発作1

文字数 4,669文字

 医学的作品。全4話にて掲載。
 以下、作品。
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 僕が子供の頃風邪をひいたときのことだ。
 多分風邪と言ってもそれはインフルエンザで、時期からすると1968年の香港かぜ(H3N2)だったと思う。
 ワクチンも、ましてタミフルもない時代。

 全身が死ぬほどだるくて、40度高熱が出て頭がぼーっとしていた。
 そしてそれが治っても、それからしばらくのあいだ、時に変なことが起こった。何だか不思議な感覚になるのだ。
 おそらくインフルエンザ脳症の後遺症だと思う。

 それは自分の身の回りで起こる出来事が、物凄く速く感じられるようになるのだ。
 例えば母が箒で庭を掃いている。
 するとそのとき、母と箒の動きが「ザザザザ!」という感じで、物凄く速くなっているのだ。
 時計を見てもそうだった。昔はみな振子のある柱時計だった。その振子が振り切れんばかりに「ピュピュピュピュ!」と振れているのだ。

 その他の何もかもがそうだった。風にそよぐ枝も、庭にいた鶏の歩き方さえも…
 とにかく「速い!」。
 僕の回りで物凄い勢いで「時」が過ぎていく。

 だけど自分だけはその超特急の「時」に乗り遅れている。
 僕だけが取り残されていく…、そんな恐ろしくも不思議な感覚だった。
 そんな経験が、僕にこの小説を連想させた…




 2012年の九月。彼が二十四歳のときだった。
 その頃、彼には五歳と三歳の息子がいた。彼は若くして結婚していたのだ。二歳年上の姉さん女房だった。
 だけどそのときの彼には、彼の自身に起こったある出来事を理由に、自分の妻が世界でも例を見ないような、途方もない「姉さん女房」になるということなど、想像も付かなかっただろう…

 その日彼は夕食を終え、のんびりとくつろいでいた。時計は八時を指そうとしていた。
彼は八時からのテレビ番組を見ようとしていた。
 彼の二人の息子は、いつものように部屋の中をはしゃいで走り回っていた。
「ほらほら二人とも、おりこうさんにしていなさい!」
 いつもの妻の声が聞こえた。
 そして彼の最初の「発作」が起こったのはその時だった。

 突然、息子たちが「ピーチクパーチク」と、テープを早回ししたような声を発しながら、猛スピードで走り始めた…というか、「彼にはそういうふうに見えた」という方が正しい。
 それから子供たちは少しの間走り回ると、突然彼の視界から消えた。しばらくの間、部屋の中は誰もいなくなった。そしてややあって、突然息子たちが視界に現れた。今度は裸だった。やはり猛スピードで走っていた。

 そしてその直後、突然妻が視界に入ったと思ったら、息子たちはいきなりパジャマ姿になり、その次の瞬間、妻が視界から消えた。
と、突然、彼の「発作」は治まった。

 息子たちはいつものようにパジャマ姿でそこに立っていた。隣の部屋ではヘアードライヤーの音がしていた。
 それから彼が時計を見ると、ちょうど八時半だった。番組はすでに半分終わっていた。
(いつのまに三十分も過ぎたのだろう?)
 彼は不思議にそう思った。

 ややあって、ヘアードライヤーの音が止まり、妻がいつものように部屋に入ってきた。
「目が覚めたの?  あなたもお風呂に入って」
(そうか、僕は居眠りをしていたんだ)
 彼はそう考え、そのことを大して気にも止めなかった。
 ただ少しだけ空腹感があったので、彼はご飯にたまごをかけて、もう一杯だけ食べた。
 それから彼は風呂に入り、いつものように寝た。

 その後、彼は全く健康に過ごしていた。
 しかしそれからちょうど一年後の2013年の九月。
 彼が二十五歳の時だった。

 彼が会社で仕事をしていると、突然、彼の視界が目にも留まらぬ速さで動き出したのだ。
 それからややあって、彼の視界は突然見知らぬ部屋の天上に固定され、そこにはチューブのようなものが垂れ下がっていた。
 そして彼の周りでは、何やら白いものを着た人間のような影が、忙しそうにちょろちょろと動きまわっていた。

 そこは病院だった。彼は仕事中に倒れ…というか、「突然動かなくなった」といって、救急車で病院に運ばれたのだった。
 最初、彼の担当医は彼のことを「脳死状態」だと考えた。脈も呼吸も、瞳孔の反射もなく、しかも救急隊員の話では、彼は二十分以上も前からこの状態だったからだ。
(こりゃもうだめだ…)
 最初そう思った担当医だったが、彼の顔を見て不思議に感じた。
 妙に血色がいいのだ。
 普通こんな状態だとチアノーゼが出ていて、患者は生気のない顔をしている。ところが彼は全く正常であるかのごとき顔色をしていたのだ。

 それで担当医は彼の手の人差指に血中酸素飽和度測定器を付けてみた。
 すると飽和度は正常だった。
 どういうことかと言うと、彼の血液中には正常に酸素が送られていたということだ。

(もしかしたら、この患者は心拍動も呼吸も全く「正常」にやっているのではないだろうか…)

 担当医の脳裏には、突然そういう荒唐無稽な考えが浮かんだ。
 そこで担当医は超音波装置で彼の心臓の動きを観察することにした。
 しかし超音波の画面では、彼の心臓は全く動いていないかの如くに見えた。
 しかしそれから担当医があきらめずに超音波装置の画面を見続けていると、きわめて…いやいや、それはもう物凄くゆっくりとゆっくりとではあったが、彼の心臓は確かに動いていた。

 担当医は我が目を疑った。
 そして担当医は腕時計の秒針を見ながら、彼の心拍動の周期を測定した。するとそれは概ね100秒に一回という途方もなくゆっくりしたものだった。
 それから担当医が彼の胸の動きを観察していると、概ね8分の周期で上下していることが分かった。
 ただし聴診しても心音も呼吸音も聞き取れなかった。
 あまりにも心臓や空気の動きが遅く、「音にならなかった」からのようだ。
 それで担当医は彼の鼻に細長く切ったティッシュペーパーをかざしてみた。
 するとティッシュペーパーがかすかに動いているのが分かった。
 つまり空気の流れがあるのだ。

 それで担当医は言った。
「心臓はちゃんと動いている。呼吸もちゃんとやっている。血液中の酸素濃度も全く正常だ。何が何だかさっぱり分からんが、彼の中で流れる時の速さを除き、彼は『正常』と言わざるを得ない。一応点滴ルートをとって、入院して様子を見よう」

 それから五時間程経過した。担当医は看護師から「彼の意識が戻った」との報告を受けた。
 担当医が病室に駆けつけ彼を診察すると、心拍動は一分間に60回、呼吸も一分間に12回と正常に復帰していた。もちろん心音も呼吸音もきれいに聞くことが出来た。

 ただし彼は軽い空腹感を訴えた。そこで担当医が血糖値を測定すると彼の血糖値は低下していたので、ブドウ糖の点滴が行なわれ、程なく彼の空腹感は回復した。
 それから彼は三日ほど入院し、いろいろな検査を受けた。だけど全ての検査に異常は認められなかった。

「どの検査にも、全く異常はありませんでした」
 担当医は彼と彼の妻に説明をしていた。
「五時間ほど、何らかの『発作』を起こしていたのだと思います。だけど発作が治まると全く正常に戻ってしまったのです。ただ、発作中の心拍数が100秒に一回、呼吸が8分に一回という、とんでもない状態になっていました。よくもまあ脳死にならなかったものだと思います」
 担当医は困惑した表情で話を続けた。
「正直に申し上げて、こんな患者さんはこれまで私にも経験がありません。また、文献で調べてみましたが、こんな症例は世界中に一例もありませんでした」
 担当医の説明に対し彼は、
「先生は僕の発作は五時間だと言われましたが、実は…、僕にとってそれは三分くらいにしか感じられませんでした。僕は時々ボクシングをテレビで見ますから、三分というのは大体感覚で分かるんです。とにかく発作は僕にとって、ちょうど三分くらいでした」
「それじゃ、その間あなたの意識はずっとはっきりしていたのですか?」
「そうです。はっきりしていました。もっともその間、僕は金縛りになっていましたけど。だけどまわりの景色もずっと見えていました。ただ、まわりの景色が物凄いスピードで動いていたのです。三分の間ですけど」
「三分の間?」
「はい。そしてその間は、ちょうどビデオテープを早回ししたみたいな物凄い速さで…」

 それを聞いた担当医は驚き、そして頭を抱えた。
 だけどしばらく考えて、それからはたと膝を叩いた。
 またしても荒唐無稽な考えが浮かんだようだった。
「ちょっと待てよ。あなたにとっては三分で、周りのものにとっては五時間…」
 もう一度担当医は考え、そして話を続けた。
「五時間は、ええと、5×6=300分か。じゃ、100倍違うんだ。時間の流れが!」
「100倍?」
「そうだ。100倍だ。100倍ですよ!」
「100倍って?」
「つまり発作中のあなたの心拍数は100秒に一回だった。それが正常に戻ったときは、毎分60回、つまり1秒に1回だ。じゃあ、ぴったり話が合うじゃないですか!」
「何がぴったり合うのですか?」

 それから担当医は、何やらすばらしい考えが浮かんだという表情で話を続けた。
「言い換えると、あなたの体の中で、時の流れが100分の一の速さになっていたのですよ。だから心拍動が100秒に一回。そしてあなたにとっての三分が周囲の者にとって五時間だ。だから時の流れが、あなたの中で100分の一の速さに!」
「時の流れが100分の1?」
「そうです! ところで、今までに似たようなことはありませんでしたか」
「ええと、そういえば一年前でしたか…」
 彼は一年前に、自分の息子達が猛スピードで走り回るように見えたことを担当医に説明した。 自分にとって三分の発作の間、三十分も時が進んでいたことも。

「そうですか。前回は三分が三十分なら10倍だ。そして今回は100倍。それで発作は今度で二回目なのですね。それじゃまた一年後にそんなことが起こるかも知れません。そしてそのときは1000倍になったりして…」
「またですか? で、1000倍?」
「何倍になるかはさておいて、だけど発作が治まれば、きれいに元に戻る訳だ。また発作自体は例えば心臓発作みたいに危険なものでもなさそうです。それからいろんな検査でも現在は全く正常なんだし…、そういうことで、これ以上入院する意味もなさそうです。ひとまず退院して外来で様子を見ましょうか。またこんなことが起こったらすぐに病院に来てください」
 
 担当医がそう言うと、彼は少々困惑してこう言った。
「すぐに病院に来いと言われても、その時僕は金縛りだから…」
「だから今回みたいに、救急車でいらっしゃい」
 担当医は彼にそう説明し、それで彼はひとまず退院した。

 その後、担当医は彼のことを症例報告にまとめ学会発表した。
 しかし学会のお偉い大先生たちは「一笑に付した」のみで、誰も担当医のことを相手にはしなかった。

 その後、彼は全く健康に過ごしていたが、一年後の2014年の9月。彼が二十六歳のとき、やはり発作は起った。
 彼は担当医の「言いつけ」どおり、救急車で担当医の待つ同じ病院へと運ばれた。

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