混迷の中(1)

文字数 5,268文字

 頭の中に広がる重い暗闇が、少しずつ曖昧になっていく。
 自らの意識がぼんやりと姿を現して伸びをする。
 次第に立ち込めていた闇が晴れていく。
“朝だ…„
 認識した。ここは何の変哲もない自分の部屋。違和感の欠片もない、地下深くにある自分の部屋だ。
 住人が目を覚ましたことをセンサーが感知して、部屋の明かりが点灯した。このままベッドの中に居続ければまた明かりは消え去り、闇が戻る設定になっている。とはいえ起き上がってみた。まだ充分に寝足りている気はしなかったが、当然のこととして意識がそうするように告げていた。
 今日がまたはじまる。ただの昨日の明日でしかない一日、明日になればただの昨日でしかない今日が目を覚ます。
“おはようございます。認識番号0502150”
 部屋の中に機械的な音声が静かに流れた。
「おはよう。連絡網に何か通知がきてないか」
 彼は、誰に言うでもなく声を発した。
「通知はゼロ件です」
「そうか」そう言いながら一週間前から連絡が届かなくなっている現状に更なる不信感が募った。今までないことだった。事の大小を問わず、必要な連絡が文字や画像や音声などの情報として通知されるはずなのだ。二日も三日もなんの連絡もないということは今までになかった。だから四日前に総務委員に通達しておいた。しかしまだ修理は済んでいないようだった。
 彼はベットから降り、洗面所に向かった。
 この部屋はかろうじて人が一人生活できる程度の広さしかなかった。玄関の扉を入ると居間であり寝室であり書斎である一室の他は、玄関横にある、洗面所とトイレ兼用の一隅しかなかった。しかも彼の性格上、無駄なものを極力置くことを避けた結果、ただの、飾り気のない殺風景な、何の見どころも面白味もない部屋になっていた。
 顔を洗う。まだ目が覚めきっていない。意識が重く、動きが鈍い。頭の中にぬるま湯でも溜まっているかのように感じられる。彼の朝はいつもこんな感覚とともに訪れる。
 彼は首脳部よりあてがわれたこの部屋を気に入ってはいない。どうも気力が萎えた感覚を覚えてしまう。逆に、仕事で毎日通う治安本部のすぐ近くにある、意味合い的に、この世界の中心でありシンボルである白い塔に近づけば近づくほど、気力が身中にあふれるほどに湧き出てくる。塔から発せられる光のせいだろうか。それともこれもお方様のお力なのだろうか。
 洗面台にある鏡の中の自分を見る。髪は乱れ、顔はむくんでいる。そんな自分の姿に重なってゆるやかな音楽が流れはじめた。機械音が組み合わされた静かな曲。一日のはじまりの曲に合わせて身なりを整える。髪を整え、支給された隊服を着る。
 朝食を摂りながら、最新のニュースを確認し、いつもの出勤時間を待って、部屋の温度湿度を一定にするために分厚く作られている扉に手をかざした。扉が音もなく開いた。すぐそこにはエレベーターホールがあった。
 エレベーター乗降口の横にある認証パネルに手をかざすと、かすかに虫の羽音のような響きが乗降口から聞こえた。そして間もなく扉が開いた。中に乗り込んで口を開く。
「セントラルホール」
 するとすぐに扉が閉まり、エレベーターは動き出した。磁力によって、縦横に無数に交差する通路内を、縦に横に移動を続けながら目的地へと進んでいった。
 ほとんど揺れることはないが、かすかに掛かる重力で自分が今、どっちの方向に進んでいるのかが分かる。彼の住まいがあるD地区を抜けて隣のB地区に入ると後はほぼ直線になる。
 薄暗い穴倉の中を移動する閉塞感、息苦しくなる。肺いっぱいに息を吸い込んで止める。彼はよくやる他愛もない賭けをはじめていた。目的地に着くまで息を止めていられたら何か良いことが起きる。心の底からそう信じているわけではないが、淡い期待とともに毎朝ベットしていた。彼はよくその賭けに勝っていたが、たいていは、すぐにいつもの生活に紛れてそんなことは忘れていた。
 B地区にあるセントラルホールには、肺が悲鳴を上げる前に着いてしまう。彼には十分な勝算があった。途中で他の人が乗り込んでくると時間的にギリギリになりそうだったが、まだ早いこの時間帯、ホールに向かうのはこの都市全体の警備を担う治安部隊の人間くらいのものだった。
 彼は、じっと奥の壁にもたれて腕を組み、目を閉じていた。まだ息苦しさの欠片も感じられない。今日は調子が良い。
 唐突にエレベーターの作動音が変化した。動きを停めようとしている。どうやら今日も賭けには勝てそうだ。
“セントラルホール”唐突にエレベーターが告げて、停止して、扉が開いた。
 埃っぽい光が流れ込んできた。目の前に広場を囲むように存在するきらびやかな街の姿が広がった。
「おはよう、イカル」
 ツグミだ。イカルと呼ばれた少年が、エレベーターを降りようと一歩踏み出すと同時に、その声の主を判別した。
「おはよう」
 彼の目の前には、背が低く、髪の短い隊服姿の少女がいた。前屈みになりながら満面の笑顔を彼に向けている。
「毎朝ここで会うわね。あたしたち生活のリズムが同じなのね。きっと気が合うのよ」
 よく言うよ、彼は思った。
 彼はいつも余裕をもって勤務地に到着できるように、毎朝、早めの同じ時間に家を出るようにしていた。最初、彼女はギリギリの集合時間に到着していた。しかし次第に少しずつ、日に日に早めに到着するようになった。やがて彼より早く到着するようになると、ほぼ毎日その時間を保ち、このエレベーター乗降口で待つようになっていた。毎朝、ここで出くわして、同じような言葉を聞くのも当然の結果だった。
 イカルとツグミは、物心ついた頃から同じ生活空間で暮らしてきた。現在は、治安部隊の同じ班に所属している。
「早目に家を出るのはえらいけど後ろ髪が跳ねてるぞ。顔もちゃんと洗っているのか?」
 彼は憮然とした表情を崩さずに言った。
「洗っているわよ。髪はどうせ時間が経ったら他の髪も立ってきて目立たなくなるからいいでしょ」
 彼女は言いつつも、あわてて後ろ髪を両手で撫でつけた。
「今日も俺たちは塔の外周警備をするんだぞ。塔におられるお方様のすぐおそばに行くんだ。身だしなみには気をつけないと」
 彼女は見るからに不満げな顔をした。
「イカルはいっつもお方様のことばっかりね。お方様の警備っていってもお方様は塔の高い所におられてそのお姿さえ見ることができないじゃない。そもそも警備っていっても何からお方様を守るの?お方様はこの世界そのものなんでしょう?そのお方様を傷つけようなんて考える人が本当にいるのかしら?」
 確かにそうだ。お方様の安泰が、この世界の平穏につながっていることが自明の理なのは誰もが知っている。そのお方様を損なう行為は、自分の住む世界を損なう行為でしかない。そんなことを実行しようとするのは、よほどの世捨て人か精神が破綻した者だろう。
「いや、何があるか分からないだろ。それに俺たちは、もしものことがまったく何もない状況を保つのが一番大事な仕事なんだ。そのために俺たちの存在は必要なんだ。まったく警備も何もなければ、いつ誰が頭がおかしくなって何をしでかすか分かったもんじゃないだろ」
「もう、分かったわよ。それはそうと・・・」
 二人は、まだだいぶ時間に余裕があったので、ゆったりと話をしながら、ホールの反対側にあるエスカレーター乗り場に向かって歩いていった。いつものことだった。毎朝くり返される時間。いくら賭けに勝っても特別いいことなど起きやしない。でもイカルはこの朝のひと時が嫌いではなかった。ひときわ朗らかにしゃべるツグミと一緒にいることは楽しかった。ツグミはリラックスした様子で、嬉しそうに話し続けている、他の時間帯と違って。
 ツグミは、その名前の通り、普段は口をつぐんで必要以上に口を開くことはない。ややもすると必要な場合でも口をつぐんだままだった。だから当然、彼女には友達らしい友達は見当たらなかった。仲間内では、そういうコだから、とあきらめられていた。でも彼女は、それを東風くらいにしか感じていないようで、一向に改善する意思はないようだった。しかし唯一、彼の前、特に二人きりになると、途端にその口が軽くなった。今まで溜めた言葉を一気に放出するように彼に向けて多種多様な話を次々に紡いでいく。それもとても嬉しそうに。
 ツグミが、彼とともにいたいと思っていることはあからさまに分かった。どんな時も彼の進む道についてきた。彼が治安部隊に入隊した時も、同期で入隊し、同じ分隊の同じ班へと志願した。その分隊は、この世界の象徴である塔の警備をその主な任務としているので、それなりに厳しい選抜の末に、認められた者しか入れなかった。彼とともにいたい気持ちからだとはいえ、彼女もかなりな努力をしたに違いない。彼にとっても、そんなツグミの気持ちは嬉しかったし、一緒にいたくないわけではなかった。しかし彼女のもつ特性に、最近少し問題意識を抱くようになっていた。
 このまま他の人たちとうまくコミュニケーションが取れないままでいいのだろうか。もし自分に何かあったら、こいつはどうなるんだろうか・・・。

 彼らは今、B地区の北側に位置するB1区画の中心にいる。そこはこの地下都市全体の中心地でもあった。
 ホールを囲むようにして広がるB1区画は、この都市の交通と行政、そして人々の生活の中心でもあった。頭上は岩盤がむき出しになっていたが、誰がどんなボールを投げても届かないほど高く、ホールの端からは、南側に隣接するB2区画に向けて、終わりが見えないほどビルが林立しており、そのすべての建造物を把握するのは、この界隈に長らく住み続けている者でも困難なほどの広さがあった。
 この都市には、完璧な空調と温度管理と建築技術、そして日照不足を補う栄養素の供給があった。生活する上で何の不自由もないはずだった。
“何かざわついている感じがする”エスカレーター乗り場に近づきながら、そうイカルは思った。
 まだ時間は早い。いつもなら、人目の少ないこの時間、のんびりと目的地に向かって移動している人の姿が、この広い空間にちらほら見られるだけだった。しかし今朝は人の数も多く、その動きもみな忙し気だった。
「おい、トビ」自分の脇を小走りに通りすぎようとする少年に彼は声を掛けた。「何かあったのか?」
 声を掛けられた少年は、振り向いて言った。
「何かって、部屋に召集の連絡がきてただろう。俺たち急いで本部に行かなきゃ。行けば何があったか分かるだろう」
 イカルはトビと連れ立って走りはじめた。ツグミがその後を追った。
「俺の部屋の連絡網、壊れてるんだ。先週、総務委員会に報告して、すぐに修理してくれるって言われたんだけど、まだ壊れたままなんだよ」
「最近、連絡網もだけど空調施設や水道なんかもよく壊れてるな。総務委員もあんまり修理の依頼が多くって手配が間に合ってないんだろう」
 トビが同情に満ちた表情をしながら、水平型エスカレーターに飛び乗った。イカルとツグミが続いて乗り、手すりに手を置いて“治安本部”と唱えた。手すりがほのかに光って、彼らの手のひらを識別・認証した。
 水平型エスカレーターは彼らが小走りするより多少速く、何度かゆるやかに曲がりながら進んだ。途中、彼らが呼吸を整え終わる頃、人が横並びに四人立っても余裕があるくらいに幅の広いエスカレーターと合流し、更に進んだ。
 壁も天井もメタリックに輝く白色でおおわれている。そのため照明はそれほど多くなかったが、暗いと感じることはなかった。やがて、エスカレーターの終わりが見え、彼らは降りるとそのまま歩いて進んだ。
 更に横広い通路、ここも壁や床が白い硬質な建材でおおわれていた。天井は圧迫感を感じない程度に高く、昼白色の電灯が、不必要なほど明るい光を放ちながら並んでいた。
 随所に監視カメラが作動し、かすかな気体も通さない重厚な非常ドアが約二十メートルごとに壁に収まっている箇所をいくつも通りすぎた。彼らは、二人の守衛が両側に立っている、大きなすりガラスの扉の前に着いた。
 彼らの動きは自らの部屋を出た時から、逐一情報として把握されていたから、扉の前でいちいち照会照合する必要はなく、守衛の二人に歩きながら敬礼するとそのまま扉の前に立った。
 すりガラスが瞬時にして透明化した。扉の中の風景が眼前に広がった。
 陽光を思わせる明るい光に満ちた大気の中、新緑をたたえた木々が雑多な感じを抱かせない程度に立ち並んでいた。
 イカルは数を数えた。ちょうど十まで数えると同時に扉が音もなく開いた。外の大気が彼らのほおを撫でた。それはまるで春の陽光に暖められた心地のよい風のようだった。敵愾心も競争心も反骨心も萎えて、溶けて消えてしまいそうなそよ風だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み