魂魄の中(1)

文字数 6,106文字

 極めて乳白色な空間。
 なめらかでまろやかな空間、彼はただ一人存在していた。
 自分の他には誰もいない。それどころか何もない。あるのはただ己の身体と乳白色。自分の身体から差しているはずの影さえ見当たらない。空気を揺らす風の欠片も感じられない。ただの静寂。
 意識が朦朧としていた。
 夢と現実の狭間に引かれた線上を歩いている、そんな至極あやふやな感覚。
 指を広げて手を伸ばす。指の先まではっきりと見える。目の前の乳白色はそこにある気もするし、はるか遠くにある気もする。
 試しに、抑え気味に声を出してみる。オーイッ。その声はどこにも跳ね返らず、どこにも響かず、すぐに乳白色の中に吸い込まれた。
 頭の中は、周囲の場景のせいなのか、ただ寝ぼけているだけなのか、著しく不鮮明で、現在の状況をうまく把握しきれていない。なぜ、どうやってここに来たのか、思い出せない。周囲の環境に早く馴染めるようにしばらく動かずたたずみながら、この場につながる記憶を手探りでたどっていく。
 眼前に長い髪の毛が見える。宙に舞っている。その下にある目は見開かれ、口は今にも何かを叫び出しそうな形をしていた。そして真っ直ぐに右手をこちらに伸ばしていた。その姿がゆっくりと離れていく。ぼやけていく。とっさに手を伸ばした。その右手をつかめるように、精一杯。
 一陣の風に吹き払われたかのように、一瞬にして頭の中のモヤが晴れた。
“リサは?”
 周囲を見回してみる。
 三百六十度すべて同じ色、同じ風景。行き先はおろか来た道さえも分からない。
 彼女の名を呼ぶ。くり返し何度も、何度も。その声に応えはない。それどころか何の気配も感じられない。ここがどこで、どこへ行ったらいいのか、その手掛かりを見つけられそうな予感さえ、微塵もない。
 また周囲を見渡してみる。やはり何もない。完全なる孤独。
 ここはたぶん、人が足を踏み入れてはいけない場所。ここに迷い込んだ者は二度と出られないのかもしれない。実際どこにも出口らしきものは見当たらない。
 どれだけ周囲を見渡してみても、いつまで経っても、色にも風景にも変化が生じる気配はない。
 耐えきれずに歩き出す。足元に固さは感じられない。地面を踏みしめているという実感が得られない。それでも足を前に出していくと、移動しているような気はした。
 前に進み、後ろに退き、右に行き、左に向かう。
 どれだけ歩いたことだろう。なんら場景が変化しないために距離も方向も時間も計る事が難しかった。これ以上、歩いたところで意味がない。次第にそう思えてきて、やがて立ち止まった。するとすぐさま胸の中にあった小さな黒いシミが徐々に広がっていく感覚を抱いた。
 不安、不快、恐怖、孤独。
 呼吸が荒くなっていく。いくら抑えつけようとあらがってみても否定的な思考ばかりが頭に浮かんでくる。
 二度とここから出られない。一生、このなんの変化も与えられない場所にいないといけない。もう誰にも会えない。彼女はここにはいない。彼女に二度と会うことができない。
 彼は、再び彼女を名を呼んだ。何度も、何度も。声の限りに。この空間のどこかに彼女がいればきっと聞こえるだろう音量で、叫ぶように。
 さっきまですぐ横にいた彼女。その笑顔の残像、柔らかい声の響き、ともに過ごした時間の残滓が、まだ彼の脳髄にはっきりと存在している。
 まぶたを閉じればそこに彼女がいる。パッチリとした眼を細くして、小さな口を大きく横に伸ばしつつ口角を上げて笑う彼女がいる。吸い込まれてしまいそうな澄んだ瞳をじっとこちらに向けて話を聴いている彼女がいる。
 胸の奥が圧迫される。息苦しい。どうしようもなく大切なものを見失った喪失感が焦りとともに体内に入り込んでむしばみはじめている。
 きっとそこら辺にいるはずだ。ただ自分の視覚がおかしくなっているだけかもしれない。本当は、見えていないだけで、手を伸ばせばすぐ触れられるくらい近くにいるのかもしれない。そう思うとすぐに彼女の名を呼びながら、腰を低くして手探りしてみた。何も触れる感触がない。彼女どころか地面に触れる感覚さえない。それでもやめずに周囲をくまなく捜していた。
「処理が進まない原因はあなたね」
 下を向いていた彼の視界の外から突然、声が聞こえた。
 目を上げると正面の少し先に女性が立っていた。全身をダークスーツに包み、一本の妥協もなく少し茶色がかった髪をきれいに後ろで束ねている。前髪は左側の生え際で分けられ、その下にはフレームもレンズ部分も細い眼鏡が掛けられていた。レンズの奥から伸びる視線は、手に持っているファイルに向けられていた。
「ナギセタカシ、ここはあなたが来ていい場所ではない。すぐに退去しなさい」
 髪の色以上に茶色がかった女性の瞳が彼に向けられた。それはあまりに無表情な瞳。情動の一切を映していない瞳がそこにはあった。
 目の前の動く存在が目に染みた。
 自分のあらゆる感覚が正常に作動していることに安心した。この世界で自分が確かに生きていることを確認できる唯一の存在にすがりつきたい思いだった。
「ここはいったいどこなんだ?」
 目の前の女性が頭を横に、軽く傾けた。
「あなたは自分の意思でここに来たんじゃないの。それなのにここがどこか分からないの?」
 自分の意思?思い出そうと努力する必要もなく、彼はこんな場所に来ようと思ったことはない。
「分からない」
 また、女性が頭を傾けた。
「とにかく、あなたはここにいるべきではないの。すぐに出ていって」
「どうすれば出られるんだ。ここにはどこにも出入り口ないようだけど」
 感情の色の見えない空虚な視線を浴びながら、彼は改めて目の前の女性の姿を繁々と眺めてみた。
 ハーフだろうか?肌も目も髪も色が薄く、はっきりとした目鼻立ちをしている。しかし生粋の日本人であると言われればそうも見えるし、欧米人だと言われればそうも見える。年齢も若いと言われればそうも見えるし、自分より上だと言われればそうにも見える。全体的にすごくあいまいな印象。しかしこれだけの濃霧の中でも一切ぼやけることなくはっきりくっきりとその姿が見える。強い違和感、まるで何かの映像が投影されているかのよう。そしてその女性は誰もが認める類の整った顔立ちを有していた。
「まったく、あなたは後先考えずにこの魂に飛び込んできたみたいね」
「魂?」彼は怪訝な表情を浮かべずにはいられなかった。
「そう魂よ。正確に言うとその核になる部分。あなたは現状この魂の核に迷い込んでしまったのよ」
「どうやってそんなことが」
「それは私にも分からないわ。何かの偶発的な手違いや故意に呪なんかによって発生する可能性もない訳ではないけれど。とにかく極々珍しいケースであることは確かね」
 不明瞭な周囲の場景と、その中で唯一鮮明な像を結ぶ目の前の女性、そして理解しづらい話、何がどうなっているのか一向に分からない。
「助けてほしい」目の前には情の薄そうな女性しかいなかったが、彼が今、できることといえばすがりつくことくらいだった。
「ここを出ていきたい。それと人を捜している。僕の大切な人なんだ。さっきまでそばにいたんだ。近くにいるはずなんだ。でも姿が見えないんだ」
「あなたの大切な人ってこのコでしょ」そう言いながら女性は開いたファイルの中身を彼に見せた。ファイルにはリサの経歴がぎっしり書き込まれ、クリップで写真が一枚留めてあった。
「あなたは、いったい誰なんだ?なぜ彼女のことを知っている?彼女は今どこにいる?」
 彼は更に、怪訝な表情をあからさまに顔に出していた。
「このコはもう死ぬわ。諦めなさい」無表情のまま、その女性は言った。声も視線と同じくあくまで事務的で感情の欠片もない。
「何を、言っている?」
 とまどいを乗せた声を、困惑にいろどった視線とともに女性に向けた。女性からは相変わらず体温の感じられない至極無感情な、非現実的にも見える視線がまばきもなく返されていた。
 女性は、ゆっくりと、今までの彼の質問に、一つ一つ答えはじめた。
「私は霊魂。私は山崎リサが間もなく死ぬと言った。私は山崎リサの魂を次の命に送る任を負っている。だから山崎リサのことを知っている。そして山崎リサはここにいる」
 書いてある文章をただ読み上げているといった口調だった。まるで、お手元の資料をご覧いただければ一目瞭然ですが一応読み上げさせていただきます、といった口調だった。
 彼は二の句が継げなかった。しかし周りが不明瞭なこの状況では、継がなければ先に進めない気がする。はっきりとしているのはこの女性の存在だけだったから。
 彼は一息長く吐いてから立ち上がった。極力冷静さを装った。そして姿勢を正しながら女性と正対し、慎重に言葉を選別しながら口を開いた。
「すまない。あなたの言っていることをよく理解できていない。ただ、リサに会いたい。なんでも指示通りに従う。だから会わせてほしい。彼女の居場所を教えてくれないか」
 女性の視線も姿勢も微動だにしなかったが、何か考え事でもしていたのか、少しだけ間が空いた。
 それは、ほんの少しの間だったが彼にはひどく長い時間に感じられた。しかし、じっと待つしかなかった。待ちながら彼は少し怖くなった。もし急に目の前の女性が消えてしまったら、そう思うとその間がとてつもなくもどかしく感じられた。
 一瞬、その女性がまばたいた。そして静かに手に持ったファイルを右の脇に抱えると左手を上げて、自分の顔の前に差し出した。
 その刹那、瞬間的に周囲の乳白色が彼女の手のひらに集まった。まるで何かの爆発シーンを高速で逆回転したかのように瞬時に一点に凝縮した。
 周囲は暗黒に包まれていた。何もない。足元に踏むべき何ものも見出せない。平衡感覚は業務に混乱をきたし、どこをより所として立てばいいのかとまどった。
 しばらくなんとか転ばないようにバランスをとっていたが、やがて抵抗をやめて普通に身体を伸ばせば自然に立っていられる、というより、あまり浮遊感はないが、浮かんでいられるようになった。
「見て」彼の動きが落ち着くのを待って女性は言った。
 彼女の左の手のひらには白い球状のものがあった。完全なる暗闇の中、見えるものはその白い球状のものと女性と自分の身体だけだったが、その白い球状のものはひときわ、明るく柔らかく温かな光を放っていた。
「これは山崎リサの魂。さっきまで私たちはこの魂の中にいたのよ」
“リサの魂?”
「すまない。分かるように説明してほしい」
 彼は理解したかった。この不確かな世界のことを。そして自分がどうするべきか判断したかった。
「あなたたちは事故にあった。それは覚えているわね。その事故で十二人の人が死ぬわ。山崎リサはそのうちの一人。あなたは生きながらえるわ」
 彼の胸がざわついた。事故に遭ったのだろうことは覚えている。ただ、一瞬の出来事だったので、生死に関わることだという認識は、たった今まで頭によぎることさえなかった。
 彼の脳裏に記憶の断片が色濃く浮かび上がってきた。
 リサと二人でバスに乗っている。高速道路を走る大型の長距離バス。ちょうど中ほどの二人掛けの席に並んで座っている。窓側に座ったリサの微笑んだ顔。座りなおそうとしてシートベルトを外した。次の瞬間、凄まじい衝撃がそのバスに乗っていたすべての人に襲いかかった。
 身体が宙に浮いていた。彼女を見た。とっさに名前を呼んだ。彼女はあまりの驚きに一瞬固く目を閉じたが、すぐに開いてこっちを見た。そして手を伸ばそうとした。彼女の背後の窓ガラスが割れた。窓の外の風景が瞬間的に移り変わった。
 彼は彼女に向けて右手を伸ばした。彼女の右手首をつかんだ。同時に彼女も彼の手首をつかんだ。そして、二人の意識が、どこかに飛んだ。
「あなた、よっぽど山崎リサのことが心配だったみたいね。現実では意識をなくした状態だったからって、その意識を飛ばして、彼女を捜してこの魂にたどり着いたみたい。とても珍しい状況だわ。普通なら他人の魂の中には入り込めないものだけど、あなたたちには何か特別な繋がりがあったのかしら」
 その女性はまたゆっくりとまばたきをした。何かを物語るかのようなまばたきだった。
「でも諦めなさい。もう山崎リサは死ぬの。あなたは自分の身体に戻って覚醒しなさい」
 目の前の女性は白球から手を離した。白球はその場で静かにただよっていた。女性は手に持っていたファイルを肩越しに背後に投げた。投げた瞬間、ファイルは消えた。女性は白球をさけながら彼の方へ歩み寄ってきた。
 彼の冷静さは、状況の不明確さへの困惑と女性の言葉を信じたくない思いにさいなまれつつあった。
「リサが死ぬなんて、信じられない。何か助ける方法は?僕にできることがあるのなら言ってほしい。お願いだ、助けてくれ」
 彼はそれほど饒舌な方ではないが、しゃべること以外、現状を打破する手段が見出せない。必要なら懇願することさえいとわない。
「そうね。これを身体に戻すことができれば、山崎リサは再び目覚めるわ」
 女性は振り向いて、白球を見ながらつぶやいた。
 彼はその言葉に希望を見出した。そういう顔つきをして女性を見た。
「でも、それは私の範疇の外のこと。私は死ぬ予定の人の魂を決まった通りに送り出すだけ」
「死人の魂を送る?それはあなたが死神だということなのか?」
 女性の眉間に一瞬シワが寄ったような気がした。
「あなたたちの概念ではそう呼ばれているわね。でも私はその呼び方が嫌い。まるで悪役のようだわ。私たちはけっして悪いことをしている訳ではない。逆に感謝されてしかるべき立場の存在よ」
 死神と呼ばれた女性は淡々とだが、けっしてそれ以上、その呼び方をするな、という声音を発していた。
「あなたがここにいると私の仕事に支障があるの。だからそろそろ自分の身体に戻ってもらうわよ。認めたくないかもしれないけど山崎リサが死ぬのは自然の定めにのっとった決定事項なの。諦めるしかないのよ」
 ちょっと待ってくれ、そう言いながら彼は左手を開いて身体の前に差し出した。その手首を女性がつかんだ。そしてそのまま頭上へと浮遊した。待ってくれ、ここから追い出そうとしないでくれ、彼は懸命に抵抗しようとした。しかし自分の左手首にあらがえない力が込められていた。身体をひねってみても、振りほどこうとしても、その手は、その力は微動だにする気配すらみせなかった。
「あなたが帰るべき、あなたの身体はここを出たらすぐに見つけてあげる。あなたは現実世界で覚醒して、残された人生を生きなければならないのよ」
 女性は彼の顔を見ることもなく、表情を変えることもなく、つぶやくように言った。そして前を向いたまま移動を続けた。しかし次の瞬間、急に顔つきが変わった。
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