ヒートヒッター 完結

文字数 2,630文字

 その後、彼は相変わらず元気に試合に出場した。相変わらず彼の熱は下がらず、したがって、彼の成績も下がらなかった。
 一週間程して、彼の叔父から細菌培養の結果が出たとの連絡があり、それで彼は再び叔父の医院を訪れた。

「やはり溶連菌感染症だったよ。だがこれはどうやら新種の細菌らしいんだ。それで僕は君の親知らずを抜いた歯医者さんに連絡してみたんだ。実はその歯医者さんは、僕のラジコン飛行機の仲間でね。良く知ってるんだ」
「叔父さんはいろんな趣味があるんですねえ。で、地下室の人力車も趣味?」
「ち…、地下室を見たのかね?」
「ええ。人力車が…」
「あれれ、そんなものあったっけ。へへへ、まあいい。で、あ~、その歯医者さんが言うには、君の親知らずを抜くときレントゲン写真を撮ったのだけど、そのとき機械の故障で、写真が真っ黒になったそうだ。それで写真を撮り直したところ、今度はうまく撮れた」
「確かにあの時、レントゲンを撮り直しますって言ってました」
「実はこれは、僕の推理なんだけどね…」

 彼の叔父がよく荒唐無稽な考えをひねり出すのは、町内でも有名だった。そんな彼の叔父は、あるすばらしい考えが浮かんだという表情で、唾を飛ばしながら雄弁にいつもの早口でしゃべり始めた。(彼にとっては程良い速さだったけれど)

「いいかね。まず最初のレントゲン写真を撮ったとき、X線が余計に出ていたか、あるいは、エネルギーの高いX線が出ていたと思うんだ。その影響で君の口の中の溶連菌が突然変異を起こしたのかも知れない」
「そんな事が起こりうるんですか」
「もちろん非常に考えにくいことだ。X線装置にはちゃんと安全装置が付いていて、決して人体に害を与える事の無いようになっている」
「それはそうですよね」
「ところで、君の親知らずの一つ手前には金歯があるよね」
「はい。三年ほど前に、同じ歯医者さんに被せてもらったんです」
「それじゃその金歯にX線が当たって、そこから二次的に別の高エネルギーのX線が出たのかも知れない。あるいは金歯そのものが、一種の触媒のような作用で…いや待てよ、やっぱり高エネルギーのX線の作用で…それから金歯に当って、それから、え~と、う~ん…」

 彼の叔父は自分で言ったことが自分で良く分からないという、困った表情をしていた。つまり「荒唐無稽の素晴らしいアイディア」は、途中でエンストしてしまったようだ。

 そこで彼は助け船を出した。
「要するに、原因はよく分からないということですかね」
「まあ、そういうことだな。わっはっは。もしかしたらその歯医者さんが原因だと言うことは、全くの濡れ衣かもしれない…」
「わかりましたわかりました。もう突然変異の原因は金輪際問わないことにします」
「君がそう言ってくれると有り難い」
「だけどそれで、どういうふうに突然変異したのですか?」
「まあ原因はさておいてだ。とにかくそこから先の説明なら任せてくれたまえ。つまりだ。その突然変異の結果、細菌の病原性が減った!」
「なるほど。僕は熱以外は全く『健康』ですからね」
「それと外因性発熱物質を大量に産生するようになった」
「何です、その外因性…」
「発熱物質! つまり体温中枢に作用して君の体温を上げる物質だよ。この前君が来た時に細菌感染と発熱の話をしただろう。つまり発熱を起こす原因の物質だよ。で、おそらくこの細菌は、べらぼうな量の外因性発熱物質を産生しているはずなんだ。これについては今、実験中なんだけどね」

 実は、彼の叔父の医院の地下には立派な実験室があった。
 実験室とはいうものの、いろんな訳のわからないものが散乱しているようにしか見えないが…例えば人力車…叔父は時々そこでいろんな科学実験をやっているようだった。墜落したラジコン飛行機の修理のために使われることも多かったようだが…

「だから、この細菌に感染するとだな」
「わかった。発熱物質の影響でべらぼうに熱が出る」
「正解! でも病原性は低いので、君自身は元気でいられる」
「そうですね。気分は悪くないですから!」
「それともうひとつ。実は、この細菌にはペニシリンがよく効く。これも試験管の中では実証済なんだけど、ペニシリンを打てば君の病気は一発で良くなると思うよ」
「良くなる、というのは熱が下がるということでしょう」
「もちろんそうだよ」
「じゃ僕の時間感覚は、どうなるんだろう?」
「多分、あっさりと元に戻ってしまうだろうよ」
「ちょっと待ってください。そんな事になったら僕はまたヒットを打てなくなってしまうじゃないですか。そしたら二軍へ逆戻りだ」
「でもいつかはペニシリンを打たないといけないと思うよ。いつまでもこんな状態でいて良いわけがない。何かとんでもない事態にでも…」
「それは分かっています。でも注射するのは、もうすこし待っていてもらえませんか?」
「まあ今のところ君に不都合はなさそうだしね。もう少し様子を見てもいいよ。まあ注射を打つ気になったら、いつでもいらっしゃい」


 その後、もちろん彼の熱は下がることはなかった。したがって彼の成績も下がらなかった。
 それどころか彼はますます絶好調になっていた。

 彼は八月の月間MVPにも選ばれたし、何度もヒーローインタビューを受け、テレビ出演も一度や二度ではなかったのだ。
 彼のやや早口な喋り方もすっかり彼のトレードマークになっていた。

 彼は幸福の絶頂期にあったのだ。

 その間も彼はペニシリンを打とうか打つまいか、ずっと迷っていた。このままで良い訳がない。何かとんでもない事態になったら…
 だけど彼にとって現在の名声を失うのは、とてもとても辛いことだった。
 それはそうだ。

 あなただって、きっとそうでしょう?

〈いっそ、引退するまでペニシリンを打たずにいようかな…〉
 彼はそんな事さえ考え始めていたのだ。


 そんなある日。それはシーズンも押しつまった九月のことだった。
 彼は試合中、走ってきたランナーのスパイクで向こうずねに怪我を負った。
 そして彼は球場近くの救急病院へ運ばれた。

 彼の傷の縫合を終えると、気の良さそうな外科医は彼に言った。

「念のため、化膿止めの注射もしておきましょう」

 プロ野球選手である彼には、その「化膿止め」が何であるか、知る由もなかった。
 それから程なく彼は隣の点滴室に寝かされた。
 そのまた隣の部屋では、その気の良さそうなその外科医が看護師にこう告げていた。

「看護師さん。ええと、ペニシリンを…」

ヒートヒッター 完

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