思惑の中(8)

文字数 3,057文字

 どれだけ時間が経ったのか分からなかった。
 もう息をしていない母親の横で、クマゲラはただ座っていた。
 暗闇が迫っていた。夜の(とばり)が下りてきて、それにどっぷり包まれても彼は動かなかった。動こうという思考さえなかった。不思議と、母親がなぜ死んだのか、その原因がまたやってきて自分も襲われるのではないか、という考えも浮かばなかった。彼の脳裏の奥深くにいる何かが彼の思考を妨げていた。何も考えるな、何も思うな、そう必死に思考の湧出を抑えつけているようだった。
 やがて暗闇が晴れ、辺りが明るくなっても彼はそのまま、その姿勢のままでいた。何も感じられない。すべてが無に帰したような感覚。
 外で微かに音がした。誰かが走る足音。数人の人の足音。
 家の玄関は鍵が閉まっているはずだった。両親ともに用心深く、必ず家の出入りの際には、ほんの少しの間でも施錠する決まりになっていた。その鍵が閉まっている木製のドアを、誰かが蹴破る音が聞こえた。
 玄関は廊下を曲がった先にあった。その方向から抑えた声が聞こえた。
「おい、誰かいるか。いるんなら声を出せ。俺たちは治安部隊の者だ。助けにきたぞ。誰かいるか」
 少しの間、返答を待っているのか、静寂が辺りを包み込んだ。
「いないようだな」という声とともに数人の足音が今度は遠ざかっていった。
「ちょっと待たんか。ちゃんと中も確かめないか。声も出せない重病人が中にいるかもしれんだろ」
 あまり周囲に気を使っていなさそうな、抑えていない声のすぐ後に、家の中に人が踏み込んでくる音がした。
「おい、君、大丈夫か」
 白衣を着た初老の男が一人、廊下を曲がってクマゲラの姿を見つけた。その背の低い白衣の男は、すぐに彼に近づき、片ヒザを着いて手を差し伸べた。
 頬に手が触れた。彼は虚空に向けていた視線を移して、目の前の男を見た。男は手を引いて、脇に置いた黒い鞄を開けた。
 クマゲラは視線を目の前の男から、自分の足元にゆっくりと移した。そこには変わらずにその場にある、母親の姿。クマゲラの脳裏に思考が爆発したように一気に出現した。彼はただ叫ぶために口を大きく開けた。しかしその口から声は出なかった。声を上げる前に白衣の男が彼の腕に注射器を突き立てていた。
 そのまま彼は気を失った。

 次に目が覚めた時、彼はどこかの地下室にいた。会議室か何かだろうか。アイボリー色を基調としたリノリウムの床やきなり色の壁や天井に囲まれた、バスケットコートほどの空間が広がっていた。天井には電灯が並んでいたが、恐らくは意図的に、三分の二ほどは点いておらず、周囲はぼんやりと薄暗い印象だった。そんな空間に、四十人ほどの人たちがいた。そのどの目も淀んでいるように見えた。どの人も生気がなくただそこにいる、それだけの存在にしか見えなかった。
 空気が重く、酸素が薄い。彼がそう感じていると、横の方から声が聞こえた。
「ダメです。これ以上は危険をおかせません。ここももういっぱいですし、食料だって残り少ないのです」
「何を言っている。お前たちは住民を守るのが勤めだろう。こんな時にしり込みしてどうする。いかなきゃ助かる命も助からんだろう」
「生存者がいるかどうかも分からないのに、これ以上、兵士を危険にさらすわけにはいきません」
「生存者ならいたじゃろう。まだ、あのコのように助けを待っている民がきっといるはずじゃ」
「今回はたまたまです。またいつケガレが襲ってくるか分からない状況で、我々はケガレに対抗する術もないのです。これ以上は何と言われても無理です」
 背の高い治安部隊員が、腰が曲がった白衣の男と話していた。
「バカもんが、これじゃ何のために地下から戻ってきたのか分からんじゃないか」
 立ち去っていく兵士の背中に悪態を投げつけながら、白衣の男はふと横を向いた。その視線がクマゲラのそれと重なった。白衣の男が足早に、クマゲラの前まで歩いてきた。背が曲がってはいるが、意外と速く歩けるようだった。
「起きたか。どこか痛い所があるか?」
 クマゲラは首を小さく横に振った。
「じゃ、立て。俺を手伝え」
 白衣の男は自分のことを医師のカラカラだ、と言った。周囲の人たちはその白衣の男のことをドクターカラカラと呼んだり、ただドクターとだけ呼んだりした。彼はまだ親しくもないので、ドクターカラカラと呼んだ。
 それから彼は毎日、忙しく働いた。料理を作り、洗濯をし、掃除をした。この広間にはトイレが併設されていたが、そこにあるバケツで水を注ぎ、唯一、部屋の外に出るための扉を出て、地上に通じているのだろう階段の下で、調理をし、洗濯をした。調理と言っても、缶詰やインスタント食品を食べられるように皿に盛ったり、カセットコンロでお湯を沸かして温めるくらいだったが、それを部屋の中にいる全員分作り、配膳した。洗濯も、家族のいない身体の不自由な老人やケガ人や子どもの物は彼が洗った。汚れ物もあったが、カラカラは容赦なく彼に洗わせた。
 こんなことは今まで全部母親がやってくれていた、そう思い、気が落ち込むことが何度もあった。最初は自分が、気が狂ってしまうのではないかと思った。しかしその度ごとに、手の止まっている彼をカラカラが叱りつけた。罵倒と言っても差支えないほどの、激しい叱責だった。
 ある時、そんな叱責の後、カラカラが彼に訊いた。
「君が落ち込んで、お母さんは生き還るのかね?」
 彼はうつむいたまま首を横に振った。
「じゃ、やめることだ。大事なのは現実と未来だ。記憶は変えられないが希望は生み出せる。過去は変えられないが、未来は自分次第でどうにでもなる」
 そんなことは分かっている。自分だって好きで記憶を引きずり出して、過ぎたことに気を落ち込ませているわけではない。しかしあまりに彼の記憶の数々に母親の存在は大きく、きつく絡まっていた。どんなことをしていても、やがて母親の記憶にたどり着いてしまう。胸が苦しい。張り裂けそうだった。
「君がお母さんの死に直面した時、したいと思ったことはなんだ」
「・・・助けたい、と思った。・・・死なせたくないって思った」
「じゃ、そうできるようになりなさい。人を助けられるように、死なせないようになりなさい。それがお母さんのためだ」
 そんなある日、カラカラが彼を招き寄せた。カラカラはケガ人や病人を診察していた。深い裂傷を負った男の腕の包帯を解いて、彼に傷の具合を見せた。腹痛を訴える老婆の腹を、触診する様子を見させた。その他、いろいろな医療行為を彼に見せた。彼は訳が分からないまでも、ただ言われるがままに見て、聞いた。
「君は医者になりたまえ。そうしたら手っ取り早く人を助け、命を救うことができる。大丈夫だ。これから我らは新世界に行く。そこでみっちり教えてやる。覚悟しておけ」
 彼がここに来てから一週間も経った頃、突然、カラカラの通信器に連絡が入った。カラカラは部屋の隅に行って珍しく小声で話していた。
 通信が終わったようだった。するとすぐにカラカラは兵士たちのいる方へ歩いていった。しばらくして戻ってくるとカラカラは部屋にいる全員に向かって言った。
「これから新世界に行くぞ。お方様が作ってくださった、ケガレのいない世界だ。これからは怯えて暮らさなくてもよくなる。喜べ、すぐに荷物をまとめて、出発できるようにしておけ。誰一人として置いてはいかない。全員で行くぞ」
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