逆走車

文字数 2,497文字

 ある朝彼が目覚め、あくびと背伸びを兼ねて手を伸ばし、枕元のアナログ式の目覚まし時計を見ると「七時半!」
「げろげろ!」
 それから彼はぶったまげてそうつぶやくと、ぶったまげて飛び起き、それから速攻で洗面所で目覚ましにザバザバと冷水で顔を洗い、冷蔵庫から取り急ぎ、とりあえずの食い物を出しチンしてからのどに流し込み、慌ただしく服を着て、車に飛び乗っていざ出勤。
 いつもだったら六時半頃起きて手際よく支度をして、そして七時頃出発という段取りなのだが、この日はもうすでに八時前? 
 何で?
 目覚ましはどうして鳴らなかった?
 彼は考えたが、ともあれ職場へ急がねば。

 だけど何故かこんな時間にしては妙に道が暗い。皆既日食か? それはいいけれど、ともあれ対向車がなかなか来ない。いや、そもそも交通量もやたらに少ないし。一体今日は何曜日? いやいや、間違いなくウイークデイだし、間違っても祭日の訳ないし…
 彼はそんなこと考えながらしばらく走って、明るくなってきた頃、正面からいきなり逆走車!
「げろげろ!」
 それで彼は急ブレーキをかけ、その車も急ブレーキをかけ、で、衝突は回避され、それから彼は左ハンドルの逆走車の運転手を睨んだら、向こうも睨んできた。そして彼の車の横をすり抜けて、そのまま逆走を続けた。
(たくもう! こっちが逆走だと思ってやがる! 粋がって左ハンドルなんかに乗りやがって。外車自慢の逆走野郎め…)
 それから彼は再び走り出そうとしたのだが、そのときになって初めて、何故か自分の車が左ハンドルだという重大事案に気づいた。

 そもそも彼は「車は国産車に限る」と思っていたし、だいたい国産車は世界一優秀だ。外車なんかに乗るのは粋がったマウント取り野郎だ、なんて思っていたし。あの逆走野郎もそうだし。
 だけど考えてみると、どうして自分は今、左ハンドルの車を運転しているのだろう? あわてて間違えて他人の車に乗って来た? いやいや、だったらキーはどうやって?
 彼はいろいろ考えたけど、でもよく見るとやはりいつもの自分の車だ。もちろん、まごうかたなき自分の「国産車」だ。だったら右ハンドルの筈だけど、どうして左?
 でも何か変だ。
 何とアクセルは左側にあったし、で、彼はポリシーでマニアル車なんだけど、それでよく見るとクラッチが右側にあった。
 で、驚いた勢いでいきなり右足が緩んでクラッチを離し、どかんとエンストした。

 でも考えてみると左ハンドルで右クラッチ、左アクセル。まあ、ブレーキは真ん中だけど、それにしてもよくももまあ、こんな変ちくりんな車を、ここまで無事に運転して来たもんだ。
 もしかして寝過ごしたと思ってぶったまげて、それから無我夢中で脊髄反射的に運転したから、こんな離れ業のようなことが出来たのかもしれんが、まあ 訳が分からん。
 ともあれ寝過ごして、飛び起きて、朝飯かき込んで、車に飛び乗って、無意識に「左右が逆」のマニアル車を乗りこなし…
 いやいや、それにシフトレバーを見るとシフトパターンが左右が逆だ。それに1,2,3速…の文字が、あろうことか、裏文字! いやいや、よく見るとメータの文字も裏文字じゃないか!
 で、そういえば、フロントガラスの向こうで、道路標識がそっぽを向いてやがる。向こうを向いているのだ。
 それで彼はエンストしたままの車の左のドアを開け、車を降り、標識の向こうへ行き、振り返ると制限速度が書いてあり、それは裏文字だった。
 それで彼が愕然と呆然としていると、だんだん交通量が増え、で、見てみるとアメリカなんかみたいに車は右側を走っていた。
(俺、アメリカかなんかにワープしたのかな? ともあれ逆走してたのは俺の方?)
 いやいや、だけどここはまごうかたなき「我が国」だ。店の看板なんかも英語ではなく、だけど裏文字!
(そうか、俺は鏡の中の世界に入ったんだ! だったらやっぱり俺が逆走?)
 察しのいい彼は、すぐさま自分の置かれた状況を把握した。

 それから彼は気をとり直し、「裏返しの地図」を頭に描きつつ、「裏返しの職場への道のり」を考え考え、「裏返しの道路交通法」も考え考え、「裏返しの車」の操作法まで考え考え、頭を何度も爆発させながら、ともあれ裏返しになった職場にたどり着いた。とにかくそこは、建物のレイアウトが左右逆だし。
 ともあれ、そこまでの道のりは、彼にとってはもう、想像を絶する困難であったことは想像に難くない。
 それから彼は、裏文字の新聞を読んでいたガードマンさんに「おはようございます。今日は早いですね」と言われ、あれれと思い、それから裏返しになった職場の建物に入り、そこにあった裏返しのデジタル時計を見ると、朝の六時ころだった。文字は裏返しだが、彼の頭の中で「左右変換」するとそうだったのだ。
 考えてみると、今朝起きたとき、アナログ時計で七時半と思っていたけれど、実は四時半だったみたいだ。寝過ごしてなんかいなかったのだ。彼は慌てて少し損をした気分だった。
 ともあれそんな早朝だから、職場には彼以外誰もいなかった。
 それからややあって、彼はトイレへ行き、いつも通り、洗面台の前の大きな鏡の前に立った。
 考えてみると鏡の向こうには、彼にとって「裏返しではない世界」が広がっている訳だ。

 するとそのとき、鏡に映った自分が自分に目配せしたような気がした。
 それで彼も間髪を入れず目配せし、それから彼はあることを思いついた。そして鏡の中の自分も同時に、全く同じことを思いついたような気がした。
 すなわち彼は洗面台に乗り、それから鏡に頭をくっつけたのだ。
 もちろん鏡の中の彼も全く同じことをやり始め、すると彼と彼の頭が接し、そしてそのまま頭が鏡の中に入っていくような感覚がした。
 それで彼はそのままズボズボと鏡の中に入り、そのまま鏡の向こうの洗面台の上に乗り、それからトイレの床にぴょんと飛び降りた。
 振り返ると鏡の中に、まさにさっきまで自分がいた鏡の向こうの世界に、鏡の中の自分がいた。
 そしてお互いに目配せした。
「二人」とも、やっとオリジナルの世界に戻れた気がしていた。
 
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