天動説の水平線

文字数 6,163文字

 注)これは「天動説」を前提とした物語です。
 従って「地動説」的世界観で読んではなりまん。
 あくまでも天動説に浸って読んでください。
 以下、作品。



 ある年の夏のことだった。夜空には白鳥座が美しく輝いていた。
 天文学者のデネブはたくさんの食べ物、水、そして空の観測のための色々な機械とともに、一人船で東の果てへと向かう旅に出た。
 船で海の彼方まで行き、「海と空が接する所」の様子を調査するためである。

 彼の計算では、冬の初めまでには海の彼方にたどり着き、翌年の春には故郷へ帰り着くことになっていた。

 デネブはとても正直な人間で、皆から好かれていたし、尊敬もされていた。だから彼の出発のときには、たくさんの人々が彼を見送った。
 また、彼がどんなことを発見し、人々に知らせてくれるのか、人々は期待に胸を膨らませた。
 ただ、彼の妻と幼い息子は、彼の無事を祈るばかりであった。

 それから、彼を乗せた船は、毎日東へ東へと進んでいった。
 やがて、彼の住んでいた陸地もかすんで見えなくなり、ほどなく彼の周囲は見渡す限りの海となった。

 そして港を出てから数週間が過ぎた。
 連日、朝日と夕日を観察していた彼は、ある異変に気付いた。
 朝日が日に日に大きくなり、夕日はどんどん小さくなっていったのだ。
 これは船が東へと進んでいる証拠だと、彼は考えた。

 そして月日が過ぎ、秋も終わりとなった。
 それでも南の海は寒いことはなかった。
 そしてこの頃になると、朝日は夕日のよりもはるかに大きくなっていた。

 夜の星座も同様だった。
 東の空に昇るオリオン座は巨大だった。
 オリオン大星雲は大きな雲のようで、望遠鏡で見ているように暗黒星雲の細かいところまではっきりと見ることが出来た。
 ところが明け方には、西の空に寂しそうに小さなオリオンの姿があった。

(いよいよ海と空が接する所に近づいたな…)
 彼は考えていた。

 だけど、実はこの頃になるとある問題が起こった。
 巨大な朝日が昇るため、毎朝、辺りは大変な熱さになったのだ。

 このため彼は船の進路をやや北へと変えた。
 そしてこうすることで、朝日に近づきすぎる心配は無くなった。

 それに比べると、月にはずっと近づくことができた。
 月は熱いことはなかった。
 ほんのりと生あたたかいだけだった。
 そして近くで見ていると、月は、天球から丸く飛び出していた。
 このため、月が出るときにはいつも大波が起こり、そのたびに船は大きく揺れた。
 そしてこの大波が陸地まで届くとき、潮が満ち引きするのではないか。
 彼はそう考えた。

 一方、月の満ち欠けは月の表面に黒い膜のようなものが覆い被さったり戻ったりすることで起きているようだった。
 しかし、詳しいことは分からなかった。

 事件はある冬の、新月の日の夜明けに起こった。
 月はすっかり黒い膜で覆われていたため、彼は月の出に気付かなかった。
 しかし月が膜で覆われていても、月が出るときはいつもと同じように大波が起こる。

 突然の大波が彼の船を襲った。
 それから彼は船を走らせ、急いで月から離れようとした。
 しかし時すでに遅く、彼の船はその大波を受け、たちまち転覆してしまったのだ。
 彼は海に投げ出され、船は観測機器とともに沈んでしまった。

 それから彼は必死に泳いだ。
 絶望的な気持ちが彼を襲った。
 こんな海の彼方で投げ出されては、助かる見込みなどあろうはずもない。
 だけどその時の彼には、泳ぐ以外なすすべも無かった。

 それにあきらめるのはまだ早い。
 少しでも助かる見込みがあるのなら…
 そう思った彼は、とにかく泳ぐことにした。

 それから彼は朝焼け色の空が見える方角へ、必死に泳いだ。
 朝焼け色の空の方角…それは「東」だ。

 西に向かって泳げば、彼が何カ月も船で航海してきた海しかない。
 しかし、東に泳げば、何があるかわからないけれど、彼が求めていた「何か」が、そこにはきっとあるはずだ。
 そしてきっとそこは「海と空が接する所」だ。彼が目指していた場所だ。

 助かるか助からないかは分らない。
 だけど泳いででもその場所に行ってみたい… 
 そういう思いも彼にはあった。

 それからしばらく泳ぐと、彼はその「朝焼け色の空」が、眼前に迫って来るような錯覚を覚えた。
 いや、それは錯覚ではなかった。
 実際に彼の目の前に迫ってきていたのだった。

「どん!」

 そして軽い衝撃とともに、彼は何かに衝突した。

「あいたた!」

 だけど何故かそこには「壁」があった。
 驚いた彼はつぶさにその壁を見た。
 壁は海中から空まで、そそり立っているようだった。

(もしかして、これこそが、「海と空が接する所」ではないのか…)
 彼は考えた。

 その壁はつるつるしていて、掴み所がなかった。
 しかし何かにつかまらないことには、このまま永久に立ち泳ぎを続ける以外にない。
 そこで彼はどこかにつかまる所はないか、あるいはよじ上る所はないか、必死に探した。
 とにかくそういう場所があれば、少なくとも溺れ死ぬ事だけは避けられる。

 彼がそう考えていたその時だ。
 その壁に、人が入れる程の大きさの穴が海の中からわき上がってきたのである。

 彼はとっさにその穴の中へ飛び込んだ。
(助かった!)
 彼は思った。
 ところが安心したのも束の間、穴の中からざあざあと流れ出る大量の水に、彼は危うく流されそうになった。
 だけどここで流されたら一巻の終わりだ。

 そこで彼は穴の中で手足を突っ張り、しばらくの間、その流水と格闘した。
 ものすごい勢いで水が流れ出たが、何とか彼はその穴に留まることができた。

 一安心した彼は、穴の入り口近くにあぐらをかき、今まで泳いでいたその海を見た。
 驚いた事に、海は見下ろすような所にあった。
 穴が水面からどんどん昇っていたのである。

(この穴は一体、何なのだろう?)
 それから彼はしばらく考えた。そしてひとつの結論に達した。

(この穴は「星」なのではないか…)
 その結論は正しかった。

 しかし彼は、これが一体何という星なのか分からなかった。
 それでも天文学者である彼には、これが白鳥座の中の星であろうことは予想できた。
 そして実際に彼が飛び込んだその穴は「星」だった。

 暗くて、まだだれも発見したことのない、名もない星だった。

 やがてその穴、つまりその「名もない星」は、日周運動のため、どんどん高くなっていった。遥か海を見下ろすようになり、やがて雲よりも高くなった。

 青い海、白い雲。
 そして、はるか彼方にはデネブが住んでいた大地も、かすかに見え始めた。見たことも無いような素晴らしい景色だった。
 彼はしばらくの間、その景色に見とれていた。

 だけどしばらくして、彼はその穴がだんだんと傾いていくのに気付いた。
 彼は考えた。
(このままここにいたら、穴がどんどん昇ると同時に、だんだん傾いていく。昼ごろには穴はまっさかさまになってしまう。そんな天の天辺からすべり落ちようものなら、一巻の終りだ…)

 そう考えた彼は、穴があまり傾かないうちに、穴の奥の方へ進むことにした。
 同時に、穴の奥がどうなっているのか、興味もあった。

 穴は奥へ行くにつれ、少しづつ明るくなっていった。
 穴の奥から光が射しているようだった。
 彼は穴の中を進みながら、いろんな事を考えていた。

(自分は今、一体どこにいるのだろうか?)
 それは彼にとって重要な疑問だった。

(ある星の中にいる…それは正しい)
(宇宙の端っこにいる…それも正しい。きっとそうだ)
 彼は考えた。

(それと、この穴の奥から射している光は何だろう? 星の光?)
 だがそんなことより、次の疑問は彼にとって、もっと重要なものだった。

(「宇宙の端っこ」であるこの穴をぬけると、一体、どこに出るのだろう? もしかしてそれは、「宇宙の外」なのではないだろうか…)
 だけど彼には、その答えが分からなかった。

 そんなことを考えながら、彼は奥に進んだ。
 進めば進むほど穴の奥から射す光は強くなっていった。
 そして彼は穴の一番奥らしき場所にたどり着いた。

 そこには一枚のドアがあった。
 そして穴の奥から射していた光は、そのドアのカギ穴から出ていた。

 と、突然、ドアの傍らに見慣れぬ老人が現れた。
 長い白髪で、長い髭を生やし、何だか神様のような姿だった。
 その「神様」は彼に話し掛けた。

「ここへ何をしに来た?」

 それで驚いた彼は答えた。
「私は、デネブという天文学者です。私は海と空が接する所の様子を探るため、ここに来たのです。ところであなたは…」
「私はこの星の守り神だ」
「守り神?」
「それにしてもお前は、一体どうやってこの場所までたどり着いたのだ?」
 それで彼は長い航海でここまでたどり着き、月の出の時の大波で船が転覆したことや、必死にこの星の穴に逃げ込んだことなどを説明した。すると守り神は彼にたずねた。
「何のために?」
「それは科学者の勤めです。宇宙がどうなっているかを調べることは、科学者の勤めです。水平線の果てがどうなっているのか。太陽や月や星はどうなっているのか。波はどうやって起こるのか。それらを調べ、皆に知らせるのが私の勤めです」

 すると守り神は少し考えてから、ゆっくりと答えた。

「そうか。少なくともお前は悪い人間ではないようだ。それに悪い事もしてはおらんようだ。しかし月が出る時の大波に気付かなかったのは、おまえの不注意だ。残念だがそれは自業自得だ。そのために大波を受け、船が沈んだとしても、しかたがあるまい…」

 それから守り神は、もう一度黙って考え込んでいるようだった。
 しばらくの間、沈黙が続いた。そしてしばらくして、守り神は言った。

「どうする。中に入るのか。ただし中に入ったら、おまえは死ぬことになるが…」

 驚いた彼はたずねた。

「どうして死ぬことになるのですか?」
「ドアの向こう側は『宇宙の外』だ。だから向こう側へ行くことが出来るのは、死んだ者の魂だけだ。科学者のおまえには考えにくだいろうが、死者の魂だけが宇宙の外に出られるのだ」
「死者の魂…」
「海で死んだ者は屍が海の底に沈み、その魂は海の底にある天球のどこかの星の穴に入る。そして陸で死んだ者は火葬にされ、魂が煙になって空へ上り、それからどこかの星の穴へ入る」
「星に穴に入る…私みたいにですか?」
「そうだ。そしてその穴の奥にはドアがあり、それを開けたらその星は光り出す。それをお前たちは新星と呼んでいるであろう。そしてそこには星の守り神がいて、この私そのひとりだが、その魂を中へ入れてやる」
「それでは、もしかしてドアの向こう側は…」
「このドアから中に入れば、そこは死んだ者の魂の行く所、つまり天国だ」
「天国…」
「ところがどうだ。お前はあろうことか、生きたままここへやって来てしまった。お前のような者は、この一万年、私は見た事がない」
「一万年?」
「そうだ」
「それでは私はどうしたらいいのでしょう?」
「繰り返すが、中には入れば、おまえは死んだ事になる」
「私はまだ死にたくありません。私には妻も、幼い子供もいます」
「だが、今ここに入らなければこの星が西の空に沈むとき、水が流れ込んできて、お前は溺れてしまうだろう。そうすると、やはりお前は死ぬことになる」
「私は家に帰りたいです。死ぬのはいやです。それに私は天文学者です。皆に私が見付けたことを伝えなければなりません。お願いです。どうか私を助けて下さい」
「しかし…それは途方も無く難しい問題だ」

 それから守り神は再び黙って考え込んでいた。
 しかし残念ながら、ここから無事に帰る方法は、絶対にないように思われた。
 
 例えば、この星が西に沈む直前、海に飛びおりる。
 しかし問題は船で何か月も旅した距離をどうやって泳ぐかだ。
 しかもこの星が天に昇っている間じゅう、穴にしがみついていることが出来ればの話だ。

 そしてしばらく考え込んでいた守り神は、はたと膝を打ち、またしゃべり始めた。

「お前の望みを叶える方法が一つだけある。しかしそのためには、お前は一度死ななければならない。それからお前は妻や子供に合うことはできるし、おそらく一緒に暮らすこともできる。しかし彼らと話すことは出来ない」

 守り神は、悲しそうな声で続けた。

「こんな方法しかないということは、本当におまえにはすまないと思う。しかしこれしか方法はないのだ。それでもいいなら、願いを叶えてやってもいい。何よりおまえは、何も悪い事をしていないのだから」
「家に帰る事が出来るのなら、どんな事でもします。どうか私を助けてください」
「一度死ぬのだぞ。それでもいいのだな」

 しばらく躊躇したが、最後に決心し、彼は小さくうなずいた。
 するといつのまにかその守り神はいなくなり、その代り、彼の手の中にカギがあった。
 彼はそれをカギ穴に差し込み、ドアを開けた。

 突然、中から猛烈な光が差して来た。
 驚いた彼は一瞬、後へさがった。
 しかし彼は、思い切って中に入ることにした。

 そこは見たこともないような、気持ちの良い、美しい、そして、なつかしい場所だった。
 そして、デネブは死んだ…


 時が過ぎ、春になった。
 もちろん、デネブの船は故郷へ帰ることはなかった。
 人々は嘆き悲しんだ。
 ある者は彼が神の怒りに触れ、殺されてしまったと言い、またある者は海の彼方は滝のようになっており、そこへ落ちたのだと言った。

 また夏になり、夜空に白鳥座が美しく輝く季節になった。
 人々はその白鳥座を見て驚いた。
 そこには新星が現れていたのだ。
 その星を人々は、勇敢な天文学者だった彼の名にちなんで、「デネブ」と名付けた。

 彼の妻はその星を見つめながら、彼のことを思いだし、涙を流した。
 そして彼女は、まだ幼い息子に言った。
「お父さんはね、きっとあの星になったんだよ」
 
 時が過ぎ、また夏が来た。
 そしてある朝、彼の家の庭に一羽の白鳥が舞い降りた。
 長旅で疲れきっている様子だった。

 その白鳥は、三通の手紙を携えていた。
 その手紙は、妻と、息子と、そして、人々に宛てたものだった。

 そしてその手紙は、デネブが書いたものに違いなかった。
 守り神は一度死んだデネブを、白鳥に生まれ変わらせたのだった。
 その白鳥は、一年かけて守り神のもとで育てられた。

 そして前の晩、白鳥は三通の手紙を携え、生まれ育った星を飛び立ち、一晩かけて天の頂上から舞い降りて来たのだった。

 彼の妻と息子は、この白鳥が彼の生まれ変わりだと思い、デネブと名付けた。
 それから三人は幸せに暮らした。


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