風邪をひいて…

文字数 3,721文字

 風邪をひいて、風邪薬を処方してもらおうと医者へ行った。診察室で俺は丸椅子に座り聴診してもらい、すると俺は咳が出ていたし、それで医者は胸のレントゲンを撮ると言い出した。そんなことまでしなくてもと俺は思ったが、医者が「まあ、念のため」というので俺はしぶしぶレントゲン室で裸になった。
 しばらくしてレントゲン写真が出来て、俺は再び診察室の丸椅子に座った。
 それから医者は俺の胸のレントゲン写真をしばらくしげしげと眺め、だけどだんだんと険しい顔になった。
(俺の胸のレントゲン、そんなに悪いのだろうか…)
 俺はそう思い、そして俺の中で不安がどんどん膨らんでいった。
(俺の肺には、もしかして…)
 それから少しして、医者は元の顔に戻り、そして俺にこう言った。
「胸のレントゲンに影があります。念のため大学病院でCTの検査を受けられた方が良かろうと思います。紹介状を書きますから、それを持って大学病院へ行って下さい」
「私、そんなに悪いのですか?」
「念のためです。それから薬も出しておきます」
 それから受付で会計を済ませ、紹介状を受け取った俺は近くの調剤薬局で薬をもらい、そして御多分に漏れずその界隈は「敷地内禁煙」だったので、少し歩いて、コンビニ前の喫煙コーナーで煙草を取り出し口にくわえ、火を付けようとした。
 だけどそのとき、俺の頭にあの診察室での医者の険しい表情が浮かんだ。そして「大学病院でCTの検査を受けられた方が…」という言葉も。
(何のためにCTの検査を受けるんだ? ただの風邪のはずなのに。もしかして俺、肺癌?)
 そう思うと俺は手が震えだし、煙草に火を付けるどころではなくなっていた。
(俺はまだ四十歳で、子供もまだ小さいのに肺癌で死ぬのか? 死ぬのか? 死ぬ…)
 そう思うと俺はとてもじゃないが煙草を吸う気にはなれなくなっていた。
(俺は四十歳で肺癌? そして残された家族は…)
 それから俺はくわえた煙草を箱と一緒に握り潰し、コンビニのゴミ箱に捨てた。そして医院で渡された紹介状の封筒に、事務の人が大学病院の電話番号を書いていてくれたので、早速そこに電話した。すると受診日を教えてもらったので、言われた日に行くことにした。

 それから大学病院へ行くまでの数日間。それは地獄だった。夜も眠れなかった。
「あなたは末期の肺癌です。あと余命半年です…」
 診察室で医者にそう言われる夢を何度も見た。そのたびに汗びっしょりで目が覚めた。
 それから俺はネットで煙草と肺癌の関係についても調べてみた。どうやら煙草を一日二十本吸うと四倍くらい肺癌になりやすいらしい。俺はまさにそれに該当する。だとすればもし俺が肺癌だったとして、で、その俺が煙草を吸っていなければ…、そんな俺が四人いたとしたら、そのうちの三人は肺癌にならなくて済んだことになる。
 煙草を吸ったばっかりに、俺は肺癌になったのかも知れない…
 とにかく検査を待つ日々はとても長く、時間はちっとも進まない。そしていろんなことを考えてしまう。それは地獄の日々だった。
 早くCTを撮ってほしい。
 肺癌なら肺癌と、早く教えてほしい。
 手術出来るなら、早くやってほしい。
 出来ることなら…死にたくない!
 とにかくそんな思いの中で、俺は煙草をやめたのだ。
 あのコンビニ前で煙草を握りつぶし、ゴミ箱に捨てて以来、一本も吸っていない。
 いや、怖くて怖くて、吸うどころではないのだ!

 それから数日後。俺は大学病院のCTの機械の中に入れられていた。俺は巨大な輪っかの中を通され、機械が唸った。
(この検査で俺の運命が決まる…)
 そう思うと俺は震えが止まらなかった。だけど震えてしまったらCTが上手く撮れないだろうから、俺は必死になって震えないよう、出来る限りの努力をした。しかもCTの機械は女の声で「息を吸って、停めて下さい」と言うので、俺は必死に息を止め、震えも止めていた。
(一体この時間はどのくらい続くのだろう。これは永遠なのか…)と思っていたら、「終わりましたよ♪」と、係の人が入ってきて、にこやかに言った。
 俺がどれだけ心配しているのか、この人間には分からないのだろう。
 まあいいや。

 それから病院の待合室で、俺は震えながら、自分の名前が呼ばれるのを待った。
「あなたは末期の肺癌です。あと余命半年です!」
 そう言われたらどうしよう…
 残された家族。女房子供。せめて子供が成人するまでは生きていたかった。
 俺の人生は四十年で終わりか…
 煙草を吸っていなければ、そんな俺の四分の三は健康でいれたのに…
 煙草のせいで肺癌になった…、かも知れないのだ。
 そして、同じことが俺の頭の中で何度もぐるぐると回っているうちに、気が付いたら自分の名前が呼ばれていた。
(とうとう来るものが来た…)
 そう思った俺は待合室の長椅子から立ち上がった。腰が抜けそうだったけれど、何とか俺は、よたよたと診察室へと歩いた。
 診察室に入ると恰幅のいい医者が白衣姿で座っていた。俺は隣の小さな丸い椅子に座った。

「あなたは末期の肺癌です。余命あと半年です!」

 そのとき俺はすでに、医者にそう言われる覚悟を決めていた。そしていろんなことが次々に俺の頭に浮かんだ。
(俺は肺癌で、余命は? 家族は? 煙草さえ吸わなければ…)
 それから俺は気を取り直し、前を見ると医者の机の上には、俺の肺のCT画像を映し出すモニターがあった。
 それから医者は器用にマウスを操作し、その画像…俺の肺の輪切りの沢山の画像を次々に映し出しながら、しばらく、「う~ん」と言った。

「あなたは末期の肺癌です。余命あと半年です!」
 その次の瞬間に、医者の口からそういう言葉が出る…きっと出る!そう思っていたら、CTの画像を一通り見た医者はこう切り出した。
「紹介された先生のところの胸のレントゲンを見る限り、肺癌の可能性もなくはなかったのですが、CTの画像で見ると、これは肺炎でいいと思います。軽い肺炎ですね。気管支肺炎というやつですが、もう既に治りかけています。紹介してくれた先生の処方された薬が効いているようです。しかし念のためあと一週間ぐらい同じ薬を飲んでもらいます。痰を出しやすくする薬も一緒に出しましょう」
 
 俺は強烈に安堵し、思い切り力が抜け、そして俺は座っていた丸椅子から後ろにひっくり返りそうになった。そして気を取り直し、俺は言った。
「ということは先生! 僕の病気、治るのですね!」
「治るも何も、もうあらかた治っていますけどね」
「もうあらかた治っている? そうですか!」

(やった! 俺は死なない!)

「そうそう。それからあなたはずいぶん煙草を吸っていますね」
「もうやめました。一週間ほど前に」
「やめたのは正解ですよ。あなたの肺は煙草の影響で、肺気腫と慢性気管支炎という状態になっています。このまま吸い続ければ肺気腫がひどくなって息が苦しくなり、しかも肺癌のリスクも跳ね上がります。もちろん慢性気管支炎も進行すれば、とても息が苦しくなり、重苦しい咳が続くことになるでしょう。とにかく煙草を卒業出来て良かったですね。卒煙おめでとう!」

 それから俺は、薬の袋を持って大学病院を出た。
 外は晴れていた。初夏の木々の緑がまぶしかった。
 気持のいい風がそよそよと吹いていた。きれいな空気だった。
 俺はその空気を思い切り吸い込んだ。
 俺は生きている!
 俺は心底そう思った。そしてこれからはこんなきれいな空気を吸っていこう。
 俺はそう心に誓った。
 
 それから一週間ほどして、もう一度大学病院へ行き、医者に「肺炎は完全に治っていますよ」と言われた。それから帰り際、「ずっと卒煙、続けてくださいね」と言われ、俺は「もちろん!」と答えた。
 何だか俺は、新品の命をもらったような気分だった。
 これからの俺の人生は、「ボーナスステージ」だ!
 
 それからしばらくしたある日、俺の店の常連客で風変わりな人物だが、一応医者をやっているという人に、俺の肺癌~肺炎騒動の話をした。ついでに煙草をやめたことも。それを聞いてその人は言った。
「煙草をやめられたということが、あなたにとってどれ程のメリットになると思いますか? まず、煙草を吸う人は吸わない人より約十年早死にするというデータがあります。これはイギリス、アメリカ、そして日本で同様の研究があり、八~一二年寿命が変わるという結果が出ています。そして四十歳で煙草をやめた場合、最初から煙草を吸わない人とほぼ同じ寿命になるというデータもあります。つまりあなたは煙草をやめたことで十年という時間を得たことになるのです。それはあなたが十年長く働ける、あるいは老後の年金がもらえるということです。それと煙草代。三十年分として五百万円ほどです。つまり煙草をやめて長生きして、給料や年金を長くもらい、そして五百万円の煙草代を浮かせば、それはもう結構な家が建ちますね」
 そしていよいよ明日は地鎮祭なのだ!

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