寝覚めの一服
文字数 2,365文字
六十歳になった俺は気まぐれに健診を受けた。
いろんな検査が終わり、結果説明を待つ俺は待合室の長イスに座っていたが、検査中はタバコを吸うことを禁じられていたので、そろそろ落ち着かなくなっていた。
すると待合室の脇に喫煙室があり、俺は大きな換気扇の着いたその部屋に入ると椅子に座ってタバコに火をつけた。
すーっと、生き返った気がした。
今日も元気だタバコが旨い。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
それから喫煙室を出た俺は待合室の長椅子に戻り、雑誌を見ながら待っていると、程なく名前を呼ばれたので、俺は診察室に入った。
そこでは医者が少し深刻な顔をして俺に言った。
「腹部大動脈瘤ですね」
「何ですかそれは?」
「お腹の血管でいちばん太い、つまり『本管』とも言うべきもので、その血管は腹部大動脈というのですが、それの一部がコブのように膨らんでいるのです」
「そうすると?」
「庭に水を撒くホースに水圧を掛け続けていると、最後はどこかがコブのように膨らむことがあります。そしてそのまま放っておくと、いつかはドカンと破裂するかも知れません」
「すると私のお腹の中で血管が破裂する?」
「そうです」
「破裂すると?」
「あっという間に死にます。突然お腹に激痛が起こり、意識を失います。救急車に乗っても五十%の人は病院到着前に亡くなります。生きて病院に着いてもその五十%の人は手術台に乗る前に亡くなります。それで、最終的に助かるのは一割程度です」
「え!」
「ですから、これから専門の病院宛ての紹介状を書きますから、それを持って早速病院を受診してください」
「あの…私のお腹の血管は、必ず破裂するのですか? で、私、死ぬのですか?」
「専門の病院で動脈瘤の状態を詳しく調べて、破裂する可能性が高いなら手術になると思います」
「どんな手術?」
「普通は人工血管に取り換えると思います」
「で、それで一件落着なのですか?」
「そういう訳にはいきません。人工血管の中に血の塊が出来にくいような薬を飲み続けないといけないし、しかもその薬は血が固まりにくくなるものですから、怪我をしないように注意しなければいけませんし、脳出血でも起こせば重症になるリスクも高くなります。それからあなたの場合は血圧がとても高く、コレステロールも…ええと、従来コレステロールは高い低いで評価していましたが、最近は善玉コレステロールと悪玉コレステロールの比率で評価します。それで、あなたの場合善玉が大変少なく、その一方悪玉が多いです。ですから、これからはそういうことも治療していかなければなりません」
「それで、私はこれからどういうことに気を付ければいいですか?」
「もうタバコは吸えないでしょう」
「どうして?」
「タバコを吸うとニコチンの作用で一瞬にして末梢の、つまり体の隅々の血管が収縮します。これでは全身の血の巡りが悪くなり、それでも心臓は全身に血液を送ろうとして、いわゆる『フル稼働』をすることになりますが、それに際して一気に血圧が上がります。もちろんこのときあなたのお腹の中の動脈瘤はさらに膨らむことになりますし、少しずつ膨らんだ血管が裂けていくかも知れません。つまりタバコを吸うたびに動脈瘤破裂のカウントダウンが起こっていると心得てください」
「タバコ一服で破裂のカウントダウン…」
「そうです」
「ところで私の動脈瘤はどうして出来たのでしょう?」
「かなりの部分はタバコが原因と思います。先ほどもお話ししたようにタバコを吸うと一気に血圧が上がるからです。それと動脈硬化。これもかなりの部分はタバコが原因です。タバコはHDLという善玉コレステロールを減らします。善玉コレステロールは血管のお掃除をする役目をしているのですが、これが減少すれば血管が汚れていき、つまり動脈硬化が進みます。つまり血圧を上昇させ、動脈硬化も促進するのですから、タバコは最強の『動脈瘤製造機』と言えるでしょうね」
「それじゃもし私がタバコを吸っていなければ…」
「動脈瘤は出来ていなかったかもしれませんね。まあ、その可能性は大きいと思います。とにかく命が惜しかったらもうタバコはやめることです」
医者から説明を受けた後、俺は暗澹とした気持ちで診察室を出た。
それから受付で紹介状をもらい、しかしこれからの俺の運命を思うとめまいがするようで、腰が抜けそうで、それで俺は待合室の長椅子に、崩れるように座り込んだ。
(タバコさえ吸っていなければこんなことには…)
タバコは動くアクセサリー。
男ならタバコぐらい吸わなければ。
今日も元気だタバコが旨い…
(畜生!)
後悔先に立たず。そんな筈じゃなかった。
だけど自業自得。
俺はタバコの箱を握りつぶした。
と、そのとき、どこかでリーンとベルが鳴った。
電話?
火災報知機?
消火訓練?
だけど、どれも違った。
目覚まし時計だった。
俺は自分の部屋で寝ていて、目覚まし時計のベルが鳴ったのだった。
(何だ、夢だったのか。ああ良かった。俺は動脈瘤なんかじゃない!)
俺は安堵した。
それにしても不思議だった。
俺は今三十歳なのに、どうして六十歳で健診を受ける夢を見たのだろう?
しかも医者の説明がやけにリアルだった。
その医者は俺の知らないこといっぱいしゃべっていた。
動脈瘤の話…
これは遠い未来の正夢なのか?
神のお告げなのか?
しかし考えてみれば、俺はあと三十年、動脈瘤にはならないんだ♪
(まあいいか)
そう考えた俺は、ともあれ枕元にあったタバコを手に取り、口にくわえ、火をつけた。
(まあいいさ)
寝覚めの一服。
今日も元気だタバコが旨い。
いろんな検査が終わり、結果説明を待つ俺は待合室の長イスに座っていたが、検査中はタバコを吸うことを禁じられていたので、そろそろ落ち着かなくなっていた。
すると待合室の脇に喫煙室があり、俺は大きな換気扇の着いたその部屋に入ると椅子に座ってタバコに火をつけた。
すーっと、生き返った気がした。
今日も元気だタバコが旨い。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
それから喫煙室を出た俺は待合室の長椅子に戻り、雑誌を見ながら待っていると、程なく名前を呼ばれたので、俺は診察室に入った。
そこでは医者が少し深刻な顔をして俺に言った。
「腹部大動脈瘤ですね」
「何ですかそれは?」
「お腹の血管でいちばん太い、つまり『本管』とも言うべきもので、その血管は腹部大動脈というのですが、それの一部がコブのように膨らんでいるのです」
「そうすると?」
「庭に水を撒くホースに水圧を掛け続けていると、最後はどこかがコブのように膨らむことがあります。そしてそのまま放っておくと、いつかはドカンと破裂するかも知れません」
「すると私のお腹の中で血管が破裂する?」
「そうです」
「破裂すると?」
「あっという間に死にます。突然お腹に激痛が起こり、意識を失います。救急車に乗っても五十%の人は病院到着前に亡くなります。生きて病院に着いてもその五十%の人は手術台に乗る前に亡くなります。それで、最終的に助かるのは一割程度です」
「え!」
「ですから、これから専門の病院宛ての紹介状を書きますから、それを持って早速病院を受診してください」
「あの…私のお腹の血管は、必ず破裂するのですか? で、私、死ぬのですか?」
「専門の病院で動脈瘤の状態を詳しく調べて、破裂する可能性が高いなら手術になると思います」
「どんな手術?」
「普通は人工血管に取り換えると思います」
「で、それで一件落着なのですか?」
「そういう訳にはいきません。人工血管の中に血の塊が出来にくいような薬を飲み続けないといけないし、しかもその薬は血が固まりにくくなるものですから、怪我をしないように注意しなければいけませんし、脳出血でも起こせば重症になるリスクも高くなります。それからあなたの場合は血圧がとても高く、コレステロールも…ええと、従来コレステロールは高い低いで評価していましたが、最近は善玉コレステロールと悪玉コレステロールの比率で評価します。それで、あなたの場合善玉が大変少なく、その一方悪玉が多いです。ですから、これからはそういうことも治療していかなければなりません」
「それで、私はこれからどういうことに気を付ければいいですか?」
「もうタバコは吸えないでしょう」
「どうして?」
「タバコを吸うとニコチンの作用で一瞬にして末梢の、つまり体の隅々の血管が収縮します。これでは全身の血の巡りが悪くなり、それでも心臓は全身に血液を送ろうとして、いわゆる『フル稼働』をすることになりますが、それに際して一気に血圧が上がります。もちろんこのときあなたのお腹の中の動脈瘤はさらに膨らむことになりますし、少しずつ膨らんだ血管が裂けていくかも知れません。つまりタバコを吸うたびに動脈瘤破裂のカウントダウンが起こっていると心得てください」
「タバコ一服で破裂のカウントダウン…」
「そうです」
「ところで私の動脈瘤はどうして出来たのでしょう?」
「かなりの部分はタバコが原因と思います。先ほどもお話ししたようにタバコを吸うと一気に血圧が上がるからです。それと動脈硬化。これもかなりの部分はタバコが原因です。タバコはHDLという善玉コレステロールを減らします。善玉コレステロールは血管のお掃除をする役目をしているのですが、これが減少すれば血管が汚れていき、つまり動脈硬化が進みます。つまり血圧を上昇させ、動脈硬化も促進するのですから、タバコは最強の『動脈瘤製造機』と言えるでしょうね」
「それじゃもし私がタバコを吸っていなければ…」
「動脈瘤は出来ていなかったかもしれませんね。まあ、その可能性は大きいと思います。とにかく命が惜しかったらもうタバコはやめることです」
医者から説明を受けた後、俺は暗澹とした気持ちで診察室を出た。
それから受付で紹介状をもらい、しかしこれからの俺の運命を思うとめまいがするようで、腰が抜けそうで、それで俺は待合室の長椅子に、崩れるように座り込んだ。
(タバコさえ吸っていなければこんなことには…)
タバコは動くアクセサリー。
男ならタバコぐらい吸わなければ。
今日も元気だタバコが旨い…
(畜生!)
後悔先に立たず。そんな筈じゃなかった。
だけど自業自得。
俺はタバコの箱を握りつぶした。
と、そのとき、どこかでリーンとベルが鳴った。
電話?
火災報知機?
消火訓練?
だけど、どれも違った。
目覚まし時計だった。
俺は自分の部屋で寝ていて、目覚まし時計のベルが鳴ったのだった。
(何だ、夢だったのか。ああ良かった。俺は動脈瘤なんかじゃない!)
俺は安堵した。
それにしても不思議だった。
俺は今三十歳なのに、どうして六十歳で健診を受ける夢を見たのだろう?
しかも医者の説明がやけにリアルだった。
その医者は俺の知らないこといっぱいしゃべっていた。
動脈瘤の話…
これは遠い未来の正夢なのか?
神のお告げなのか?
しかし考えてみれば、俺はあと三十年、動脈瘤にはならないんだ♪
(まあいいか)
そう考えた俺は、ともあれ枕元にあったタバコを手に取り、口にくわえ、火をつけた。
(まあいいさ)
寝覚めの一服。
今日も元気だタバコが旨い。