混迷の中(7)

文字数 3,631文字

「おいっ!この輪っかを外してくれ。このままだったらお前たちみんな死ぬぞ。俺が喰い止める。その間にお前たち逃げるんだ。だから早く外してくれ」
 タカシが、立ち上がろうと身体を動かすと拘束帯が締まって身体に食い込む。両上腕と胸を締め付けられて動けなくなる、息苦しくなる。
 ここにいる誰もが初めて会った人たちだった。それでも放っておく気にはならない。
 彼らはごく簡単に傷つき、あっけなく死んでいった。今までの生活も、思い出も、積み重ねた記憶も、未来への希望も、誰かと育んできた愛情も、大切な人たちへの思いも、何もなかったかのようにこの世から消滅していった。
 この人たちの喪失は、けっしてこの世界に良い結果をもたらしたりしないはず。そもそもこの人たちがこの世界そのものなんじゃないか?俺はこの人たちを守らないといけないんじゃないか?俺がしないといけないんじゃないか?タカシはそう思うより、そう感じていた。
「おいっ!早くこの輪っかを外せよ」すぐ横で震える手でHKIー500を構えながらホールを呆然と眺めている兵士に言った。
「バカ言うな。そんな事できるわけないだろう。そもそもそいつを締めた奴が認証するか、認証番号を入力するか、本部のシステムから解除しないと外せねえよ」
「くそ、役立たずめ」
 そう吐き出すように言いながら、彼はなるべく締めつけられないように、ゆっくりとではあったが、何とか立ち上がろうと身体を動かした。
「おい、動くな」横の兵士が言った。
 しかし現状では、その兵士が大して自分には興味がないだろうことを感じて、彼はあえてその言葉を無視した。
 手を使わず何とか立ち上がった。そしてゆっくりホールを目指して歩を進めた。横にいた兵士の声が聞こえた気がしたが、さらに無視した。
「撤退しろ!出口を目指せ!走れ!」
 さっき自分のえり首をつかんでここまで引きずってきた男の声が、騒音の中、わずかに聞こえた。
 ホール内での叫び声、うめき声、何かが崩れる音、落下して床に当たる音、爆発音、黒い霧の中で様々な音が錯綜していた。その喧騒に向かって、彼は歩を進めた。
 彼が、ホールに向かって進みはじめると同時に、廊下に幾筋かの黒い霧のかたまりが流れ込んできた。音もなく黒い円盤が彼らに向かって飛んできていた。そのうちの一つが破裂した。彼の横にいた兵士が発射した、エネルギー弾によるものだった。
 彼はその兵士を見た。震えながらHKIー500を構えて、ホールの方向を目を見開いた状態で凝視していた。その兵士に向かってホールから、瞬間的に黒犬が駆けてきた。その兵士は抵抗する間もなく、黒犬に喉を噛み切られた。鮮血が飛び散った。黒犬はその、すでに死亡しているだろう兵士の体内には侵入せずに、振り返って彼の姿を見た。その顔は、心なしか少し笑っているように見えた。
 次の瞬間、黒犬が飛んだ。彼に向かって鋭い牙を見せつつ襲い掛かった。彼は思わず目を閉じ、顔を背け、身体をよじって避けようとした。痛みを予想して身構えた。しかし痛みは、身体を締め付ける拘束帯が更に締めつけた分しか感じられなかった。
「あなたは慎重や用心という言葉の意味を知らないのかしら」
 聞いたことのある声が耳穴に響いて、彼は目を開いて振り返った。
 ナミがいた。
 身体の前に差し出した手のひらに黒い球体があったが、それが先ほど彼に襲い掛かろうとした黒犬のなれの果てだろうことは訊かなくても分かった。
「ナミ、待ってたよ。早くこの輪っかを外してくれ。動きにくいったらありゃしない」
 ナミは、あずき色のベレー帽をかぶり、光沢のある黒く、膝下まで伸びるマントを羽織って立っていた。マントの下には襟の広い軍服然とした上着とズボンそして黄ばみの欠片さえないように見える白いシャツに濃紺のネクタイを締めていた。
「先ず状況の説明をする気はないの?まったく、どれだけあたしがあなたを捜したと思っているのかしら」
 ナミは革製のブーツを履いていたが、足音も立てずに彼の背後に回り込んだ。
「いいから早く。後でゆっくり説明するから」
 ナミは彼の背後に立つと、彼の身体を締め付けている拘束帯の操作部分に向かって、手のひらをかざした。
 パキパキという音と共に、操作部分が歪んで渦を作り周囲の部位を巻き込んで凝縮していった。更に帯が締まり、彼は言い知れぬ痛みを両腕と肋骨に感じた。やばい骨が折れる、そう思った瞬間、彼を拘束していた帯の一部がバキンと砕けて周囲へ散らばった。彼はやっとの思いでその戒めから解放された。
 頭の先から指の先まで、あっちこっちに雑多な痛みが、身体中を走り回って騒がしかった。先ほど締め付けられて、痛みを耐えようと力んだせいか、額の傷からは更なる血流があふれ出していた。それでもかたわらで、瞳孔が全開した目と、今となっては声も出せない口を大きく開いている兵士の姿を見て、しばし目をきつく閉じ、歯を食いしばった。そして彼はホールに向かって歩き出した。
「なんだ、この世界は。荒みすぎだ。リサ、もうちょっと穏やかな世界にできなかったのか・・・いいさ、これも君の一部だって言うんなら受け止める。全身で、俺のすべてで受け止める」胸の中の思いが口から漏れ出していた。
 前に出す足が重い。痛みに耐え続けたせいか段々感覚が鈍くなっていた。泥沼から這い出たばかりのように不快な感覚に全身がおおわれていた。
「何が起こるか分からないわよ。慎重に。全方位に用心を怠らないように」
 彼の横に歩み寄ってナミが言った。彼は前を向いたまま進んだ。受け止めてやる、受け止めてやる、とつぶやきながら。
 彼らはホールの入り口に達した。内部を見渡す。彼が想像していた以上に混沌とした場景だった。必死の形相をして這うように逃げる兵士たち、歯を食いしばりエネルギー弾を放ち続ける兵士たち、恐怖にさいなまれ座り込んで叫び声を上げる兵士たち、そんな兵士たちを次々に狩っていくケガレの群れ、ケガレに捕らわれて絶命していく兵士たち、この狭い空間で無規則に蠢き合っていた。天井から崩れ落ちた大きな塊がそこかしこに転がっていた。小さな石や砂が間断なく降っていた。埃っぽい空気、黒い霧に淀んだ空気に満ちていた。
「全員退却、退却しろ!早く退却しろ!急げ」
 ノスリの叫ぶ声が淀んだ空気を震わせた。目を凝らすとホールの中心辺りでHKIー500を構えて敵を撃ち落としながら叫ぶノスリ他数名の姿があった。タカシはノスリのいる方向に進みはじめた。前方から一人の兵士が倒れこみながら駆けてきた。戦闘意欲のすべては削がれ、恐怖にむしばまれているという顔をして。
 その兵士がタカシの脇を走り抜けようとした時、黒犬が一陣の風のような速さでその兵士の背後に飛び掛かろうとした。タカシは右の拳をかたく握り、叫びながらその拳を黒犬に向かって突き出した。
 黒犬は一瞬にして霧散した。
 ホール内のすべてのケガレ、黒い霧がその刹那、動きを止めた。すべての黒き者が彼を見た。彼を認知した。ホール内の空気の質が一変した。重く、張りつめた空気になった。黒衣の者たちが口々につぶやいた。いた、見つけた、いた、見つけた。
 黒い者たちが一斉に動き出した。黒い円盤が、黒犬が次々に速度を上げつつ彼に向かって飛んできた。黒衣の者は音もなく彼に歩み寄ってきた。
「あなた、バカなの。慎重にしてって言ってるじゃない」
 そう言いながらナミは一歩前に進み出て、向かってくる円盤や黒犬を次々に球体にして、投げ捨てた。それでも無勢に多勢のため防ぎきれないものも出て、彼に襲い掛かってきた。彼は両手を前方に差し出し、右から左から上から下から飛んでくる円盤や黒犬を防ぎ、霧散させた。
 顔中を血だらけにした男と見知らぬ女が次々にケガレを撃退する姿を驚きの目でノスリは見つめた。信じられなかった。生身の人間が素手でケガレに対抗している。いやそれどころか駆除している、そんなことは彼の常識の範疇から著しく逸脱した行為だった。
 しかしノスリはすぐさま正気に戻った。ケガレは全部あの二人の方へ向かっている、今なら退却できる。この機を逃すまいとノスリは再び全兵士に向かって叫んだ。
「退却だ。今すぐこのホールから出ろ。少しでも動けるなら這ってでも退却しろ!急げ、退却だ」
 ホール内の兵士はノスリと同じように黒い者たちの包囲から今、自分たちが解放されていることを悟って、我先にと外に繋がる通路に向かった。走れる者は十人にも満たなかった。他の者は這いながら必死に出口を目指すか、まったく動けないかのどちらかだった。 
 ノスリを含め七人になっていたノスリ班の班員は、動けない兵士に手を貸しながら出口を目指した。自分たち全員が何とか脱出できるまで、タカシとナミが持ちこたえてくれることを祈りながら。
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