秘匿の中(9)

文字数 5,002文字

 患者でごった返している病院内の様子を、なるべく目に入れないようにして廊下を進んでいった。怒声とも嘆きとも叫び声ともとれる声があちこちから聞こえる。岩盤崩落の影響がいまだに続いていた。患者数は増えることはあっても一向に減る気配がなかった。医者をはじめ病院職員は一睡もしていない者も多かった。誰の顔にも憔悴しきった色が見て取れた。
 マヒワはただ荷物を取りに来ただけだった。まだ数日はこの病院に所属している契約だったが、その残りの日数を今まで取り損ねていた有給休暇に当てていた。
 もう、あたしには関係ない、そう思いながら彼女は歩き続けた。彼女はもうすぐC地区にある病院に移籍することになっていた。その病院はこの中央病院より規模は小さいが患者数はほぼ差がない程度に多く、その割に医師の人数が少ない病院だった。だから彼女は好待遇の契約で招聘されることになった。
 その話は、元はと言えば情報委員長からの提案だった。情報委員は彼女がアントの構成員だという情報を掴んでいたようだった。そして最近婚約者ができたことや、アントの活動から少しずつ距離を取りはじめたことも。
 情報委員は正体を隠して根気よく、少しずつ少しずつ彼女と接触していった。だから元からマヒワは情報を流すつもりも裏切るつもりもまったく念頭になかった。しかし先月のアント一斉検挙の後、情報委員が彼女に正体を明かして更に接近してきた。そして自分たちに協力するか、捕縛されて愛する人と離れて暮らすことになるかの二者択一を彼女に強いた。もちろん彼女は仲間を裏切りたくなかった。しかし反社会勢力に属する者が捕まれば、けっして罪は軽くない。良くても自分が、すっかり愛する人にも社会にも忘れ去られるまで帰ってくることが出来ない。たいていは地下深く、深層牢獄と言われる凶悪犯罪者のるつぼで一生を過ごすことになる。
 アントの一斉検挙以来、検挙された構成員が拷問を受けた話を聞いたし、世間の反応もみた。情報委員がうまく誘導した世論ではあったが、そんなことなど分からない彼女はすっかり不安に苛まれてしまった。それで仕方なく彼女は委員長に直に会い、誰も殺さないことを条件として協力することに承諾した。
 それなのに、とマヒワは思う。自分が甘かった。ただ単に利用されただけ。こんなことなら自分が犠牲になればよかった・・・。そう思うと、周囲の患者の姿が気になってしょうがなくなった。それら患者たちの傷も自分のせいのように思えてくる。
 ああ、もう、と言いつつマヒワは振り返り、近くにいる重症らしく激しく呻いている患者のもとに早足で近づいた。
「状態は?」
 マヒワは側にいた看護師からの報告を聞きつつ、患部を診て、指示を出した。
「でもマヒワ先生、お辞めになられたんじゃないですか?許可なく外部の方の診察はちょっとマズイですよ。上に知れたら・・・」
 マヒワからの指示を聞き終わった看護師が言った。
「大丈夫よ。私はまだこの病院の医師だから。けっきょく私は最後の最後まで有給全部は使い切れそうにないわ」
 彼女は応急処置をしながら言った。けっきょく彼女は一段落するまで診察と応急処置を続けた。周囲を見渡して、もう大丈夫、と思った彼女は、患者や看護師からのお礼の言葉への対応もそこそこに、本来の目的である荷物の引き取りにバックヤードにある医師用の休憩室に向かった。
 そこにはカップやお菓子類などが置いてあった。お菓子をはじめ飲食物に関しては置いていくつもりだった。先だって他の医師たちに食べていいと言っておいたのですでにないかもしれない。でもカップはお気に入りだった。婚約者にプレゼントしてもらった思い出のカップだった。だから持って帰りたかった。
 休憩室に入った。いつ来ても清潔に保たれていた。それでもどこか薬品のにおいがこびりついている気がした。たぶん白衣に付着した薬品がここで少しずつ飛散して、長い時間を掛けて壁や天井や床に染み込んでいったのだろう。
 この場所でクマゲラやセキレイや他の医師たちとどれだけ語り合ったことだろう。医療に関わること以外は大した話はしていないが、それでもいろいろな思い出が湧き起こってきた。彼女は一抹の寂寥感を振り払いながら流し台の横の食器置き場に置いてあるカップを取りに行った。すると背後で勢いよく扉が開いて、うああああーという大きく漏れ出た声とともにクマゲラが室内に入ってきた。
「あ、マヒワいたのか。そういえばいろいろ手伝ってくれたらしな。お蔭でやっと一休み出来るよ。助かった」
 室内中央に置かれた、テーブルを囲うように設置されたソファーに腰掛けながらクマゲラは言った。マヒワは返答が出来なかった。振り返ることも出来なかった。二人の間に重い空気が流れた。
「セキレイが死んだらしいな」
 クマゲラが唐突に発した言葉に、マヒワはビクリと肩を震わせた。そしてゆっくり振り返った。二人の視線が重なった。クマゲラの目は鋭く責めている色に染まっていた。マヒワは視線を逸らした。聞きたくない名前だった。思い出すと苦悩に身をよじってしまいそうになる。自然と、彼女の防衛本能がその名前を脳裏の深い所に沈めていた。それが今、急に浮上した。
「なぜ、俺を置いていった。なぜ自分たちだけで行った。お前はそこにいたのか?」
 まさになじる声だった。胸が締めつけられて苦しい。かろうじて声を出す。
「あなたに言えば、止められるからよ。それにあなたはこの国に必要な人だわ。あなたがいなくなればこの病院は立ち行かなくなる。あたしたちと違って」
「バカを言うな」クマゲラのただでさえ大きな声が更に大きく響いて部屋にあるすべての物を震わせた。「お前たちは必要だ。いなくなれば悲しむ人や困る人が大勢いる。それなのに、何てことを・・・」
 肩を落とし、声を詰まらせたクマゲラを見てマヒワはすべてを告白したくなった。言う必要などなかったが、胸の内のモヤモヤとともにすべて吐き出したかった。もう耐えられなかった。こんな思いを抱えたままでは幸せになんてなれないと思った。
「私は、みんなを裏切った。情報委員にみんなのことを売ったのよ。サイテーでしょ」
 クマゲラは、きっと怒り狂うと思った。そうして欲しいと思った。思い切り口汚く罵ってほしいと思った。
「私はもう地上には行きたくない。ここで、この地下世界で慎ましやかに暮らしたいの。ただ普通に幸せに、穏やかに暮らしたいの。だからみんなを裏切った。私がセキレイやみんなを殺したみたいなものよ」
「見返りはなんだ?」案外と穏やかな声だった。
「私があなたたちに関わっていたことを不問に付すこと。私たちがアントに関わっていることは情報委員にはみんなバレバレだったの。それが公表されたら、私は困る。これからのささやかな幸せのためにみんなを裏切ったの。ただ自分のためだけにみんなを売ったのよ」
「セキレイは」絞り出すようにクマゲラは声を発した。「もう君をアントの活動には関わらせないつもりだって言ってたよ。君がアントの活動より婚約者との生活を大切に思っていることを、みんなよく分かっていたから。だから君に幸せになってほしいって、最近よくセキレイは言っていた。たぶん最後のつもりで今回の活動に誘ったんじゃないだろうか。それからセキレイもこの病院を辞めるつもりだって言っていた。アントの活動に専念するために。俺たちが夢見た世界の実現のために身を捧げるんだって、そう言ってた」
 彼らはアントと、基本的に後方支援的な協力関係を構築していた。モズとの関係上、クマゲラによって入手しやすいだろう治安部隊の情報と、彼らの医療の知識を提供することで、その活動を扶助していた。ただ途中から、セキレイだけはアントの思想に強く傾倒して、もっと前面での活動を望むようになっていた。特に先月の大々的な摘発の後は、更にその傾向を顕著にしていた。アトリ他数名による地上調査活動にも彼は志願した。しかし病院勤務の日程的に合わずに断念せざるを得なかった。だからセキレイは病院を辞めて活動に専念したがった。それをクマゲラがなんとか留めていた。だが今回は知ることすら出来なかった。何も気づかず、何も知らず、大切な仲間を死なせてしまった・・・。
「出口まで送っていくよ」クマゲラは力なく言った。マヒワは、えっ、としか答えられなかった。
「俺ももうすぐ捕まるだろう。もう君に会うこともないからな」そう言いながらクマゲラは立ち上がった。マヒワの答えも聞かずに部屋を出ていった。マヒワはただカップを握り締めていた。そして静かに部屋を出ていった。

 キビタキは病室にいた。すでに乾いてはいたが、べっとりと血痕がついた隊服を着たままベットに横たわっていた。
 身体中にコードが取り付けられ、頭にも脳波を測定する細い機器が取り付けられていた。
 唐突に目を開いたキビタキはおもむろに上体を起こし、身体中のコードや機器を取り払い、ベットから床に降りた。靴下は脱がされていて履いていない。リノリウムの冷たい床に直に足の裏をひたりとつけた。ベット脇には先ほどまで履いていた隊員用のブーツが置いてあったが、裸足のまま立ち上がった。室内には他にもベットに横臥しているケガ人が何人かおり、低い呻き声が重苦しく室内を漂っていた。キビタキはそのまま部屋を出て、患者や看護師の行き交う廊下を、躊躇うことなくどこかに歩いていった。

「あなたはこれからどうするの?逃げないの?」
 周囲を窺いながらマヒワが訊いた。クマゲラはあまり興味のなさそうな表情をしていた。
「どうするも何も、患者を残して逃げる訳にはいかんだろう。それに選ばれし方様も捕まってしまった。もう俺たちの希望は潰えてしまったんだ」
 病院の正面玄関の脇でマヒワは立ち止まった。
「選ばれし方様は逃亡したわよ」
 クマゲラも立ち止まり、周囲を警戒する素振りを見せた後、マヒワの顔を覗き込んだ。
「それは本当か?委員たちは警戒していただろうに、どうやって逃げ出したんだ?今、どこに?」
 クマゲラは全身の感覚を鋭くして、話の内容を聞き逃さないように、また周囲の人に話が漏れないように注意した。
「イカル君が助けたのよ。その後、ツグミちゃんと合流して、たぶん今、E地区にいるわ」
 クマゲラは目を見開いて驚いていた。イカルにしてもツグミにしても人と違う特殊な能力を有するとはいっても、まだまだ小さな子どもだと思っていた。それが、捕らわれの選ばれし方様の身を委員から奪還するとは。クマゲラは興奮のあまり声の大きさの制御を忘れた。
「本当に、選ばれし方様は生きてE地区にいるんだな」
 声を発すると同時に、すぐ横に何かの気配を感じた。クマゲラがそちらを見る間もなく、彼の脇をすっと治安部隊の隊服を着た大柄な男が通り過ぎ、出口に向かって歩いて行った。
 マヒワはその隊員の表情を前から見て、そしてクマゲラに向かって小さく首を振った。大丈夫、このひとは頭がおかしくなっているみたい、今の話は聞いてないわ、というように。
 クマゲラは、全身濃くシミの着いた隊服を身にまとい、おまけに足元は裸足のままのその若く見える隊員の様子を医師として危うく思った。
「ちょっと、君、どこに行くんだ?靴はどうした?」
 言いつつその後を追おうとした。
“クマゲラ先生、至急東棟四〇五号室にお越しください。クマゲラ先生、至急東棟四〇五号室にお越しください”
 アナウンスが唐突に聞こえた。瞬時にその病室にいる重症患者の容体が急変したのだろうことを察した。クマゲラは遠ざかっていく男を諦めざるを得なかった。まああの格好ならどこに行こうと治安部隊か委員に呼び止められるだろう、という思いもあった。そしてかろうじてマヒワにこれだけは言っておこうと視線を移した。
「マヒワ、俺はお前のことを絶対に許さない。でも、セキレイたちと同じようにお前に幸せになってほしいとも思っている。俺たちのことは忘れろ。もう二度と思い出すな。じゃ、さようならだ」
 マヒワは何か言いたそうに、でも何を言っていいのか分からないという表情をじっとクマゲラに向けていた。クマゲラはそのまま立ち去っていった。
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