深層の中(10)

文字数 6,037文字

「我が言の葉に寄り給える御霊の力により、我が唱えし(ことば)(なんじ)らの現実(うつつ)と成る。汝らは、この処に来たりしケガレより、我々を守れ。ケガレたちの一切がこの室屋に寄り来たらぬようにせよ。すべてのケガレを粉砕、霧散させよ。汝らは、この言葉にあらがうことなく、現実にせよ」
 先ほど命じて動きを止めていた、黒衣の者に憑依された看守たちに向かって言霊を掛けた。言い終わって、ルイス・バーネットはヒザが急に折れ曲がって座り込んでしまいそうになった。とっさに足に力を込め、壁に手をついて体勢を戻したが、自分の予想より霊力の消費が激しかった。現在残っている霊力では、タカシを連れて一気に彼の魂のもとまで戻るのは無理に思えた。とにかく、この世界から抜け出さなければ。とりあえず抜け出せればいい。いったん山崎リサの魂の核まで移動して、霊力の回復を待ってから彼の魂まで行けばいい。
 黒犬も看守も変わらぬ体勢のまま低くうめいている。自分の発した命令の効力が切れればケガレたちは、彼らを守るために反転してこれからくるケガレたちと対抗しようとするだろう。少しの時間が稼げる。その間にこの世界から脱しなければならない。そう思うと、重い身体を引きずりながら廊下から独居房の中に戻っていった。
「凪瀬タカシ、今すぐ君のいるべき場所に戻ろう。もう時間はない。ためらっている余裕はない。さあ、行くよ。手を出して、さあ」
 タカシは先ほどと同じところに座り込んだままだった。現状、恐ろしくはあったが、逃げようにもどこにも逃げる場所などなく、自分にこの苦境に対抗する手立てもない。どうしようもない。何が起きたとしても仕方がない。状況を甘んじて受け入れるしか術はない、そんな諦観が全身をおおっていた。
 彼は自分に差し出されている男の手を見つめた。実際、それは現在の唯一の救いのはずだった。その手をつかんでこの世界から逃げることができれば、自分を損なう恐れを味わうこともなくなる・・・。

 ツグミが走り出した。ヘラサギもカワウも遅れないようにそのすぐ後ろにつづいた。
 二人ともツグミより足が速かったので、ついて行くのは楽だった。しかし目まぐるしく状況が変化する今日という日に思考が追いついていなかった。ただ自分の勤めをまっとうすることだけに集中するしかなかった。とにかく今はツグミに従って動くことだけに集中した。
 普段、通路をさえぎっている扉はすべて開け放たれていた。通路はほぼ一直線に奥へとつづく。たまに短い横道があったが、基本、一本道だった。迷いようがなかった。
 ツグミは少しの間、ケガレの姿を視認することはできなかった。ただ通路の奥が真っ黒に染まっていることだけは分かった。やがて進む内にそれがケガレの濃密な群れであることを確認した。その群れの奥からはHKIー500の発するエネルギー弾の破裂音が聞こえてきた。
 通路半ばに達する頃にはケガレの群れは目前だった。ケガレはみな通路奥に意識を集中しているようで、一匹たりとも彼らの進行に気づいたものはいないようだった。
「エネルギーの充填は済んでる?」
 ツグミが走りながら訊いた。班員たちは短く、はい、とだけ答えた。
 現状、選ばれし方様を取り巻く状況が不明な点もあり、この通路入り口での抑えがいつまでもつかも分からない状況でもあり、時間を掛ける余裕はわずかにもない。ツグミは自分の中のイカルに訊くまでもなく、ここは突撃をするしかないと思っていた。ケガレたちがこちらに意識を向けていない現状でなるべく打撃を加えないと、そう思ったツグミは上着のポケットからエネルギー弾のバッテリーを取り出し、より腕力のありそうなカワウに渡して言った。
「それをケガレたちに向かって思い切り投げて」
 カワウは指示された通りに思い切り振りかぶって、バッテリーをケガレたちに向かって投げつけた。
「あのバッテリーを狙って撃って」
 ヘラサギとツグミは空中を飛ぶバッテリ―に向かって発砲した。ツグミの放った弾はあまり惜しくない方向へと飛んでいったが、もともと射撃の腕が確かなヘラサギの放った弾は、ケガレたちの間に飛び込んだバッテリーに命中して、大きな爆発を誘発させた。
 バッテリー内には大容量のエネルギーが凝縮して充填されていた。それが一気に爆発したため、三人ともに爆風で飛ばされた。それほど大きな爆発が起きた。ツグミはすぐに立ち上がり、前方を見詰めた。天井や壁が一部崩れ、粉塵が通路中に舞っていた。ツグミが思っていたよりも大きな爆発だったが、何とか通路の崩落は免れて、先が見渡せた。
「突撃するわよ」
 腹の底から声を発してツグミは駆け出した。ヘラサギとカワウも後につづいた。
 爆発箇所のがれきを飛び越して先に進む。狙い通りかなりの数のケガレを消滅させることができたようだった。しかしそれでも視線の先にはまだうごめいている黒い群れが見出された。その手前側は彼女たちの方向へ意識を向けていた。警戒心をむき出しにして彼女たちに襲い掛かるタイミングを計っているようだった。
 ツグミを先頭に、残る二人が追い掛ける形で発砲しながら進んだ。やがて黒犬や円盤が彼女たちに襲い掛かってきた。それは、とても狂暴に。
 しかしツグミもひるむ気は一切なかった。力ずくでこの群れを突破するつもりだった。個別に狙いをつけずに群れの中に向かって発砲する。充填している間に後ろの二人が向かってくるケガレを撃ち砕いた。
 黒犬が次々に襲い掛かってくる。牙をむき出して飛び掛かってくる。ツグミは殴り、蹴り上げ、速度をなるべく落とさないように駆けつづけた。何度か黒犬に噛みつかれた。血が噴き出した。しかし黒犬は彼女の体内には入れなかった。円盤も同じだった。その寸前に粉砕された。後ろの二人がよく彼女を守っていた。
 後ろの二人はあまりにツグミが襲われつづけるので、発砲では間に合わなくなった。ツグミを助けようとHKIー500の銃身で黒犬や円盤を殴りつけるのに忙しかった。
 そのうち通路の先で立て続けにエネルギー弾の破裂音が聞こえてきた。どうやらケガレに抵抗している勢力がまだ生存しいているようだった。ツグミはそれに気を強くしてさらに進撃しようとした。そのとたんに、後方で叫び声がした。
「ヘラサギ!」
 カワウの声が聞こえる。ツグミはとっさに振り返った。ヘラサギが喉元を黒犬に噛みつかれていた。カワウがあわててHKI―500の銃床で黒犬を床に叩き落とした。その黒犬はよろよろと起き上がったが、ツグミの繰り出した腹部への蹴りで消滅した。
 ヘラサギは喉を手で押さえてうめいている。指の間からは血が流れ出している。
「カワウ、ヘラサギを連れて退却して」
 ツグミはケガレたちに警戒しつつ言った。
「副官は?一緒に退却しましょう」
 カワウの提案をツグミはあえて無視した。
「早く行きなさい。指揮官命令よ!」
 ツグミの強い口調にカワウは従うしかなかった。短く、小さく返答して、ヘラサギの脇を抱えて、その足を引きずりながら来た道を戻っていった。
 また一人になっちゃったわね、そう思いつつも、もはやそれをあまり苦痛に思わないのは、それに慣れてしまったからか、心の中にいるイカルの存在のお蔭なのか、おそらくその両方なのだろうと彼女はひとりごちた。
 前方の破裂音がますます激しくつづいて起きていた。その味方たちが倒れる前にここを突破しないと、そう思いツグミは再び突撃した。
 通路奥にいる味方のお蔭か、ケガレたちの群れの層はかなり薄くなっているように感じられた。もはや彼女に襲い掛かってくるケガレも単発になっていたので、対応するのがかなり楽になっていた。
 あともう少し、やがて彼女の前にいるケガレたちは相当その数を減らし、奥に味方の姿が見えるようになった。
 全身に黒犬をぶら下げている看守たちの姿がそこにはあった。腕がない者、下あごがない者、内臓が外にはみ出している者がいた。その看守たちはそんな姿にも関わらずまったくの無表情だった。ただ黙々とケガレを駆除しているようだった。
 ツグミは思わずぞっとした。それが人間ではないことは確かだった。姿は人間でも中身はケガレに憑依されているに違いなかった。それなのに、ケガレを駆除している。彼女は状況を呑み込むことができなかった。できはしなかったが、この状況に乗っかるより今はもう手がなかった。
 ツグミも看守たちも、ひたすらにケガレを駆除しつづけた。看守たちは一人また一人と身体をもぎ取られて行動不能に追い込まれていった。しかしケガレも残り数えるほどだった。

 タカシは腕を上げた。その手をルイス・バーネットの方へ差し出しかけた。しかしその手は途中で止まった。二人の手は空しく宙に浮いたままになった。
「何をしている。君は死にたいのか?君には栄光に満ちた未来が待っているんだ。こんな所でみすみす命を損なうことはない。創造主にいただいた命を粗末に扱うなど、主に対する許されざる冒瀆である。何もためらうことなどない。さあ、行こう」
 ルイス・バーネットは彼の手を取るために近づいた。その瞬間、タカシは手を引いた。ルイス・バーネットの手は再び空しく宙に浮いていた。
“なぜためらう。何が、彼に、躊躇をさせている。・・・山崎リサなのか。彼女との繋がりがそうさせるのか。・・・そんなはずはない。私の言霊は完全にその繋がりを劣化させ、腐食させ、断ち切ったはずだ。そうさ、ためらいが生じるはずがない。この世界に未練など残っているはずがない。ただ彼は無気力になっているだけだ。この場を動くのがおっくうなだけなんだ。少し強引に手を取れば後は自然の流れでこの世界から脱することができる”
「さあ、人は行くべきところに行き、帰るべき場所に帰らなければならないのです。怠慢は重大な罪なのですよ。君は手を伸ばせばいい。それだけで穏やかな時間の流れる安寧な世界に戻れるのです。さあ、手を伸ばして」
 ルイス・バーネットは更に一歩、タカシに向かって歩を進めた。
 タカシの脳内では様々な葛藤がくり広げられていた。
 ごく表層の部分では、リサとリサの生み出したこの世界に対する憎悪が渦巻いていた。今まで自分が感じていた、これ以上ないくらいの強い思い、それにより様々に形作られ、華々しく彩られた思い出が、まったく意味を失い、無に帰したことへの虚しさを感じていた。虚しさはやがて何もない寂しさへと色を変え、寂しさはただの悲しみへと形を変えた。一切が、ただ、ただ、無意味でしかない。リサが存在しなければ、自分が存在していた現実世界に求めるものは何もない。でも、ここにいるよりはいい。ただ生きるだけでもこの世界はつらすぎる。この世界にいると、言い知れぬ虚しさや寂しさや悲しみを自分に与えるこの世界に対する憎悪が、たまらなく胸の中で渦巻いて耐えきれない。
 自分のとても深い部分から、イメージが浮かんできた。
 茫漠とした荒野の上空をただようように飛ぶ一羽の鳥。空は厚く低い雲におおわれている。風はなく、飛びつづけるためには羽ばたきつづけないといけない。眼下には降り立つべき寄る辺もなく、身体を休められる場所も見当たらない。お腹を満たす獲物の影もなく、渇きを癒す水の匂いもしない。なぜ自分はこんな所にいるのだろう。ここは荒れ果てた土地。違和感をもたらすのは土地でも空でもなく、おそらく自分。
 ここにいてはいけない。早く帰らないといけない。彼はルイス・バーネットの方へ右手を差し出しかけた。その時、手首の白いアザが目に入った。ほの白く光っているように見えた。
 飛んでいる方向のずっと先の彼方に、ごく小さく、ポツンと立つ木の姿が現れた。自分を迎え入れてくれる、とまり木なのだろうか。わずかながら希望と期待と安堵が胸の中に顔を出した。そしてそれぞれがない交ぜになって視界が少し明るくなった気がした。あの木を近くで見てみたい。自分がこの世界に存在する意味もそこに行けば分かる気がした。
 タカシの右手が止まった。自分の深い部分がこの世界を出ることをためらっている。いったん出てしまえばもう二度とこの世界には戻ってこれない気がする。自分の何より求めるべきものが目の前にあるのに、自分はそれに気づいていない、そんなもどかしさを感じる。
 頭と心が葛藤している。どちらの意見を採用すればいいのか、分からない。ただ、いるだけで苦痛を感じてしまう、そんな世界ではあったが、このまま離れてしまうのはためらわれた。刺さった大きなとげを抜いてしまいたい気はあるが、抜いたらそこから大量の血があふれてきそう、そんな予感がおぼろげにしていた。
 なぜ、ためらう。ここまでくると好きとか嫌いとかの次元じゃない。まるで一体化しているかのような繋がりだ。いったいぜんたい尋常ではない。私の言霊でも断つことができない繋がりとは。ルイス・バーネットはそう驚嘆した。
 なぜ、どういうことだ?この二人に何があったのだろうか?送り霊である彼としては調べればタカシのことはおおよそ何でも分かる。しかしここまでの事態はタカシ個人のことであるとも思えなかった。もっと深い繋がり、魂レベルの何らかの繋がりかも知れない。それはあり得ないことではなかったが、はっきりと確信できる事案を想像することは難しかった。彼の胸中で好奇心が渦巻いた。こんな人知を超えたレベルの繋がりは、いったいどうやって構築されたのだろうか?
 そんなことを考えていると通路から人の気配が感じられた。ケガレに乗っ取られた看守たちではない。確かにそれ以外の人の気配だった。こちらに近寄ってきているようだった。
 ルイス・バーネットは、手を引いて逡巡したままのタカシの姿に視線を送った。
「君に一度だけチャンスをあげよう。確かに君と山崎リサとの繋がりは興味深い。それがどういうものなのか、私も知りたくなった。もし君が私の言霊にあらがい、その繋がりが確かに存在することを証明するのなら、この世界での君の滞在を認めよう。ただし私の言霊を破ることはできないだろうが。精一杯抵抗してみるがいい」
 通路が一段と騒がしくなっていた。エネルギー弾の破裂音が間断なく響いてくる。部屋の外で戦闘が行われている。
「では、また。期待はしていないが、ほんの少しだけ、楽しみにしているよ」
 ルイス・バーネットは一瞬にして消えた。タカシは取り残された。まだ自分がどうしたらいいのか、どうしたいのか、まったく不明だった。虚しく自問する声だけが頭の中に響いていた。
 人の声がする。タカシは開け放たれた扉に視線を向けた。するとそこに銃を構えたツグミが走り込んできた。
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