廃墟の中(3)

文字数 3,593文字

 速いっ!逃げられない、そう思うと同時に、ナミの手が彼の上着のえり首をつかんだ。そして彼の身体は飛んだ。投げ飛ばされた。硬い地面に身体を打ちつけた。一瞬、辺りが光ったように感じた。彼は身体中から伝わってくる痛みに耐えながら顔を上げた。ナミを見た。周囲に円盤の姿はなかった。ナミが、いつの間にか手に持っていた黒い小さな球体を足元に落とし、靴底で踏みつけた。
「さぁ、これであなたはこの世界に感知されたわ。これからあなたを排除する動きがはじまるわよ。けっして気を抜かないで。常に細心の注意をおこたらないようにして」
 ナミの声がやむと周囲から音が消えた。風もやんでいる。辺りが少し暗くなった気がする。相変わらずの曇天を見上げてみる。少し違和感を感じた。ずっと空にあった黒い影がさっきよりも更に大きくなっていた。本当にあれは何なのだろう?鳥でないのは確実なようだ。人知を超えた存在のようにも見える。少し怖れを感じた。
「来たようね」
 ナミの視線の先、地面のいたるところに小さな黒いシミが点在していた。次第にシミが大きくなり盛り上がっていく。地面から何かがにじみ出てくる。それは少しずつ姿を現した。手から出てくる者、頭から出てくる者、様々だったが、硬い地面から出てくるにも関わらずまったく力みも見せず、せり上がってくるように次々に姿を現してくる。
 皆、同じ姿だった。いにしえの修道士が着ていたような大きなフードのついた黒衣に身を包み、うつむいて肩を落とした脱力感にあふれた姿で現れた。フードに隠れて中の顔はよく見えない。
 黒衣の者たちは足先まで現れた者から順次、彼の方へ歩みはじめた。とぼとぼとしたその足の運びに力強さは感じられない。
 タカシは明確に嫌悪感を抱いていた。今までの人生で、かつてないほどに。目を逸らさないといけない、距離を保ち関わり合わないようにしないといけない、と脳裏に警戒警報が流れる。でもそれに反して目を逸らせない。距離が次第に縮まっていく。
 気づけば周りを囲まれていた。数えきれないほどの黒衣の群れだった。しかも、いまだに次々と地中から出現してきている。
 近づいた彼らの表情が、はっきりと見て取れるようになった。フードの陰から、上目づかいの視線がこちらに向けられている。口元は薄っすら口角が上がり、鈍く笑っているように見える。そしてどの黒衣の者も力なくヨダレを垂らしていた。
 けっして分かり合えない。目の前の存在は、人の姿をしていてもけっして人ではない。人の良識から逸脱した、人の常識を度外視した事態をもたらす、そんな存在でしかない。タカシにはそんな気がした。
“逃げる”ナミに言われる前にそう思った。でも周囲は黒衣だらけだった。逃げる場所など、どこにもない。
 息苦しいほどの圧を振りまきながら集団が迫ってくる。近づいてくるだけで不快なことこの上ない。胸裏の奥深くから、この上ない拒絶反応が湧いてくる。
 こんなリサのイメージとはまったく正反対の集団が、彼女の自我に潜んでいたとは。恐れ、身体がすくむのをどうしようもなかった。足も手も突然反抗期を迎えていた。眼球も黒衣の集団に釘付けになっていた。その姿を見たくはないが目を逸らせずにいた。
「チッ!」かたわらから舌打ちが聞こえた。
 ナミが左手のひらを前方に向けた。視線をじっと手の甲に向けた。開いた指の間から黒衣の者の一人を凝視した。すると突然、黒衣の者のその身体がねじれて腰辺りを中心に渦を巻きはじめた。そして、またたく間に一個の黒い球体になって、その場に浮かんだ。ナミはその黒い球体に向けていた手のひらを少しずらした。球体はそのまま落下し、地面に接触した瞬間、ひしゃげて扁平体になった。
“ギャー!”
 黒衣の者の一人が突然叫び声を上げた。たちまち黒衣の者全員が、次々に呼応して同じ叫び声を上げた。辺り一面、叫び声で満たされた。身の毛もよだつ、と形容しても誰もが納得するだろう異様な声で周囲を圧していた。
 その声の響きに乗って、黒衣が次々に彼に向って走ってきた。先ほどとは比べものにならないほどの速さで。
 ナミはとっさに黒い球体を作り、投げ捨てた後、次にまた作りながら彼に空いた手を伸ばした。
「凪瀬タカシ!」
 その呼び声にナミを見た。そしてナミが彼の手をつかんで、空に飛んで逃げるつもりだと了解した。しかしその手に自分の手を差し出すことがままならなかった。神経の伝達があまりにも鈍重だった。手を差し出さなければならないという意思より目の前に迫った恐怖が勝っていた。
 黒衣が飛んできていた。その中にある悪感情の固まりにしか見えない目が、口が、彼をとらえようとしていた。彼は口をだらしなく開け、目を見開くことしかできなかった。ナミが再度、彼の名前を叫んだ。まずい!もうダメだ!そう彼が思った瞬間だった。
 彼に向かって飛び掛かってきた黒衣の者が、空中で止まった。
 その黒衣の者は、憎悪にあふれた表情を彼に向けたまま地に足を着け、尚も彼に向かって進もうとした。しかしその姿は動きが鈍く、呼吸が荒かった。まるで、その場だけ重力が倍増したかのようだった。彼に手を伸ばしてきた。もう少しで触れそうだった。突然、その黒衣の者は悶えはじめた。首を押さえ、言葉にならない声を上げながら苦悶した。そしていきなり破裂して霧散した。
 次々に黒衣の者が彼に襲い掛かった。そして最初の黒衣の者と同じように次々に霧散していった。
 周囲がざわついた。
 満ちていた空気の質が変わった。
 残った黒衣の者はみな、信じられないという表情をして彼を見つめていた。ナミも同じような表情をしたが、視認できるかどうかの間のことで、すぐに我に返って彼の腕をつかんで何も言わずにいきなり飛んだ。
 いくつかの背の低いビルの上を通りすぎた。あまりにも高速かつ直線的な飛行だった。襲いくる風圧に彼の顔はゆがみ、つかまれている右腕がしびれた。足下の街並みが次々に移り変わっていったが、その街の造りを目視する余裕もなかった。
 その霊魂と付帯物はまたたく間に街の反対側の路上に降り立った。彼は着地の衝撃で派手に横倒しになった。
 肩を打ちつけた。彼は苦痛に顔をゆがめ、上体を起こしつつナミを見た。そこには威圧感ただよう立ち姿で、彼を見下ろす視線があった。その目が瞬き、瞬き、また瞬いた。
 彼はその時のナミの視線がそれまでとは違う、とおぼろげに感じた。今までは電気でも通っていそうな無機質な球体、監視カメラのレンズ的な無感情のガラスに視線を向けられている感覚だった。しかし今、彼に向けられている視線には意思が感じられた。彼のことを視るために見る、その内にある心情も見透かそうとしてる視線だと感じられた。
「どういうこと?他人の自我に入り込んだ異物は排除されるはず。あなたはこの世界のものではない。あなたは排除されるべき存在なのに、排除する側が消滅した。そんなこと、あり得ない。唯一、考えられるとしたら、山崎リサ自身が、あなたの存在を、排除することを拒絶している・・・」
 ナミは両のまゆ毛を寄せ、目を細めて彼を見つめながら言った。
「あななたちの繋がりは尋常ではない。これは極めて特殊なケースだわ。どのようにして、そんな繋がりが形成されたのか、今、その訳を詮索するつもりはないけど、あなたがここにいる理由が少し分かった気がする」
 今まで経験したことのない出来事の連続に、彼の精神は疲れを覚え、肩の痛みが神経に間断なく状態の報告を続けていたが、かろうじて微笑んで言った。
「理由なんて大層なものじゃない。彼女と一緒にいたい、それだけだ」
 ナミはまゆを寄せて彼を見つめたままだった。
 そうしているうちに、ナミはふと背後に人の気配を感じた。
 それは地面を踏むかすかな音だったのかもしれない。人の動きによって生じた空気の小さな揺れだったのかもしれない。または物体が動くことによって生じた光と影の変化の具合だったのかもしれない。とにかくナミはそんなわずかな気配を背後に感じて肩越しに路上へと視線を向けた。
「どうした?何かいたのか?」
 タカシもナミのそばで路上を見渡した。
「しっ!静かに」
 言われてタカシは動きと息を止めた。ナミはジッと一点を見つめている。
「どうやら、ここにも人がいるみたい。あそこを見てて。向こうはこちらにまだ気づいていないようよ」
 タカシは止めた息を吐きつつその方向を見た。そこにはそれほど背の高くないビルが立ち並んでいる。その一角をナミは指さしていた。ジッとその方向を眺めていると、にわかに扉のない出入り口から人の姿が現れた。二人は、近くのビル入り口へのアプローチ階段の陰に姿を隠して、現れた人の姿を熟視した。
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