発作3

文字数 3,353文字

 2025年5月。
 彼は元に戻った。発作開始からちょうど五年後のことだった。
「やっぱりこの間、僕にとっては3分位にしか感じられませんでした」

 彼は言った。そのとき彼は暦の上では三十七歳だが、そういう訳で彼は三十二年余りの人生しか歩んでいないことになる。
 しかし彼の妻は三十九歳になり、二人の息子は十八歳と十六歳に成長していた。

 それから担当医は、彼にこれまでの五年間の経過と原因究明の「成果」を説明した。
 得体の知れない「束鞭毛菌擬きの物体」が彼の脳の松果体内に存在し、それが彼の体内時計を狂わせているらしい、ということだった。
 しかしそこから先は「お手上げ」状態だった。

「しかし、この次の発作が起こると大変なことになります。あなたが次に発作を起こすのは、早ければ二〇二六年五月と予想されますが、今までの経過から、次にあなたが発作を起こすと、元に戻るのは実に五十年後ということになってしまうのです。発作の時間は十倍ずつ長くなっているのですから…」
 担当医は悲痛な表情で彼に説明した。

「何とか次の発作を止める方法はないのですか? 次に僕の発作が起こるのが二〇二六年で、元に戻るのは五十年後ということは…、二〇七六年ですか。それじゃ次に僕が元に戻ったとき、僕の妻は…、僕の妻は、九十歳! そして息子は六十九歳と六十七歳だ!」
 彼は愕然とした。
「冗談じゃない。僕はそんな浦島太郎みたいな目には遭いたくありません!」

 それから担当医は彼の脳の手術について検討を始めた。
 彼の松果体を摘出するのである。しかし担当医はこの手術でも彼の発作を予防出来る可能性は低いと考えていた。
 彼の脳の他の部分にもこの物体が存在したら…、つまり彼の脳から例の「束鞭毛菌もどきの物体」が完全に取り除かれる保障は、どこにもないのである。

「手術で発作を予防できる可能性は五分五分でしょう」
 数日後、担当医は彼にこう話した。
「それでも僕は手術を受けます! 発作を防げる可能性が少しでもあるなら。それにもしその次の発作が起これば、今度は五百年でしょう。そのとき家族は皆死んでいる。だからこのままじゃ僕は、僕にとってはあと二年しか家族といっしょにいられないじゃありませんか!」

 手術は脳神経外科に依頼され、手術自体は無事成功した。
 彼の松果体はきれいに切除され、それから二ヵ月ほどで彼は退院した。そして約十ヵ月間の、家族四人での幸せな暮らしが始まった。そしてもう二度と発作が起こらないことを、皆で祈っていた。

 しかし2026年5月。彼が暦の上で三十八歳のとき、不幸にも彼の発作は起こってしまった。
 皆は嘆き悲しんだ。
 彼はこれから五十年間の長い長い「眠り」につくこととなってしまったのだ。

 担当医は「彼に万一のことがあっては…」と、入院を勧めた。しかし発作前の彼と家族の、たっての希望により彼は自宅で家族とともに五十年の時を過ごすこととなった。

 彼は自宅の居間の、お気に入りのソファーに座り、長い時を過ごすこととなったのだ。
 もっとも彼にとっては、それはたったの三分間である。彼は食事をする必要もないしトイレに行く必要もない。
 ただし、発作から戻ったときの彼の低血糖状態の予防のため、彼はブドウ糖の点滴を続ける必要があった。しかし彼の妻は看護師の資格があり、自宅での点滴には何の問題もなかった。

 そんな彼の目の前には、大きなキャンバスが置かれた。そしてそれには妻と二人の息子の写真が貼られ、彼らの近況報告を示す短いコメントの書かれた紙も添えられた。
 それは「息子達の成長の様子を見守っていきたい」という、彼の願いを叶えるためのものであった。
 そしてこれらの写真とコメントは、およそ十年ごとに取り替えられた。

 この時間は彼にとっては18秒にあたる。家族は彼がその時間内で読めるような、短い内容のコメントを書いた。

 四十歳の妻は、
「子供たちが一人前になるまで私もがんばります」
 一九歳の長男は、
「僕は、お父さんの病気を治すため、がんばって医者になります!」
 一七歳の次男は、
「僕は科学者になって、お父さんの病気を治す機械を作ります!」

 それから彼の妻は看護師として病院で働き、生計をたてた。
 長男は高校卒業後浪人し、念願かなって医学部に合格。卒業後、医師として勤務を続けた。
 次男は理学部の物理学科に入学。大学院進学後、二十四歳から精密機器メーカーに就職し、主に電子顕微鏡などの研究開発に携わっていた。

 その頃、彼の目の前のキャンバスには五十歳の妻、二十九歳の長男、二十七歳の次男の写真が貼られ、彼らの近況報告のコメントも書き込まれた。

 もちろん彼は三十三歳のままの姿だったが、彼の表情はそれから約三年を掛け、嬉しそうに微笑んだものへと変わっていった。
 彼の妻と息子らは、彼とコミュニケーションが出来ることに喜びを感じていた。

 そしてさらに時が過ぎ、古ぼけたキャンバスには六十歳の妻、三十九と三十七歳の息子たち、その妻らと彼の孫たちの、合計十人の写真が貼られていた。

 そんな2046年のことであった。
 その頃彼の長男は、彼の担当医の勤める病院に勤務し、そして担当医はすでに六十三歳で、病院長になっていた。
 もちろん病院勤務の傍ら、長男も彼の病気の原因追求を続けていた。以前彼の脳から切除された、例の「束鞭毛菌」を含んだ松果体の標本から多数の切片を作り、電子顕微鏡で調べていたのだ。

 そんなある日、長男は「束鞭毛菌」が彼の松果体の細胞内の「ミトコンドリア」という細胞内小器官に鞭毛を差し込んでいることを発見した。
 細胞内小器官とは、細胞の内部を構成するものである。この中には核、小胞体、ゴルジ装置、ミトコンドリアなどの、いろいろなものが含まれているが、そのなかでミトコンドリアとは細胞の中の「エネルギー発生装置」と考えられている。

 ある日、病院長となった担当医と彼の長男は病院の電子顕微鏡室で、そのことについて議論をしていた。病院長は、
「この菌は鞭毛を松果体の細胞のミトコンドリアの中に差し込んでいるよね。ミトコンドリアは、細胞のエネルギー発生装置だから、この鞭毛を介してそのミトコンドリアに何らかの情報を送り、エネルギーを発生させている可能性があるね。問題はそのことと彼の発作がどう結びつくかだ。多分エネルギーを発生させて、彼の体内時計に異変を起こしていると思うんだ。同時に発作を起こすとき、彼はエネルギーを消費することになる」
「そうか、だから親父は発作の後、低血糖になるのですか」
「多分そうだろうね」
「ところで、親父の松果体を脳外科の先生が切除したのは、最後の発作の前だったですよね。だけどどうしてまた発作が起こったのですか?」
「この細菌はおそらく彼の松果体以外の部分にも存在したと思うんだ。そして脳内の体内時計の機能を持った部分は松果体以外にもあるはずで、その細胞のミトコンドリアに鞭毛を突っ込んでエネルギーを発生させていれば、結果は同じはずなんだ。そのことは手術前から予測出来たのだけど、あのときはやはり可能性に賭けた訳だ。発作を予防できる可能性にね」
「残念ながら、それがうまくいかなかったのですね…」
「実はこれは、人に言うと笑われそうな、荒唐無稽な考えなんだけど…」
 
 この病院長がよく荒唐無稽なことを考え付くのは病院内でも有名だった。
「実は、僕はあの『束鞭毛菌』は、本当は何かの人工的な物質、というか『機械』ではないかと思っているんだ。抗生物質が全く効かない。どんな培地でも全く培養されない。そして電子顕微鏡写真では確かに何かの機械のように見えるし、鞭毛にしても機械のワイヤーハーネスみたいだもん。先端にはご丁寧にコネクターみたいな部分もかすかに見えるし…」
「それじゃ、それが本当かどうか調べてみる必要がありますね! 実は、僕の弟は電子顕微鏡の開発をやっているのですが、最近のやつはすごい性能らしいんですよ。だからそれが本当に『機械』かどうか、今度見てもらいに行きましょうよ」
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