第85話 冬の日々
文字数 2,909文字
その年の冬はまるで今までの麗射の忙しい日々に対して天が謝罪するかのように、穏やかに過ぎていった。蛮豊の計らいで玲斗救出に向かった一行は、晩夏から秋季の単位を補修と追試でなんとか補填することができ、留年になるほどの大事にはならなかった。
玲斗達も今のところはなりをひそめている。
本来なら絶好の創作の機会であるが、麗射が幾度筆をとっても、心はどこか空虚で、何かを生み出す情熱が沸いてこなかった。絵筆をとっても今までの麗射の生きの良いタッチは失われ、どこか技巧に頼るしかない面白みの無い出来の作品が完成するのみだった。
彼の心の底には、拭い去れない後悔が澱んでいる。
残してきたイラム、そして居なくなった夕陽。
自分があの人たちの人生を変えてしまったのではないだろうか。
二人のことを思うと麗射は心がちぎれるような思いにさいなまれる。
夕陽の方は、あれからオアシス中をくまなく探したがとうとう見つからなかった。あの天才はまさにあの豪雨の日を境に忽然と姿を消してしまったのである。
「これでほとんどオアシスの中は探し尽くした。俺は敬愛する人の魂を救えなかったのか……」
麗射は清那の家で、紅茶を飲みながら弱音を吐いた。冬になって砂漠を横断する交易が盛んになったため、しばらくお目見えしていなかった紅茶がオアシスの市場にも出回るようになっていた。美術工芸院の食堂のメニューも、交易の回復につれて最初麗射が度肝を抜かれたようなきらびやかなものに戻りつつあった。だが最近は玲斗についてきた花燭 という煉州の料理人が加わって豪快な料理も登場し、これが若い院生達の心を掴んだらしくなかなかの好評を博していた。花燭自身は、玲斗の屋敷で清那が開いた宴の際に作った叡州料理に憧れて学院にやってきたらしいのだが、あまりにも素材の味を引き出す素朴な煉州料理が受けすぎてなかなか叡州料理を作る暇が無いらしかった。
だけど、いくら料理の数が増えても、あの人は残り物の粥をすすっているんだろうな。
ふと、麗射の脳裏に椀を抱え込むようにして食べる夕陽の姿が浮かんだ。
せっかく平穏な美術工芸院が戻ってきたのに、なぜあの人がいないんだ。
麗射は大きなため息をつく。
「夕陽さんは生まれながらの芸術家で、心の周りに張り巡らせた固い殻を除ければとても繊細な人だった。ああ、他には望まない、生きてさえいてくれればいいのだが」
「元気を出してください。生きている可能性が無くなった訳では無いでしょう」
上質紙や板に描きためた一抱えもある作品を戸棚から取り出しながら清那がつぶやく。
「案外、灯台もと暗しってこともあるし」
次の瞬間、清那は火の付いた暖炉に自分の作品を見もせずに放り込んだ。
「え」
眼前の光景が信じられず、麗射は息をのむ。
呆然とする麗射を尻目に清那は次々と作品を暖炉にくべる。慌てて清那のそばに駆け寄った麗射は、その手から作品を取り上げた。
「正気か、清那。お前、今自分が何をしているのかわかってるのか。あ、熱っ」
隅に火が付いた作品を自分の服で叩いて消すと、麗射は身体を投げ出すようにして机の上に残った作品に覆い被さった。
「何をしているかって……それは私が言いたい台詞です。それを返してください。私が描いた作品をどうしようが私の勝手ですから」
「馬鹿な、君にとっては手慰みの戯れ描きかもしれないが……」
麗射は焼け焦げのついた手の中の絵画を改めて見る。
戯れ描きどころか、紙の上には清那ならではの緻密な筆致で異国の都や動物、風景がびっしりと描き込まれていた。一筋たりとも妥協の無い線と、考え抜かれた配色。まるで息を止めて描いたような、張り詰めた美しさ。しかし、その緊張感あふれる筆致とは裏腹にそこに描かれたもの達は、生き物はもちろん静物や街すらも温かな息遣いが聞こえるほど魂が宿っていた。都に持って行って売ればこれ一枚だけで贅沢しなければ一年くらい暮らせるかもしれない。
作品の中には最近描かれたと思われる、二人で旅した玉酔の町並みの絵もあった。
「古い絵や描き損じを捨てている訳ではないんだろう、なぜ」
「恥だからですよ」
「え、この名作が、何の恥なんだ?」
「もう、いいから返してくださいっ」
めずらしくまなじりをけっして清那が、麗射が卵を抱くように抱えている机の上の作品を身体の下から引きずり出そうとする。
「叡州公ゆかりの者の絵が売りに出されて一般の家に飾られるようになれば、叡州公家の品格を落とすことになります。だから私の作品は、学院に掲示しているもの以外は描いたらすぐ破棄する約束になっているのです」
それは清那が都を離れて美術工芸院に来るときの、叡州公との約束だった。いや、本当は叡州公の後ろで糸を引いている玲妃の意向であろう。腹違いの側室の子といえども、次期叡州公の義理の弟の絵が下々の家に飾られるのは、公家の沽券にかかわる。息子達を溺愛する彼女には我慢できることではなかった。
玲妃の次男、真秀は清那にとっても大切な兄である。彼に迷惑がかかるのは清那としても避けたいことであった。だから彼は自分の作品をいつも闇に葬ってきた。
「でも、署名している訳ではなし……、これほどではなくても緻密な作風の作家は他にもいるし、出回っても君の作品という確証はないだろう。偽の署名をしておいたらだめなのか」
「だめだって言ったら、だめなんです」あきれたように清那は首を振る。
「公家に迷惑をかけるわけにはいきません」
「だけどな、これは君の歴史だよ。いや、このできから考えると君だけっていう範疇を超えている。燃やしてしまったら、美術史にぽっかりと大きな穴が空くことになってしまうよ」
頑固な清那は、腕組みをして口をへの字に曲げている
「君だって実は悲しいんだろう。だから心を移さないように見もしないで火にくべているんじゃないのか」
「お願いです、麗射、返してください」
こいつは人に対して真摯すぎる。自分よりも人を優先する、悪い癖だ。
麗射は目を伏せた、が、何を思ったのかいきなり顔を上げて手をたたいた。
「わかった、じゃあこうしよう。俺にこの作品を借してくれ。最近発想に乏しくて刺激が欲しいんだ」
「どうぞ、最後にあなたのお役に立てるならこの絵達も本望です」
「おお、すまない。じっくりと勉強させてもらうよ」
麗射は満面の笑みをうかべると、油紙で作品の束を注意深く包み紐をかけた。
そこに帰ってきたのは走耳だった。
「麗射、留守番ご苦労様」
手には市場で買ってきたのか、山盛りの果物と野菜が盛られている。
野菜が入っている編みかごはあの穴の多い不良品だった。麗射の視線に気がついたのか、走耳はかごを麗射の目の前に突き出す。
「雷蛇、全然上達しないよな。でも元気そうだ」
きっと走耳もわざとあのかごを買って荷物を入れたのであろう。
基本的にオアシスの牢は面会を受け付けてもらえない。彼の消息を知る手がかりは唯一このかごだけであった。
「いつか会えるかな」
「無理だろ、あいつは命のある限り牢の中だ。叡州公が亡くなって恩赦でもなければな」
叡州公の息子を目の前にして走耳は平然と言ってのけた。
玲斗達も今のところはなりをひそめている。
本来なら絶好の創作の機会であるが、麗射が幾度筆をとっても、心はどこか空虚で、何かを生み出す情熱が沸いてこなかった。絵筆をとっても今までの麗射の生きの良いタッチは失われ、どこか技巧に頼るしかない面白みの無い出来の作品が完成するのみだった。
彼の心の底には、拭い去れない後悔が澱んでいる。
残してきたイラム、そして居なくなった夕陽。
自分があの人たちの人生を変えてしまったのではないだろうか。
二人のことを思うと麗射は心がちぎれるような思いにさいなまれる。
夕陽の方は、あれからオアシス中をくまなく探したがとうとう見つからなかった。あの天才はまさにあの豪雨の日を境に忽然と姿を消してしまったのである。
「これでほとんどオアシスの中は探し尽くした。俺は敬愛する人の魂を救えなかったのか……」
麗射は清那の家で、紅茶を飲みながら弱音を吐いた。冬になって砂漠を横断する交易が盛んになったため、しばらくお目見えしていなかった紅茶がオアシスの市場にも出回るようになっていた。美術工芸院の食堂のメニューも、交易の回復につれて最初麗射が度肝を抜かれたようなきらびやかなものに戻りつつあった。だが最近は玲斗についてきた
だけど、いくら料理の数が増えても、あの人は残り物の粥をすすっているんだろうな。
ふと、麗射の脳裏に椀を抱え込むようにして食べる夕陽の姿が浮かんだ。
せっかく平穏な美術工芸院が戻ってきたのに、なぜあの人がいないんだ。
麗射は大きなため息をつく。
「夕陽さんは生まれながらの芸術家で、心の周りに張り巡らせた固い殻を除ければとても繊細な人だった。ああ、他には望まない、生きてさえいてくれればいいのだが」
「元気を出してください。生きている可能性が無くなった訳では無いでしょう」
上質紙や板に描きためた一抱えもある作品を戸棚から取り出しながら清那がつぶやく。
「案外、灯台もと暗しってこともあるし」
次の瞬間、清那は火の付いた暖炉に自分の作品を見もせずに放り込んだ。
「え」
眼前の光景が信じられず、麗射は息をのむ。
呆然とする麗射を尻目に清那は次々と作品を暖炉にくべる。慌てて清那のそばに駆け寄った麗射は、その手から作品を取り上げた。
「正気か、清那。お前、今自分が何をしているのかわかってるのか。あ、熱っ」
隅に火が付いた作品を自分の服で叩いて消すと、麗射は身体を投げ出すようにして机の上に残った作品に覆い被さった。
「何をしているかって……それは私が言いたい台詞です。それを返してください。私が描いた作品をどうしようが私の勝手ですから」
「馬鹿な、君にとっては手慰みの戯れ描きかもしれないが……」
麗射は焼け焦げのついた手の中の絵画を改めて見る。
戯れ描きどころか、紙の上には清那ならではの緻密な筆致で異国の都や動物、風景がびっしりと描き込まれていた。一筋たりとも妥協の無い線と、考え抜かれた配色。まるで息を止めて描いたような、張り詰めた美しさ。しかし、その緊張感あふれる筆致とは裏腹にそこに描かれたもの達は、生き物はもちろん静物や街すらも温かな息遣いが聞こえるほど魂が宿っていた。都に持って行って売ればこれ一枚だけで贅沢しなければ一年くらい暮らせるかもしれない。
作品の中には最近描かれたと思われる、二人で旅した玉酔の町並みの絵もあった。
「古い絵や描き損じを捨てている訳ではないんだろう、なぜ」
「恥だからですよ」
「え、この名作が、何の恥なんだ?」
「もう、いいから返してくださいっ」
めずらしくまなじりをけっして清那が、麗射が卵を抱くように抱えている机の上の作品を身体の下から引きずり出そうとする。
「叡州公ゆかりの者の絵が売りに出されて一般の家に飾られるようになれば、叡州公家の品格を落とすことになります。だから私の作品は、学院に掲示しているもの以外は描いたらすぐ破棄する約束になっているのです」
それは清那が都を離れて美術工芸院に来るときの、叡州公との約束だった。いや、本当は叡州公の後ろで糸を引いている玲妃の意向であろう。腹違いの側室の子といえども、次期叡州公の義理の弟の絵が下々の家に飾られるのは、公家の沽券にかかわる。息子達を溺愛する彼女には我慢できることではなかった。
玲妃の次男、真秀は清那にとっても大切な兄である。彼に迷惑がかかるのは清那としても避けたいことであった。だから彼は自分の作品をいつも闇に葬ってきた。
「でも、署名している訳ではなし……、これほどではなくても緻密な作風の作家は他にもいるし、出回っても君の作品という確証はないだろう。偽の署名をしておいたらだめなのか」
「だめだって言ったら、だめなんです」あきれたように清那は首を振る。
「公家に迷惑をかけるわけにはいきません」
「だけどな、これは君の歴史だよ。いや、このできから考えると君だけっていう範疇を超えている。燃やしてしまったら、美術史にぽっかりと大きな穴が空くことになってしまうよ」
頑固な清那は、腕組みをして口をへの字に曲げている
「君だって実は悲しいんだろう。だから心を移さないように見もしないで火にくべているんじゃないのか」
「お願いです、麗射、返してください」
こいつは人に対して真摯すぎる。自分よりも人を優先する、悪い癖だ。
麗射は目を伏せた、が、何を思ったのかいきなり顔を上げて手をたたいた。
「わかった、じゃあこうしよう。俺にこの作品を借してくれ。最近発想に乏しくて刺激が欲しいんだ」
「どうぞ、最後にあなたのお役に立てるならこの絵達も本望です」
「おお、すまない。じっくりと勉強させてもらうよ」
麗射は満面の笑みをうかべると、油紙で作品の束を注意深く包み紐をかけた。
そこに帰ってきたのは走耳だった。
「麗射、留守番ご苦労様」
手には市場で買ってきたのか、山盛りの果物と野菜が盛られている。
野菜が入っている編みかごはあの穴の多い不良品だった。麗射の視線に気がついたのか、走耳はかごを麗射の目の前に突き出す。
「雷蛇、全然上達しないよな。でも元気そうだ」
きっと走耳もわざとあのかごを買って荷物を入れたのであろう。
基本的にオアシスの牢は面会を受け付けてもらえない。彼の消息を知る手がかりは唯一このかごだけであった。
「いつか会えるかな」
「無理だろ、あいつは命のある限り牢の中だ。叡州公が亡くなって恩赦でもなければな」
叡州公の息子を目の前にして走耳は平然と言ってのけた。