ヒートヒッター2

文字数 2,789文字

 それから彼の叔父は続けた。
「それはともかく、最近はえらい活躍しとるじゃないか。しかしまあ、野球選手は体が資本だからな。大事にしないといけないよ。ええと、それじゃまずは採血をしてレントゲンを撮って、それが出来たら診察しようかな」

 それで採血と検尿とレントゲンを済ませた彼は、院長室の立派なソファーで出されたコーヒーを飲みながら、NHKの教育テレビでやっていた「働くおじさん」なんかを、大型液晶テレビで見ながら、優雅に診察の順番を待った。
 それからトイレに行った際、院内の散策もした。
 地下室の入り口もあったので、こっそり覗いたりもした。
 待合室でまじめに待っている人たちに悪い気もしたが、マスコミに何かかぎつけられるのもいやだし、〈まあいいか〉と、彼は思った。

 しばらくして採血の結果とレントゲン写真も出来上がり、彼は診察室に呼ばれた。
 午前中の外来患者の診察も終わり、彼の順番は最後になっていた。
 まあ彼は「院長室で優雅」だった訳で、文句も言えない。それに彼は叔父とゆっくり話をすることも出来た。

「熱はあるんですけど、ちっともきつくないんです。普通熱があると体がだるくって、とても野球どころじゃないですよね。節々も痛くなりますよね。食欲も無くなりますよね。だけど僕はそういうことがいっさいないんです。食欲も旺盛。以前より多く食べているくらいですから。熱にしたってサウナに入っているみたいに熱いだけで、それはかえって気持ち良いくらいなんですよ。それともうひとつ。熱が出て以来、まわりの様子が何か変なのです」

 彼は熱が出て以来、まわりの動きが遅くなったこと。その為ボールが良く見えて好成績を挙げたことなどを話した。普通に話すと早口になってしまうので、彼は極力ゆっくりと話すように心がけた。

 大方の話を聞き終えると叔父は彼を診察し、それからしゃべり始めた。叔父はいつも早口でしゃべる癖があり、少々聞き取りにくかった。
 だけどこのときの彼には、叔父の話は丁度良い速さに聞こえ、たいそう都合がよかった。

「親知らずは最近抜いたんだね。そのまわりが少し赤くなっている。喉の奥に赤い点々がある。首のリンパ腺もすこし腫れているぞ。胸の音はOKだ。レントゲン写真も異常なし」

 それから採血の結果を見ながら、
「検査結果からは、やはり細菌感染症が疑われるなあ。炎症反応があるし、白血球が増えている。特に好中球がね。発熱は、親知らずを抜いた時に細菌が入った事が原因かもしれないな」
「歯を抜いた傷口からですか?」
「そう。だけど、いくらなんでも熱が四十三度って事はないよなあ」
「ところで、細菌が体に入るとどうして熱が出るんですか?」

 自分が「博学」であると信じて疑わない彼の叔父は彼の質問に答えるべく、「細菌感染と発熱」という事をテーマに、突然雄弁にしゃべり始めた。

「えへん! そもそも『熱が出る』というのは、本当は体の防衛反応なんだよ。体の中に細菌が入ってきたときに、体は体温を上げるように反応するんだ。それに細菌の内部には『発熱物質』というものが含まれていることがあるんだんだ。そいつを白血球が認識すると白血球はいろんな物質を出す。それは体の中の情報を伝える物質でインターロイキンと言うんだ。それが脳の視床下部というところに作用する。そこには『体温中枢』というのがあってね。これが体温を『設定』する。エアコンの温度設定みたいなもんだよね。で、君の場合はその体温中枢が体温を四十三度に設定している訳だ。そして体温が高いほうが白血球自体は仕事がしやすく、同時に細菌たちにとっては『居心地が悪い』ことが多いんだ」
「へえ、そうなんですか。まあ、体温はわかったとして、じゃ、どうしてまわりの動きが遅く感じるのでしょうか?」

 それを聞いた叔父は、今度は「体温と時間感覚」というテーマの「講義」を始めた。
「えへん! あー、人間の時間感覚というのはだな、脳内の化学反応速度によって決まると言われているんだ。で、その化学反応は、温度が上がると速くなる。高校で化学の時間に習っただろう」
「寝てました」
「まあ君は野球の練習が忙しくて、それどころじゃなかっただろうけど。で、その化学反応が速くなるとどうなると思う?」
「僕の中で時間が速く進んでしまう…ですか?」
「正解! 君は速くなる。よく分かっているじゃん!」
「はぁ」
「それじゃあ、そんな君から見たら、まわりの様子はどうなると思う?」
「…」
「特殊相対性理論と同じで、反対に遅くなるんだよ」
「ととと特殊…」
「相対性理論。まあいい。正確に言うと、君には周りの世界が遅く感じられるということだ。これは僕が以前、本で読んだ話なんだが、あるクラシックの演奏家が風邪をひいて高熱が出た。そのときその演奏家は、いつもよりずっと速いペースで楽器を演奏してしまった」
「へえ、そうなんですか。それって今の僕とそっくりですねえ」
「まあ普通、熱があるときは頭がぼーっとして、それどころじゃないだろうけどね」
「ふつうはフラフラですもんね」
「だから君が四十三度も熱があるのに、平気でいられるのが不思議なんだよ」
「確かにかーっと熱いだけで、気分はそう悪くない。で、ナイターのときでも何だか炎天下の甲子園にいるみたいで、かえって気合いが入るんですよ」
「君が甲子園で活躍したときはもう大変な騒ぎだったからねえ。僕も診察どころじゃなかった。看護師さんも二,三人注射を間違えたし…」
「げ!」
「いや、いまのは冗談冗談。わっはっは。まあそれはさておき、今の君の病態は言わば、『細菌感染症における真夏の甲子園効果』ってとこかな」
「なるほど! で、原因は?」
「それが問題なんだ…」

 病気の名前だけは立派なものが付いたが、肝心の「病気の機序」についてはさすがの「博学」の彼の叔父も、まったくお手上げという感じだった。

 それから彼の叔父はしばらく考え込んでいた。
 そしてややあって、
「そう言えば癌の免疫療法剤で、これを注射すると一時的にかーっと高熱が出る奴があったぞ。あれを打ったときの熱の出方、というか、熱が出たときの感じは今の君の状態に少し似ているなあ。まあ、君の場合ほど極端じゃないけどね。あの薬は確か溶連菌という細菌を基に、その成分を抽出したものだったよなあ…」
「溶連菌って、どんな菌ですか?」
「口の中なんかにもいるような、ごくありふれた細菌だよ。歯を抜いたときなんかたまにその傷口から菌が入って、熱が出たりするんだ」
「あの、僕、最近歯を…」
「あっ、そうだったな。君は熱が出始める少し前に、親知らずを抜いてもらっていたな。だからこれはやっぱり溶連菌感染だよ。君の喉の奥からサンプルを採って、細菌培養に出そう。この続きは結果が出てからだ。ああ腹がへった。いっしょに昼飯でも食いに行こう。うまいラーメン屋があるんだ」

つづく

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