ヒートヒッター1

文字数 3,411文字

 ある日突然時間の感覚が変わり、周囲がゆっくりと動いているように感じてしまう…
 前作の「発作」とは真逆の世界を描いてみました。
 全3話で掲載。
 以下、作品。



 ある朝目覚めた時、彼は体が火照っているように感じた。
 彼は一週間程前、歯医者で親知らずを抜いてもらっていた。
 そしてその翌日から喉に軽い痛みを感じていたが、それは数日で良くなった。
 しかし今日は熱があるようだ。

〈風邪でもひいたのだろうか…〉

 彼は考えた。
 昨夜は熱くて寝苦しい夜だった。六月だと言うのに、もう夏のようだった。
 あまりの暑さに彼は窓を開けて寝ていたのだが、それがいけなかったのか? 
〈コーチに「自己管理がなってない」って怒られるぞ〉
 彼は思った。

 彼は入団して四年目の内野手だ。高校通算五十五本塁打の実績を買われ、ドラフト上位で入団。周囲の期待を一身に背負っていた。
 しかし入団後はなかなかプロのスピードについて行けず、伸び悩んだ。そろそろ実績を挙げないといけない。彼はそう思っていた。

 幸い今シーズンは調子が良く、二軍の試合では先発出場することも多かった。ここいらで活躍すれば一軍昇格も夢ではない。
 そんな矢先である。まずいことこの上ない。

 それから彼はベッドから起き上がった。
 ところが彼の体は彼の意に反し、ゆっくりとしか動かなかった。

〈風邪のせいで体が重いのか?〉

 彼は思った。
〈だけど雨が降っていれば練習は休みかも知れない。そうすれば部屋でゆっくりと寝ていられるかも…〉

 それで起き上がった彼は、そんな淡い期待を込めて窓の外を見た。
 だけど思い切り青空だった。
 彼にとっては残念なことに「絶好の野球日より」だったのだ。

 それから彼は恐る恐る体温計を口にくわえた。
 少しでも体調が悪い時はまず体温を計る。のどが痛いときは、すぐにうがいをする。
 彼なりに自己管理をしているつもりだったのだ。

 しばらくすると、体温計がピピピッと鳴った。
 彼は体温計を見た。

 四十三度だった!〈げげげ!〉

 彼にとってこんなに高い熱は経験のないものだった。当たり前だ。
 風邪をひいて熱が出ても三十八、九度だ。インフルエンザでも四十度止まりだろう。
 一体全体、どうしたというのか…

 ところが何か変なのだ。四十三度もの熱が出ているというのに…、もちろん体は熱い訳だが、何と言うか熱があるときの、あの独特の体のだるさ。いてもたってもいられないような、あの嫌な感じ。そう言うものが全く無いのだ!

 変な言い方だけど、熱があることがむしろ気持ち良いくらいなのだ。何だかサウナにでも入っているような…


 程なく彼はユニフォーム姿でグラウンドに立っていた。風邪ひきだと思っていたけれど、グラウンドに出てみてもそれほど体調は悪くなかった。やたらと体は熱いけれど…

 そのグラウンドでは梅雨明けを思わせる、真夏の入道雲が見えた。
 また夏がやってきたのだ。この季節になると彼も胸のときめきを覚える。
 夏…甲子園だ! 彼は数年前の夏の甲子園のことを思い出した。炎天下のグラウンド。
 あの大歓声。スタンドも熱く燃えていた。
 ホームランをガンガンかっ飛ばしたあの夏…

 だけどそのとき相手は高校生だった。プロとなった今とは訳が違う。
 その彼が今いるのは二軍のグラウンド。スタンドのまばらな人影。スタンドじゃない。
 河川敷の土手だ。だから野焼きでもしない限り「熱く燃える」訳がない。

 でもそのグラウンドの上で、彼の体だけは依然として熱かった。彼の体だけは、あの夏の甲子園のグランドにいたときと、そっくりだったのだ。

〈そうだ。真夏の甲子園にいると思えばいい〉
 彼はそう考えることにした。

 こんなに高い熱が出ているのに、まんざらでもないからだ。
〈これなら十分練習も出来る。コーチには熱のことは黙っておこう〉
 彼はそう考え、それから彼はいつものようにランニングをした。ところが自分が走っている速度がやけに遅いと感じた。

〈やはり熱のせいで、体が重いのだろうか…〉
 彼は思った。
 だけど一緒に走っているほかの選手たちも、彼と同じ速さで走っていた。
 つまり彼はいつもと同じ位の速度で走っていたということになる。
 それから彼はキャッチボールを始めた。

〈球が走らない!〉
 彼はそう感じた。
 しかし彼の投げる球だけではなかった。キャッチボールの相手の投げる球もやけに遅かったのだ。

〈あいつ、肩でも痛めているのだろうか…〉
 彼は考えた。そして相手も内野手だから…、それで彼は思った。
〈あいつが肩を痛めているのなら、俺にはチャンスではないのか?〉

 しかしそれだけではなかった。遅いのはそれだけではなかったのだ。彼の周囲の者の動きが全て遅いのだ! 動作も喋り方も、そして何とグランドの上空を飛んでいるカラスの群れさえも、その日はやけにのんびりと飛んでいたのだ。

〈あんな飛び方でよく失速しないな…〉
 彼は思わず、そんないらぬことまで考えた。


 フリーバッティングが始まった。
 だけどバッティングピッチャーの投げる球がやたらと遅いのだ。

 まるで草野球のピッチャーだ! 
 だけど何か変だ。ただ遅いだけなら、その球筋は重力の作用で山なりに飛んで来るはずだ。
 ところがバッティングピッチャーの球筋は、いつものようにシューっと伸びてくるのである。 ただスピードだけがやたらと遅いのだ。

〈まるでスローモーションだ…〉
 彼は思った。

 それから彼は打席に立つと、そのスローモーションでシューっと伸びる遅い球を打ってみた。 最初は少し戸惑ったが、慣れてくると面白いように打てた。
 もちろん彼の体も、いつもよりゆっくりとしか動かない。だけどやたらと球が良く見えるので、バットを正確にコントロール出来た。
 少し慣れると面白いように打てたのだ。

 それから彼は、思わずバッティング投手に言った。
「あの…、もう少し速い球、投げてもらえませんか?」
「何・言・っ・て・ん・だ・い。こ・れ・が・目・一・杯・だ・よ」

 ベテランのバッティング投手は心外という表情を浮かべながら、やけにゆっくりと彼に言い返した。


 それからしばらくして、バッティングゲージの中で快音を響かせる彼の周りにはコーチ達が集まってきた。
「い・い・当・た・り・し・と・る・な・あ!」
 バッティングコーチは驚いた表情を見せながら、ベテランのバッティング投手と同様、やけにゆっくりとしゃべった。

 で、しゃべり方はさておいて、もちろん彼も悪い気がする筈もない。
 だってコーチたちにアピールする絶好のチャンスなのだ。
 だから彼は立て続けにボールをフェンスの向こうまで運んでみせた。
 それは滞空時間の物凄く長い、大ホームランだった。
 そしてその日、二軍の試合でも彼は大当たりだった。

 それから、彼の快進撃が始まった。その噂ははたちまち一軍の首脳陣にも伝わり、数日後、彼は一軍の公式戦初出場を果たすこととなった。

 もちろん彼は一軍でも打ちまくった。
 一軍のピッチャーだって、彼にとっては大した相手ではなかったのだ。
 はっきり言って中学生レベルだ。

 もちろん本当はプロの一軍投手なのだが、例の「風邪ひき」以来、彼にはそういう風に見える。というか、感じる、というか、とにかく「中学生並み!」だったのだ。

 それに変化球だって「中学生レベル」だから容易に対応できた。そればかりではない。
 彼の目にはボールの回転まで見えたのだ。

 だから〈この球はカーブだ〉とか、〈今度はフォークボールだ〉とか、そういう事まではっきりと分かったのだ。

 守備でもファインプレーを連発した。
 とにかく飛んでくる打球が遅いのだ。もちろん彼の体もややゆっくりとしか動かない。だけど球が良く見えるので、打球に向かって一直線に走っていける。
 とにかく補球、送球とも、瞬時に判断して好プレーが続出するのだ。

 そんなこんなで彼は、瞬く間に不動の四番打者となり、スタープレーヤーへの階段を登り始めていた。


 だけど彼の熱はいつまでたっても下がらなかった。
 そんな七月のある月曜日。

 その日試合のない彼は、とある医院を訪れていた。
 彼の叔父が開業していたのだ。
 球団関係者やマスコミに知られるのはいやだったから、彼はここを訪れたのだった。

 検温の結果を見ながら、内科医である彼の叔父は言った。

「四十三度もあるじゃないか。どうして今まで放っておいたの!」

2へつづく

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