アクアラング細胞 中篇

文字数 4,051文字

 「一年も病院に来ないなんて、いけないなあ」
 なんて担当医に言われ、彼は頭をかいた。
 しかし自分を頼ってまた来てくれたことに、担当医は少し嬉しくもあった。
 早速、彼は胸のレントゲン検査を受けた。
 ところが出来上がった写真を見て、担当医は愕然とした。
 彼の右の肺の大部分に、例のスリガラスのような影が広がっていたのだ。

 彼が溺れた直後、胸のレントゲンで見られたあの影。
 担当医が軽い肺炎だろうと軽く考えた、あのスリガラスのような影だ。

 確かに最初、それはほんの僅かな影だった。
 だから担当医も、さして気に掛けることはなかった。
 彼もすっかり元気になったし、大した問題ではなかろうと思われていた。
 そしてそんなこんなで一年も放置されてしまったその影…

 だけど今さらそんなことはどうでもよい。
 とにかくこれはこれは重大な問題だ。

 それで彼はすぐに入院となり、詳しい検査を受けることとなった。
 まず、胸部CT検査が行なわれた。
 やはり撮影された画像には、彼の右肺全体に広がる異常な影がはっきりと写し出されていた。
 彼の右肺全体が、例のスリガラスのような影で置き換えられていたのだ。

 次に気管支鏡検査が行なわれた。
 気管支鏡は胃カメラを小さくしたような内視鏡で、口から気管を通って肺の中をのぞくもので、肺の細胞のサンプルを持って帰ることもできる。
 そのサンプルは大学の病理学教室へと送られ、顕微鏡で調べられた。

 数日後、検査の結果が出た。
 それによると彼の右の肺には異常な細胞が出現しているということが明らかになった。
 しかもその異常な細胞は、核の大きさ、形、細胞分裂の様子などから、肺癌と推定されたのである。

(水難事故から奇跡的に助かったというのに、何たる皮肉!)

 担当医は思った。実は彼は退院後、恋人と結婚していた。
 そしてもうしばらくすると、最初の子供が生まれる予定だったのに…

 しかし、それがどのようなタイプの肺癌であるかという点が、医師たちの間で問題となっていた。
 肺癌にはいくつかのタイプがある。また、そのタイプによって治療法も異なっていた。
 ところが彼の肺癌の細胞は、今まで知られていたどのタイプのものとも異なっていたのである。

 すなわち、「分類不能の肺癌」ということになってしまったのだ。

「ご主人が肺癌であるということは、残念ながら動かしようのない事実です。しかしそれがどのタイプの肺癌なのかが分からないのです。そのことについては現在調査中です」
「彼の肺癌は、進んでいるのですか?」
「残念ながら、右の肺は全て癌で置き換わっているようです」
「手術は出来ないのですか?」
「難しいと思いますね。右の肺を全部取るという大手術になってしまうのです。しかし手術が可能かどうかは、胸部外科の先生に相談してみましょう」
 
 それから彼の右肺を全て切除する手術が一週間後に予定された。
 非常に厳しい状況ではあったけれど、担当医も彼も彼の妻も、僅かでも助かる可能性があるのなら、それに懸けてみようと考えたのだ。

 そして手術の前日、確認のためもう一度、彼の胸のレントゲン検査が行われた。
 その写真を見ながら、手術の打ち合わせを行なう予定だったのだ。
 ところがその写真を見て、一同は落胆した。
 正常であるはずの彼の左肺の一部にも、あのスリガラスのような影が広がり始めていたのである。

「こいつは急速に進行している、物凄くアグレッシブな癌だ。右肺の全てと左肺の上半分を取らないといけないが、手術自体とても危険だし、仮に手術が成功したとしても、おそらくすぐに再発するだろう。俺は手術しないほうがいいと思うな」

 胸部外科医は彼のレントゲン写真を見ながら、とても残念そうにそう言った。

「手術は中止になりました」
「それじゃ彼は、手術も出来ないような状況だったのですね」
「残念ながら…」
 診察室に呼ばれ、担当医の説明を受けた彼の妻は、絶望した。

「それじゃもう彼は…、彼はもう長く生きることは、出来ないのですね」
「病気が急速に進行しているのです」
「せっかくあの水難事故を生き延びたのに…、せめて、せめてこの子が生まれるまでは、彼には生きていて欲しかったのに…」
「我々としても、これからやるだけのことはやるつもりです。それに、六時間も溺れていたのに、彼は助かったじゃないですか。だから、また奇跡が起こるかも知れませんよ…」

 だけど彼にその「奇跡」は、とても起こりそうにはなかった。
 彼の病状はどんどん悪化していったのだ。
 彼はじっとしていても息が苦しくなり、常に酸素吸入が必要だった。

 この間、担当医は抗癌剤投与や放射線治療を行なうことも検討していた。
 しかしそのような治療を行なうには、彼の病状はあまりにも悪かった。
 もはや酸素吸入と栄養剤の点滴以外に打つ手はなかったのだ。

 それから一カ月もすると、彼の両方の肺は例のすりガラスのような影で埋め尽くされていた。しかも彼の肺には水が溜まり、ほとんど空気が入る余地すら無くなっていたのだ。
 だから本当なら肺はまったく機能せず、いくら酸素を投与したところで生きていくことすら出来ない。
 そんな追いつめられた状況のはずだった。

 ところがこの頃を境に、彼の病状は改善し始めていた。

 依然として酸素吸入の必要はあったし、その上彼は話すことすら出来なかった。
 喋ろうとすると口から水が噴き出してしまうのである。
 それ程彼の肺には水がたまり、もはや彼の肺は「水浸し」の状態だったのだ。

 だから彼は筆談で回りの者との意志の疎通を行っていた。
 そんなある日、彼はいつもの筆談のボードに、こんなことを書いた。

〈この頃、あまり苦しくないんだ〉

「本当なの? 本当に苦しくないの?」
 ベッドの脇で彼の妻は聞き返した。

〈本当だよ。僕の病気はどんどん良くなっている〉

 彼の妻からその話を聞いた担当医は、肺癌末期の低酸素状態の時に起こり得る「錯乱状態」だろうと考えた。
 だが担当医が彼の病室を訪れ、いろいろと筆談で質問をしてみると、確かに彼は冷静に判断出来ているように思われた。

 実際、担当医が彼の血液中の酸素を調べてみると、確かに以前より良くなっていた。
 何より、彼は本当に息が苦しくなさそうに思われたのだ。

 それから数日後のある日、彼は筆談ボードにこんなことを書いた。

〈海に潜りたい!〉

 それを見た担当医は驚いた。
(末期の肺癌患者を海に潜らせるなんてとんでもない! やっぱり末期肺癌の錯乱状態だ!)
 もちろん担当医は、彼が海に潜ることを許可するはずもなかった。


「先生、ちょっと面白い物を見付けたのですよ」
 数日後、担当医の元を彼の肺癌の細胞を診断した大学の病理医が訪れていた。

「実は、彼の肺癌の細胞のことなのですが…」
「何か分かったのですか?」
「肺癌の中で小細胞癌、腺癌、偏平上皮癌、肺胞上皮癌など、いろいろと調べてみたのですが、どうしてもぴたりと所見が一致するものが無かったのです」
「そうみたいですね」
「それで、実は僕の弟が水産学部にいて魚類の研究をやっているのですが、先日たまたま弟が僕の研究室に来た時に、彼の肺癌の細胞の顕微鏡写真を見せたのです。そしたら弟が言うには、これは魚類の鰓(えら)の細胞にそっくりだと言うのです」
「鰓の細胞?」
「弟の話では、鰓の鰓弁というヒダ状の構造も見えるし、それは毛細血管に富んでいて、それから塩類細胞まで見えるというのです」
「鰓弁や毛細血管や塩類細胞?」
「私も専門外で詳しい事はわかりませんが、とにかくそれは鰓の構造にそっくりらしいのです。それで塩類細胞は海水魚の体内で塩分を調節する細胞で、そして毛細血管に富む鰓弁は水中でのガス交換が上手くいように出来た構造なのだそうです」
「毛細血管に富むから、水中でガス交換が上手くいく?」
「そうえす。そして、そもそもこの細胞は彼の肺の、肺胞表面を覆っていたと思われますが、それが突然変異を起こしたと考えられます」
「それは発癌のメカニズムの一つとされていますよね」
「そうです。そして弟が言うには、突然変異して癌化するときに、どういう訳か鰓の細胞の特徴を持ってしまったのではないかと…」
「そんなことがあり得るのですか?」
「もちろん癌細胞が鰓の細胞の機能を持つようになった、などという話は聞いたことがありませんが、細胞が癌化するときに、それまで持っていなかった機能を持つという事例は、決して珍しいことではないのです」
「そうか。例えば異常なホルモン分泌などはその例ですよね」
「ええ」
「と言うことは先生は、彼の肺癌の細胞が鰓の構造や機能を持ってもおかしくないと?」
「陸上の生物も元々は海で生活していたのだから、その頃は鰓呼吸をしていた訳です。だとすればDNAの中に鰓呼吸をしていた時代の何らかの記録が残っていたとしても、おかしくはないと思うのです。そして癌化するときにその記録が復活し、鰓の機能を持ってしまったとしても…」
「有り得ないことではないと」
「これは、一種の『先祖返り』ではないでしょうか?」
「つまり、癌化して肺としての機能は失ったものの、その代わりに『鰓』というの機能を手に入れた、と…」

 それから担当医はそのことを数日間考えた。

(彼の肺が鰓になった。そして鰓弁という毛細血管に富んだ構造によって、水中でのガス交換が…)

 担当医はずっとその考えに取り付かれていた。
 そしてある時、何かが閃いた。

(そうか! だから彼が海で溺れたとき、六時間も海水中で生存出来たのか!)

「外出を許可します! 海に泳ぎに行ってらっしゃい!」

 後編へ続きます。

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