魂魄の中(2)

文字数 5,562文字

 周囲の場景が一変していた。先ほどいた乳白色の中にいた。
 女性はとっさに自分がつかんでいる彼の手首を見た。手と手首はそこにあった。しかし手首から先が限りなく濃い霧に包まれて姿を消していた。これは確かに山崎リサの魂。ただの魂がなぜ勝手に変化した?ありえない、自我もない魂がなぜ?
 女性はにぎっている手首を力強く引いた。タカシの腕から頭まで現れた。しかしそこから先はまだ霧に包まれたままだった。
 女性は、彼に向けて片手を差し出した。その手のひらに向かって霧が渦巻いて集まってきた。次々に集まって凝縮していき、一個の球体になっていった。彼の身体を包んでいた霧は消えた。一か所、彼の右手首を残して。
“何これ?つながっている?魂が?”
 自分の右手をじっと見ている女性の視線に気づいて、彼も自分の右手を見た。二人の間にある球体から細く乳白色の線が伸びて、右の手首に巻きついていた。よく見るとそれは人の手のように見えた。
「これはあなたと山崎リサとの繋がりが具現化したものかしら。自我の離れた魂に意思などないはずなんだけど。前例がなく、思考の範疇から限りなく外れた事象だわ」
 女性はつかんでいた彼の手を離した。
「その右腕、ここに残していってもいいかしら」
「いや、残すってどうやって。ダメに決まってるだろ」
「そうよね。まぁ、ここであなたを傷つければ、現実のあなたの生活に影響が出るかもしれないから、極力それはできないんだけれど。かと言って決して魂に傷をつける訳にもいかないし、大変困った事態だわ」
 女性は無表情な顔つきのままで言った。言い終わってゆっくり一度、まばたきをしてから更に言った。
「その繋がりがある限り、あなたをここから追い出すのは無理なようね」
 女性のその言葉に彼は少し安堵した。右手首の霧がスーッと薄くなって消えた。彼はその手首を顔の前に上げて見た。少し赤くなっていた。少し人につかまれていた感覚が残っていた。人の肌のあたたかみに、じんわりと包まれている気がした。大切な人との繋がりを確かに感じられた。
「とにかく、リサを生き返らせるにはどうしたらいいんだ?教えてくれ、頼む」
 女性は差し出した手のひらを、ゆっくり前に押しやった。白い球がただようように彼の方へ近づいてきた。手を出せば届きそうな距離まで近づいた時、彼はゆっくり手を差し伸べた。
「それは魂の核。それは山崎リサの魂だけど山崎リサじゃない。それを山崎リサの身体に戻しても目覚めることはないわ。ただ生きているだけ。山崎リサの自我は別にあるの」
 彼はリサの魂に触れることをためらった。触れてしまえば壊れてしまいそうな、そんなもろさが感じられた。だからただ優しく両腕で包みこんだ。
「人は死ねば魂が身体から離れる。身体から離れれば、魂は核とその他の部分に分離するわ。その他の部分は、その人をその人たらしめる個に関する領域よ。分かりやすく言えば自我と言えるわね。その分離した自我は更に分離し分散していく。自我のない魂の核は没個性なもの。すべての魂に共通するもの。自我が離れると核はこれから生まれる命に入って自我を生み出し魂になるの」
 あまりに淡々としたその口調に、意識が吸い込まれそうになる。突拍子もない話であったが、すんなりと信じてしまいそうになる。
「いったん身体を離れてしまったら、核だけではもうもとの身体へは戻ろうとはしないわ。魂を戻すには自我を核に結合させなければならない。自我が核に合わさり完全な魂となれば、自然と自分の身体に戻ろうと指向するはずよ」
 彼はただ黙然として聴いていた。リサの生命の欠片を抱いたまま。
「自我は核から離れると少しずつ崩壊していくわ。いったん崩壊してしまえば二度と戻ることはない。あなたが山崎リサを救いたいと思うのなら、自我の崩壊を食い止めることね。山崎リサの自我は今、四つに分裂してただよっている。それぞれ、これから崩壊がはじまるわ。あなたは一つ一つの自我に行ってその崩壊を食い止めなければならない。その方法は自我ごとにすべて違うわ。まず、それぞれの中に入ってその方法を捜すしかないわね」
 行けば何とかなるかもしれない、彼は女性の言葉に光明を見出した気がした。ふと目線を上げた。女性と視線が重なった。
「それから、あなたに何かがあれば、もし山崎リサの自我の中であなたが死んでしまうようなことがあれば、あなたの意識は消滅する。今、病院で眠っているあなたは二度と目覚めることはなくなるわ」
 彼は思わず苦笑した。自分も事故に遭っていたことを忘れていた。
「あなたが死のうが生きようが、それはあなたの自由。私がとやかく言うことではないわ。でも今のまま魂と意識が分裂している状態は支障があるの。人が死ぬ時、意識の最も深い部分がスイッチとなって、肉体から乖離した魂が核と自我とに分かれるの。そして核は新しい命になっていくわ。それは生きるもののことわり、太古より受け継がれてきた意識の最奥部に組み込まれた指向なの。あなたの意識がこのまま戻らなければ、死後もあなたの魂は再生することはない。ただあてもなく永遠にさまようだけ。あなたの魂が再生して生まれるべき命が存在しないことになってしまう。それはこの世界にとってとても支障があること。見すごすことはできないわ」
 自分の置かれた状況をとうとうと説明してくれるキャリアウーマン然とした死神が、これからどう判断し、どう動くか、自分とリサの運命がそこに掛かっている。自分達の運命を他人に託すしかないもどかしさに、気分が悪くなりそうだった。
「人が他人の自我の中に入るってことはとても困難なこと。通常はあり得ないことよ。たとえ入ることができてもすぐに除去されるわ。体内に入った病原菌を排除するのと同じように。どんなに親しい間柄でも、たとえ親子でも双子でも必ず拒絶反応が起こるわ。それに耐えてしかも崩壊を防がないといけないの。あなたがしようとしていることはそういうことよ」
 そういうことよ、と言われても、もちろん彼にはそんな経験はないので実感はないし、想像もうまくできていない。
「自我の中に入るということは、その人のすべてを見るということ。あなたは山崎リサのすべてを知ることになるわ。その闇も悪性も、決して彼女があなたに見せたくないと思っていた部分も。あなたに秘密にしていたことも。そういうことを含めて、すべてをあなたは見て、知ることになるわ。それにあなたが耐えられるのか私には疑問だわ。彼女がそれをどう思うかも」
 少しの間、彼は何も応えられなかった。身じろぎもせず女性の言葉を噛みしめていた。反対の立場だったら、と考えてみた。自分が秘密にしていること、見せたくないもの、自分の悪性、ずるがしこく、いやらしく、醜いかもしれない、自分が気づいていない自分の本性。そんなものを彼女に見られたらどうだろう・・・やっぱり嫌だな、と思う。正直、そんなものを見られるのは極力回避したいと思った。でも見られないと彼女と一緒にいられないのだとしたら、見られるのも仕方がないと思った。彼女とともに生きることができない、その苦しみにさいなまれるのに比べれば、たとえ、秘密や隠し事や悪性を白日の下にさらされ、非難され嘲笑されなじられたとしても、それほど気にはならないだろう。それで彼女が自分のことを嫌いにならなければ何の支障もない、そう思えた。
「僕は、彼女のことが好きだ。何を見ても聞いてもそれは変わらない。そう確信している。だから行きたい。彼女を助けに」
 女性は、細いフレームの眼鏡の奥から、じっと観察するように見ている。あくまで感情は見当たらなかったが、この珍しい個体の生態に、ちょっと興味が湧いた、的な視線を向けている。
「あと一つだけ言っておくわ。今回の事故で必ず十二人の人が死ぬの。それはすでに定まっていること。誰にも変えることはできない。もしあなたが山崎リサを生き返らせることが出来たなら、彼女の代わりに誰かが死ぬ。あなたが・・・」
 リサの魂の核を抱きながら、その温もりに癒されながら、聞いていた。春の風が吹いている、優しくほおを撫でていく、そんな感覚に似て。
 タカシは唐突に、つい先日のことを思い出した。
 春らしい陽気の昼下がり、公園の桜の木の下でリサと一緒に座っていた。
 ときおり吹く風が桜花を散らして辺りがうっすら桜色に染まる情景を、時間を忘れて二人で眺めた。あまりの心地よさにこのまま息絶えても仕方がない、とその時、ふと思った。
 何かをなし得た訳でもない人生、思い出したくもない記憶もたくさん詰まった人生だったけど、リサに出会って心の底から幸せだと思えた。リサが生きているこの世界が、心から大切なものだと思えた。
「構わない。リサが生き返るのなら俺の魂を好きにしていい。だから助けてほしい。リサを生き返らせるために手を貸してほしい。あなたの力が必要なんだ。頼む、お願いだ」
 何をそんなに見ているのだろうか。女性は彼の目を凝視していた。そしてゆっくりまばたきをした。
「分かったわ。左の手のひらを見せて」
  言われた通り手のひらを差し出した。女性はおもむろに胸ポケットから短いペン状のものを取り出し、右手の親指と、ひとさし指と中指で軽く持つ、と同時に瞬間的な速さで差し出した。
 左手の小指に軽く当たった感覚があった。彼は手を引いて小指を見た。指の腹から血が出て、小さな球体を形作っていた。彼は女性を見た。どこから出したのか一枚の白い紙を片手に持っていた。そしておもむろに、空いた手で彼の左手小指をにぎると、その赤い球に紙を押しつけた。
 女性は赤いシミのついた紙を彼に向けて差し出した。
「この契約書は先ほど私たちが話した内容が明文化されたものよ。内容を確認して」
 彼は赤いシミの上に書かれている文言に目を通した。内容は簡潔で、まず彼のことを甲、リサの魂の送り霊である女性のことを乙とすると明記した後、
 一、甲は、山崎リサが現実世界で、現時点
   での死亡を回避し生存が保証された場
   合、乙に対し自らの魂の所有権を譲り
   渡すことに同意する。
 二、乙は、一における山崎リサの死亡を回
   避するために行う甲の行動に対し、甲
   からの要請に基づき必要充分な補助を
   行うこととする。
 三、二の行動中に甲の意識が消滅した場
   合、山崎リサの魂の帰属は本来の通り
   乙の手に委ねられることとする。
と、書きつらねられ、その下に、今日の年月日、赤いシミという順序で並んでいた。
「何か質問があるかしら?」
 彼が一通り目を通すまで待って訊いた。
「いや、このままで構わない。問題ないよ」
 そう彼が言ったとたん、赤いシミがゾワゾワと動き出した。それは次第に細長くなって、短く切れ、切れた線が縦に横に移動して重なり合い、やがて彼の名前を彼の筆跡そのままに形作っていった。
「これで契約成立よ。山崎リサの命を救いなさい。私があなたを助けてあげるわ」
 高いヒールの靴をはいた死神が言った。続けて右手で眼鏡を外して左手に持った契約書に重ねた。すると眼鏡と契約書はすぐさま風化していった。粒子状に小さく細かくなって消えていった。そして彼のことを見たまま少し顎を上げた。とたんに後ろで束ねていた艶やかな長い髪がほどかれた。少しウェーブがかった軽い色合いの髪の毛が背中に垂れ広がった。
 小鼻がツンと上を向いた死神は、足を肩幅に広げて両の手のひらを彼に向けた。
 周囲の密度がぐんと下がった。彼の腕の中で魂の核が少しずつふくらみはじめた。そしてその白い球体の幅が彼の肩幅を超えたとたん、一瞬にして周囲の闇が消えた。再び白濁とした空間に包まれていた。
 腕時計をちらと見た死神は、足早に歩いて彼の目の前まで来ると、「さっ、行くわよ」と言うが早いか彼の手をとって、そして飛んだ。

  ―――――

 飛んでいた。
 どういう力の作用で浮いているのか分からないが、確かに浮いて飛んでいる感覚がした。
 肌に風を感じるわけでもなく、真っ暗な闇の中で流れる風景が見えるわけでもないのだけれど、確かに飛んでいると感じられた。
 昔、時々見ていた飛んだり浮いたり落ちたりする夢の感覚と似ている、と彼は思った。
 飛んでいる以外、何も感じられない無音の世界の中でただ一つ、彼の左手首をつかんでいる女性の細い指の感覚があった。
 決して強い力でにぎられているわけではなかったが、彼女の意思以外ではとかれる心配が無さそうな、不思議な強固さが感じられた。
 どこまで連れていかれるのだろう・・・。リサの自我に向かって移動しているはずだった。それは自分の意志ではあったが、次第にその意志に反して思わぬ場所に連れていかれているのではないか、という不安が彼の中に芽生えはじめていた。視力も聴力もどんな感覚も役に立たない現状のせいもあるだろう。あまり頓着していなかったが、彼が今、身をまかせている相手は死神なのだ。このままあの世に連れていかれるかも、と考える方が自然なのかもしれない。ただ本当に彼女が死神なのか、そのまま信じるのはあまりに無邪気な気もしたが、彼にはそれを疑ってみてもどうしようもない現状があった。とにかく、このまま飛んでいくしかなかった。
 何の前触れもなく彼の腕をつかんでいる女性の指にぐっと力が入った。そして次の瞬間ふっとその指が消えた。
 えっ、と彼が思った刹那、足に地を踏む感覚が戻った。突然の重力の復活に思わずヒザが折れて手をついた。
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