スイッチヒッター
文字数 2,467文字
左殺しの代打の切り札。
考えてみると随分物騒な名称ではある。これは左ピッチャーを極端に得意とする…、というか、その一方で、ぶっちゃけ右ピッチャーをさっぱり打てない、しかしながら総合的にみると結構打てる打者が、かようなポジションで、まあ便利屋としてチームにそこそこ貢献している…、つまりこれはそういう選手だと思うけど。
で、彼は典型的なそういう選手である。
元々キャッチャーか何かをやっていたらしいが、まあそれはパッとせず、そこそこ鈍足で、でも打つのはまあまあで、ともあれそういう経緯もあって、かくして彼はその「左殺しの代打の切り札」という、名誉なのか不名誉なのか分からんが…、あ~、とにかく彼はそういう選手だったんだってさ。
で、ええと、もちろん彼は右打者だ。
「そない右投手が打てへんのなら、左打ちの練習やったらええねん」
コーチにそういう親切なアドバイスを受け、そういう訳で彼は熱心に左打ちの練習をしてはいた。それが出来れば映えある「スイッチヒッター」だし。
で、ともあれ彼は熱心に練習したのだ。
けれど、「せやせや、右ピッチャーのアウトコースのチェンジアップを、レフトに押っ付けるんやで…」とか言われながら、右投げのバッティングピッチャーを相手に打ち込んだりとか、もう必死に左打ちを練習したけれど、まあ一朝一夕にそういうことが出来る訳でもない。出来りゃだぁれも苦労はせんちゅうの。
実は彼は、相手チームが左ピッチャーのときに、代打として出場する訳だが、相手監督は意地悪を(?)して、早速彼に右ピッチャーをぶつけてくる。で、それに対抗して味方の監督は「代打の代打」の左打者を起用する。彼は寂しくバットを抱え、ベンチに…
そんなことが続いたある日。試合は終盤。
彼は出番に備え、ベンチ裏で鏡を前にバットを振っていた。
とりあえず右打者として、左ピッチャーをイメージしながらぶんぶんとバットを振っていたのだ。
と、そのとき、勢い良く振ったバットの運動エネルギー、というか、その運動量が彼を引っ張り、ともあれ彼は、豪快に鏡の方へと突進しようとした。
何故にそうなったかは一切不明だが、まあ、そのときの「成り行き」だったみたいだ。もののはずみともいう。
それで彼は咄嗟に、バットが鏡に当たらぬようバットに力積を与え、だから幸い、バットが鏡にがっしゃーんと当たるのは避けられたものの、作用反作用の法則で、彼にはバットから、鏡にさらに激しく突進するような結果をもたらす力積を与えられたのだ。
まあややこしい力学の話はさておいて、ともあれ彼は豪快に鏡の方へと…
で、彼は豪快に鏡にがっしゃーん…と?
いやいや、実はそうはならず、その瞬間、空間に異常があったのか、はたまたその鏡はいつもそうだったのかは全く不明だが、ともあれ彼は何と、そのまま「すぽっ!」っという感じで鏡の中に入って行ったのだ。
気が付くと彼は、鏡の前に大の字になって腹ばいにこけていた。目の前には鏡への衝突を免れたバットが転がっていた。それで彼はバットを拾い、立ち上がり、ぽんぽんとユニフォームの埃を払い、それから再びバットスイングを開始した。
と、そのとき「おい。左ピッチャーが出てきたさかい、おまはんそろそろ出番ちゃうか?」と、件のコーチの声がして、それで彼はベンチへ向かうことにした。
それで彼が出てみると、ベンチに座った選手たちの背番号がずらりと並んでいる訳であるが、これが全て裏文字だった。番号も、そしてローマ字の選手名も!
で、彼は一瞬わが目を疑い、「え!」と思ったが、その次の瞬間、察しのいい彼は、ここが鏡の中の世界だと直感した。
だってつい今し方、バットスイングをしたとき、彼は鏡の中に飛び込んでしまったではないか。彼はそのエピソードを思い出したのだ。それから彼が自分のバットを見てみると、バットのマークが裏返しになっているし。
それだけではない。
グラウンドに目をやると、そこはホームの球場なのにベンチが「三塁側」にある。つまりベンチから左を向けば外野スタンド。
そこから見るとスコアボードが裏文字だし、フェンスの広告の文字だって…
と、か~んと音がして、観客席がわぁ~と言って、それからバッターランナーは三塁方向へ走り出した。
それでとうとう彼は確信した。絶対にここは鏡の中の世界なんだと。
それでそのとき彼がマウンドを見ると、彼にとって「右投手」が投げていた。
「左ピッチャーが出てきたさかい…」とコーチが言っていたし、だから鏡の中の世界では左右が逆になっていて、つまり左投手が右投手になっていた訳である。
と、ここで監督が彼の尻をぽんと叩き、それからグラウンドに出て、審判に「代打」を告げた。彼が代打だ。左殺しの…
そこで機転を利かせた彼は、咄嗟に戻って来た監督に、
「ぼく、散々左打ちの練習をしたし、今日練習で、すごくいい感触が掴めたみたいだから、ここで仮に右投手に代わっても、ぼくにそのまま打たせてもらえませんか。お願いします!」と、深々と頭を下げたのだ。
幸い、監督は柔軟な思考の出来る、そして話の分かる人だったので、その細い眼をさらに細くして、つまり、まんざらでもない顔をして、こう言った。
「そうか。いい感触掴んだか。じゃ、右投手になっても打ってみるか」
そうして彼が打席に向かおうとしたら、案の定、相手の監督が「右ピッチャー」に代えてきた。そしてその「右ピッチャー」はマウンドで、彼から見て「左投げ」で投球練習を開始。
それが終わり、それから彼は、もちろんそのまま打たせてもらうことになり、相手ベンチの監督や選手たちは「え~?」っていう顔をしたけれど、彼は構わず左打席、すなわち彼にとっては右打席に立った。
スタンドからざわめきが。
打席に立った彼は、それから、彼にとっては左で投げようとしている、その「右投手」の投球を待った。
(打ったら三塁方向へ走らなきゃ…)
彼は自分にそう言い聞かせながら、自信満々で、その左投げの「右投手」の投球を待った。
考えてみると随分物騒な名称ではある。これは左ピッチャーを極端に得意とする…、というか、その一方で、ぶっちゃけ右ピッチャーをさっぱり打てない、しかしながら総合的にみると結構打てる打者が、かようなポジションで、まあ便利屋としてチームにそこそこ貢献している…、つまりこれはそういう選手だと思うけど。
で、彼は典型的なそういう選手である。
元々キャッチャーか何かをやっていたらしいが、まあそれはパッとせず、そこそこ鈍足で、でも打つのはまあまあで、ともあれそういう経緯もあって、かくして彼はその「左殺しの代打の切り札」という、名誉なのか不名誉なのか分からんが…、あ~、とにかく彼はそういう選手だったんだってさ。
で、ええと、もちろん彼は右打者だ。
「そない右投手が打てへんのなら、左打ちの練習やったらええねん」
コーチにそういう親切なアドバイスを受け、そういう訳で彼は熱心に左打ちの練習をしてはいた。それが出来れば映えある「スイッチヒッター」だし。
で、ともあれ彼は熱心に練習したのだ。
けれど、「せやせや、右ピッチャーのアウトコースのチェンジアップを、レフトに押っ付けるんやで…」とか言われながら、右投げのバッティングピッチャーを相手に打ち込んだりとか、もう必死に左打ちを練習したけれど、まあ一朝一夕にそういうことが出来る訳でもない。出来りゃだぁれも苦労はせんちゅうの。
実は彼は、相手チームが左ピッチャーのときに、代打として出場する訳だが、相手監督は意地悪を(?)して、早速彼に右ピッチャーをぶつけてくる。で、それに対抗して味方の監督は「代打の代打」の左打者を起用する。彼は寂しくバットを抱え、ベンチに…
そんなことが続いたある日。試合は終盤。
彼は出番に備え、ベンチ裏で鏡を前にバットを振っていた。
とりあえず右打者として、左ピッチャーをイメージしながらぶんぶんとバットを振っていたのだ。
と、そのとき、勢い良く振ったバットの運動エネルギー、というか、その運動量が彼を引っ張り、ともあれ彼は、豪快に鏡の方へと突進しようとした。
何故にそうなったかは一切不明だが、まあ、そのときの「成り行き」だったみたいだ。もののはずみともいう。
それで彼は咄嗟に、バットが鏡に当たらぬようバットに力積を与え、だから幸い、バットが鏡にがっしゃーんと当たるのは避けられたものの、作用反作用の法則で、彼にはバットから、鏡にさらに激しく突進するような結果をもたらす力積を与えられたのだ。
まあややこしい力学の話はさておいて、ともあれ彼は豪快に鏡の方へと…
で、彼は豪快に鏡にがっしゃーん…と?
いやいや、実はそうはならず、その瞬間、空間に異常があったのか、はたまたその鏡はいつもそうだったのかは全く不明だが、ともあれ彼は何と、そのまま「すぽっ!」っという感じで鏡の中に入って行ったのだ。
気が付くと彼は、鏡の前に大の字になって腹ばいにこけていた。目の前には鏡への衝突を免れたバットが転がっていた。それで彼はバットを拾い、立ち上がり、ぽんぽんとユニフォームの埃を払い、それから再びバットスイングを開始した。
と、そのとき「おい。左ピッチャーが出てきたさかい、おまはんそろそろ出番ちゃうか?」と、件のコーチの声がして、それで彼はベンチへ向かうことにした。
それで彼が出てみると、ベンチに座った選手たちの背番号がずらりと並んでいる訳であるが、これが全て裏文字だった。番号も、そしてローマ字の選手名も!
で、彼は一瞬わが目を疑い、「え!」と思ったが、その次の瞬間、察しのいい彼は、ここが鏡の中の世界だと直感した。
だってつい今し方、バットスイングをしたとき、彼は鏡の中に飛び込んでしまったではないか。彼はそのエピソードを思い出したのだ。それから彼が自分のバットを見てみると、バットのマークが裏返しになっているし。
それだけではない。
グラウンドに目をやると、そこはホームの球場なのにベンチが「三塁側」にある。つまりベンチから左を向けば外野スタンド。
そこから見るとスコアボードが裏文字だし、フェンスの広告の文字だって…
と、か~んと音がして、観客席がわぁ~と言って、それからバッターランナーは三塁方向へ走り出した。
それでとうとう彼は確信した。絶対にここは鏡の中の世界なんだと。
それでそのとき彼がマウンドを見ると、彼にとって「右投手」が投げていた。
「左ピッチャーが出てきたさかい…」とコーチが言っていたし、だから鏡の中の世界では左右が逆になっていて、つまり左投手が右投手になっていた訳である。
と、ここで監督が彼の尻をぽんと叩き、それからグラウンドに出て、審判に「代打」を告げた。彼が代打だ。左殺しの…
そこで機転を利かせた彼は、咄嗟に戻って来た監督に、
「ぼく、散々左打ちの練習をしたし、今日練習で、すごくいい感触が掴めたみたいだから、ここで仮に右投手に代わっても、ぼくにそのまま打たせてもらえませんか。お願いします!」と、深々と頭を下げたのだ。
幸い、監督は柔軟な思考の出来る、そして話の分かる人だったので、その細い眼をさらに細くして、つまり、まんざらでもない顔をして、こう言った。
「そうか。いい感触掴んだか。じゃ、右投手になっても打ってみるか」
そうして彼が打席に向かおうとしたら、案の定、相手の監督が「右ピッチャー」に代えてきた。そしてその「右ピッチャー」はマウンドで、彼から見て「左投げ」で投球練習を開始。
それが終わり、それから彼は、もちろんそのまま打たせてもらうことになり、相手ベンチの監督や選手たちは「え~?」っていう顔をしたけれど、彼は構わず左打席、すなわち彼にとっては右打席に立った。
スタンドからざわめきが。
打席に立った彼は、それから、彼にとっては左で投げようとしている、その「右投手」の投球を待った。
(打ったら三塁方向へ走らなきゃ…)
彼は自分にそう言い聞かせながら、自信満々で、その左投げの「右投手」の投球を待った。