麗射の姿が浮かぶ。
「私なんて、皆にとって邪魔な存在なんだ。死んでしまえば良かったんだーー」
「じゃあ、なぜ君は死ななかったんだ?」
清那の目が開く。
なぜ……。そう、なぜ自分は今まで生きていたのか?
「君の心の中から湧き出すものがあったからだろう。冥界の扉で蓋をすることができないほどの」
闇の中にたたずむ友はにっこりと微笑んだ。
「人のために生きるのでは無い、生は自分のものだ。君も、俺も、美術工芸院の住人だ。心の中から湧き出るものを表現したい衝動にかられて、砂漠を越えて美の砦に漂着した人間だ。描けばいいじゃないか。筆が無くても、紙が無くても、生きてさえいれば、どこだって思いは表現できる」
闇の中で清那は夢中でうなずいた。
清那は目の前の漆黒に心の中で線を描き始めた。そして、色を入れ始める。色が入ると絵はざわめき、動き始める。頭の中に響いていた声が静まっていき、徐々に動悸や息苦しさが消えていく。
清那は夢中で描き続けた。
暗闇の中に浮き上がったのは、果てなく続く緑の並木、立ち並ぶ瀟洒な店。行き交う人々。
すべてが懐かしい
戻りたい、珠林へ。
幸せも悲しみも、喜びも絶望も、すべて詰まったあの街に。
清那の目から熱いものがこぼれ落ちた。
「なあ、おかしいとは思わないか?」
訓練を受ける仲間同士で、車座になって食べる夕食の席で麗射は口を開いた。
「何がだよ、新入り」
隣で飯をかき込んでいた穿羽は額にしわを寄せると麗射の方を向いた。
麗射が氷炎の知り合いと知れ、誰もが遠慮して彼を新入りと呼ばなくなったが、この穿羽だけは今も新入りと呼び続けている。この男は飛び抜けて弓が旨く周囲も一目置いていた。本人もその自覚があるのか、皆に指導するという面倒見の良いところがある反面、上に立つものに忖度するのをよしとしない強気な一面もあった。そのため、実質的には弓術隊長でありながら扱いは一兵卒にとどまっている。
「重税を課し、民のことを顧みない今の王室は最高権力機関としての資質に欠けているから打ち倒そう。氷炎の言う、ここまでは俺も賛成する。だけど、自国が貧しいからと言って外の国に攻め入るのは、おかしく無いか」
麗射の言葉に穿羽は首をふった。
「お人好しだな、お前は。政府をすげ替えて俺たちの意見が通るような国作りをしても、貧しい国は所詮貧しいんだよ。早くこの国を俺たちのものにして、増長し油断しきった
「そうだよ、もともと叡州と
周りの人々も、攻めるなら今のうちだと声をそろえる。
「別にお前さんの故国、波州を攻めるなんて言ってない。欲しいのは繁栄に溺れている叡州だぜ」
「待ってくれ、叡州にもお前らと同じ人間がいて、それぞれに家族や愛しい人が居て、日々一生懸命生きているんだ。大きく国と捉えるのでは無くて、中に居る人々のことも考えてやろうよ」
「馬鹿を言え、叡州は王室と手を組んで俺たちを弾圧している。氷炎先生だって、もともと叡州の兵に捕まえられたんだぜ。あいつらは俺たちが王室を倒したら、きっと王室を助けるために攻めてくるに違いない」
麗射の言葉が詰まる。
「正直わしらが故郷を捨て、家族を置いてここに命がけで来ているのは、別に政治を変えてほしいわけじゃない。食い物がいるんだ、家族に豊かな暮らしをして欲しいんだ」
「そうだ、王制を潰して、まずは俺たち自身の生活を守るためだ」
皆が麗射に詰め寄る。
「じゃあ、自分たちが食えれば、平和に暮らしている他国の人が死んでも、飢えてもいいのか」
麗射の剣幕に皆がひるむ。
「俺たちは畜生ではない、想像することができる人間だ。助け合うことを知ってる人間だ。お前達の故郷の奥さんや子供達がもし叡州に生きていたとしたらどうするんだ」
皆、顔を赤くして語る麗射をきょとんとして見ている。
思いが伝わらない。皆、やがてまくし立てる麗射に背を向けてそれぞれの話題を話し始めた。
麗射はそこにへたり込むように座り込んだ。冷えきった芋がゆをかき込むと、喉から胃の腑に冷たい感覚が染み渡った。
「銀の髪のお友達のことなんだけど、生きてはいるらしいわ」
イラムは持ってきた乾菓子と何やら膨れた袋を差し出した。最近、彼らの密会は人目に付かない炭焼き小屋近くの木立の隙間に決まりつつある。
「生きては……?」
それは全くの無事というわけでは無いのか。麗射は少女に詰め寄った。
「しばらくはきれいな部屋や使用人を与えられて、食事も十分に出ていたようだけど、今はその部屋に帰ってこないって噂を聞いたの。かといって牢獄で顔を見た使用人もいないようだし、だけど厨房では彼用の食事を作り続けていると聞いたわ」
わかるのはそのぐらい、と少女は重ねた両手を胸において頭を下げた。煉州女性のお詫びの仕草である。
「くそう斬常め、清那に何かあったら許さないからな」
怒った顔を隠すように横を向いた麗射は唇をかみしめる。
「ごめんなさい」
「違う、君に怒っているんじゃ無い」
慌てて麗射はイラムのほうに向き直ると両肩にそっと手を当てた。
「君には感謝しているんだ。氷炎に聞いてもわからない宮殿内の情報を教えてくれて。君は救世軍の兵士の家族なの?」
イラムは黙って首を振った。それは麗射の予想通りの反応であった。少女がくれた銀のコップは王族の持ち物だとレドウィンは言っていたし、そして何よりイラム自身の話し方や立ち居振る舞いにどことなく品が漂っている。野盗や平民から募った兵士の血縁とは思えなかった。
「君は……王族の人なの?」
「母は前王朝の直系の血を引いていたの。だから、命を狙われていてーー。それを救ったのが父なの」
素敵な話じゃないか、と言いかけてイラムの目に涙が溜まって居るのに気がつき、麗射は口をつぐんだ。
「父は戦が好きで、勝つためには手段を選ばない。怖くてたまらなくて、我慢できずにオアシスに逃げたけど、結局連れ戻されてーー」
こらえきれないとばかりにイラムが両手で顔を覆う。そのまま崩れ落ちそうなイラムの体をそっと麗射が支える。
イラムの顔が麗射の胸に埋まり、涙の熱さが伝わってきた。
麗射はおずおずと彼女を抱きしめる。
想像以上の柔らかい感触。無骨な筋肉質の腕にふわりとかかる黄金色の髪は、自分とはひどく不釣り合いなものに見えて麗射はたじろいだ。
しばらくして少女の嗚咽がやむと、そっと麗射はイラムを抱き寄せていた手を緩めた。
赤い目の少女は、そっと麗射を見上げる。麗射はその目を見返すと優しくうなずいた。少女は照れたように笑うと、麗射の胸元を指さした。
「ごめんなさい、服が濡れてしまったわ」
「だ、大丈夫だよ。これくらい」
少女の赤くなった目と鼻が微笑む。
「誰にも話したことなかったのに。あなたは不思議ね。初めて会った時からそうだった。なぜか、心を開ける安心感があるの。こんなことは初めて」
イラムの言葉に、麗射の心は手で水をかき回したように波立った。鈍感な麗射でも、このままこの渦が激しくなれば、特別な感情に育っていくことがわかっている。
しかし、今の彼には清那救出という重大な使命があった。それを成し遂げるまでは、集中の切れるような感情は一切封じ込めねばならない。彼は胸の鼓動を沈めるように大きく息を吸い込むと、意識して押さえた声で言った。
「お、俺にできることがあれば」
イラムはそっと首を振る。
「聞いてくれただけで十分。心が晴れたわ。お父様は冷酷な人だけど、私には優しいの。きっと亡くなった母の面影を私に見ているのね。私はお父様のそばにいる運命なのよ」
あなたにまた会えただけで幸せだったわ、と半ば諦めの微笑みを浮かべてイラムは持ってきた袋を差し出した。
「あのね、麗射。この袋にはね画材が入っているの」
促されるままに麗射は包みを開けるとそこには筆と、色とりどりの顔料を練った四角い固まりがずっしりと入っていた。
「描いてちょうだい」
イラムは潤んだ目で微笑んだ。
「あなたが描いたものをもう一度見るのが夢だったの」
少女はそう言うと森の中に消えていった。