超克の中(4)

文字数 4,086文字

 その霧は次第に濃くなっていった。その霧に、最初に気づいた委員は実際、それが何か分からなかった。その霧がだんだん黒く濃く小さな塊になり、自分の足に噛みつくまでは。
 集団のあちこちで苦痛に伴う叫び声が上がった。次々に前後左右から。委員たちの意識は足元に集中した。どうにかコガレたちを振り払おうとのたうち回る委員たちの周囲で、次々にコガレが姿を現し、更に委員に襲い掛かった。
 その中の一部が、委員長たちが待機している方へと突如、突進した。先頭にはウレンがいた。
 委員長は、よもや反撃されるとは思っておらず、油断していた。状況を把握しようと瓦礫の山に近づいてもいた。その周りにいた委員たちは銃のエネルギー充填を済ませて警戒していたが、照準を合わせる間を与えぬ速さでウレンたちは接近した。ウレンの分身が委員長の周囲にいた委員たちに襲い掛かった。
 ウレンが、委員長に飛び掛かった。
 委員長は、ウレンの赤い目と黒い牙が、自分に向かって襲い掛かってくる様に思わず叫んだ。そして後ろ向きに倒れ込んだ。
 その胸の上にウレンは乗った。そして右手の人差し指を委員長の首の上に軽く刺して、横に引いた。
 委員長は思わず小さなうめき声を上げた。その首にウレンの指の爪により、薄く小さな赤い線が描かれていた。
「撤収。左側二番目の建物に入り、待機。総員、急ぎ撤収しろ」
 そう思念を送りながら、ウレンは自身も分身を連れて駆けていった。
 委員たちの集団は混乱を極めていた。瓦礫の中にいた委員たちは全身をコガレにまとわりつかれてもがいていたが、そのコガレたちが急に彼らから離れ、一方向に駆けていったのでようやく解放された。
「撤退だ。防衛ラインまで下がれ、撤退しろ」
 委員長は叫びながら、自らはその場に立ち尽くした。首の傷を指先で触れた。
 屈辱と恐怖が内面で渦巻いていた。あの小さな黒い生き物は自分を殺すことができた。ごく簡単に。それでもそれをせずにただ警告した。敗北・・・。いや防衛ラインを守り、あいつらをA地区に入れなければ、それで充分だ。まだ負けではない。ただ、そうは言っても自分の部下たちは負傷者ばかりだった。無傷な部下はもう数えるほどしかいない。前衛部隊の撤収があらかた済むと、自らも後退しながら副官に声を掛けた。
「他の大通りを警備している委員たちやA地区の警備に当たっている委員たちに救援を依頼しろ。敵の本隊はここにいる。他の場所の警備は必要ない。ここが最重要防衛地点だ。至急、集結するように連絡しろ」
 副官は、普段めったに見ることがない、感情を顔に出した委員長の表情に気圧されて、あわてて他の守備隊へと通信をはじめた。
「南方面守備隊、大量のケガレと思われる生き物に襲われました。大量の負傷者が発生。依然、交戦中。救援を乞う。至急、救援を乞う」

 ウレンとコリンは、ビルの屋上から委員たちの退却の様子を眺めていた。分身たちも次々に彼らの周囲に集まっていた。その数、あわせても二十匹に満たない。大半はビルの倒壊とともに霧散してしまっていた。
 ビルの崩壊の際、コガレたちの多くはその下敷きになって霧散した。ウレンとコリンたち屋上にいた者たちだけが難を逃れ、そのまま霧状になって身を隠し、委員たちがやってきた頃合いを見計らって襲撃したのだった。
 残った分身たちが集まりきると、その中で身体が欠損して動きが悪くなった数匹を、ウレンとコリンは自身に取り込んだ。彼らの周囲に取り込むべき分身が霧状にただよい、そして染み込むように体内に入っていった。ウレンもコリンも身体から疲労感が失せ、体力が回復した。
 残るは自分たちを含めて十四匹。数的にはかなり不利になったが。負傷していない敵もそう多くはいないようだった。それにしても建物一棟まるまる潰すとは、ウレンは自分が考えもしなかった敵の策に、改めて身震いする思いだった。お蔭で多くの分身を失うはめになった。しかしそれでも何とか対抗することができた。これからは敵もおいそれと攻撃ができないだろう。このまま持久戦をつづけられればいい。
「ウレン」コリンが背後から呼んだ。ウレンは心得て、わざと声を上げて緒戦の勝利の雄叫びを上げた。
 
 別動隊のコガレたちが、そんな状況になっていることなど露知らず、ツグミとタミンたちはエスカレーター通路を走りつづけていた。ツグミがイカルとともに日々通った道の上。もうすぐA地区の入り口。目指す白い塔まで、あともう少し。
 道の先が薄っすらと明るくなる地点までくると、ツグミたちは移動速度を落とした。塔境内入り口にも警備の人間がいるだろう。しかし通路はここまで何枚もの遮蔽壁で閉ざされていた。警備の人間も、この通路を通ってくる者などいるはずがない、という先入観に支配されていることが予想できた。きっと油断しているに違いない。だからなるべく気づかれずに近づきたかった。
 ツグミたちはゆっくりと壁伝いに進んだ。その前に、タミンは二匹の分身を先行させて警備の多少を確かめさせていた。
 先行させた分身が戻ってきた。二匹とも首を横に振った。
「えっ、誰もいないの?」
 果たして、ツグミたちが、通路と塔境内を隔てる白く光る扉の前に立つまで誰の姿もなかった。どうやら委員たちは、この通路からの侵入はないものと見て、警備の人員を置いていないようだった。ツグミは安心した。胸の前に抱えていたHKIー500を右手にぶら下げながら、お願い、とここに来るまでずっと自分の肩に乗っているタミンに向かって念じた。タミンが自らの分身に向かって念じた。何匹かの分身が扉の操作パネルに取り着いて開扉を試みた。
 セキュリティ上、この扉は正規の操作以外は受け付けないようにシステムが構築されているはずだった。だから本当に開くのかツグミは不安だった。操作パネルに意識を集中していた。
“油断するなよ”
 頭の中にイカルの声が響いた。
 えっ、何?ツグミがそう思った瞬間だった。白い扉が一瞬にして透明に色を変えた。
 目の前、扉のすぐ向こう側に三人の委員がいた。
 ツグミは目を見開いてあわててHKIー500を構えた。
 委員たちもあわてた。全員驚愕の表情をしながらとっさにHKIー500を構えた。エネルギーの充填をはじめた。
 委員たちが落ち着いてタッチパネルに触れて扉を封鎖すれば、ツグミたちの侵入は阻止されるところだった。しかし委員たちはそんなことは考えもしなかった。もとからそんな仕様になっていること自体知らなかったのかもしれない。
 とにかく互いに扉が開くと同時に攻撃ができる体制を整えようとした。
 ツグミは念のために、扉に着く前に充填を済ませていた。何時でも撃てる。しかし逡巡していた。扉が開くと同時に弾を放っていいのか、たちまちのうちには決めかねていた。とにかく距離が近い。特に自分と対面する位置にいる委員はすぐそこにいる。弾を放てば確実に死ぬ。あたしが人を殺す。
 とっさにツグミは走って逃げようと思った。それからどうするかなんて考えられない。とりあえず自分も相手も死なずに済む距離まで逃げるつもりだった。しかしあわてて足を動かそうとしたせいか、普段なら何でもないわずかな凹凸にかかとが引っ掛かった。倒れないように足を踏ん張った。その拍子にキャッと言いつつタミンが肩から落ちた。その瞬間、目の前の扉がスーッと真ん中から両側に、横開きに開いていった。
「撃つの。ツグミちゃん撃つの!」地面に降り立つと同時にタミンは叫んだ。
 ツグミはほんの一瞬ためらった。その少しの間に、眼前の委員が持つ銃の充填が済んだ。委員はすぐさま引き金を引いた。
 扉が開くと同時に、鳥型のケガレの片割れがツグミの正面に飛び出していた。ツグミがあっと思う間もなく、そのケガレにエネルギー弾が吸い込まれるように当たり、破裂した。
 ツグミはケガレの粉砕された黒い破片を全身に浴びながら後方に飛ばされた。
 エネルギー弾を放った委員も後ろに跳ね飛ばされていた。
 他の委員たちが充填の済んだHKIー500を構えて、すぐさま引き金を引こうとした。そこへもう一羽のケガレが糸を引くような速さで飛んでいき、一人の委員の顔に体当たりして、更にそのまま上昇すると、もう一人の委員の頭上から急降下して、その委員の腕に鉤爪を喰い込ませた。体当たりされた委員はとっさにケガレに銃口を向けて引き金を引いた。その目には仲間の姿は見えていなかった。ただ自らの命に危険を及ぼしかねないケガレへの恐れから、その黒い姿しか見えていなかった。
 ツグミは倒れてもすぐに上体を起こしたが、その双眸に、委員の一人とケガレが、ともに、エネルギー弾の破裂に伴う閃光に包まれる様子が映った。
 あっ、と叫びかけて、すぐさま歯を食いしばってツグミは走り出した。ケガレとともに仲間まで倒してしまったことに気づいて、唖然としている委員の元まで走り、そのまま止まらずにHKIー500の銃床で正面から顎辺りを殴打した。
 その委員は驚きの表情をしていたが、ぐえっ、という声を漏らしながら力なく後ろに倒れていった。
 ツグミは周囲を見渡した。どこにも姿が見えない二羽のケガレ、ここまで行動をともにしてくれたケガレたちが完全に消滅してしまったことを確信せざるを得なかった。
 そのまま仲間に撃たれた委員の元まで行った。ピクリとも動かない。片腕が無くなっていた。顔が傷だらけになっていた。身体中にケガレの黒と自らの血の赤が付着していた。身体の線からその委員が女性であることが察せられた。そして首筋に付着した黒と赤の間に、親指の先ほどのホクロが見えた。確認するまでもなくその委員は死んでいた。ツグミは息苦しさを感じた。胸を何かに圧迫されているような感覚。
 その委員たちは胸に卵の形のマークを着けていた。それは保育委員の証だった。保育委員まで駆り出されてたんだ、そう思いつつ、ああ、保育委員になってたんだ、と足元に横たわる女性の姿を見ながら思った。久しぶりに会ったと思ったら、こんな姿になっちゃって・・・。
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