蠢動の中(5)

文字数 3,971文字

 アント残党の逃亡は充分想定内だった。
 そのため逃走経路に使われるだろうと予想される通りには、二重三重に人員を配置していた。しかし、恐らくアントが独自に開発したものだろう、自分たちが把握していない発光弾が使用されたことは想定外だった。
 ただ、すでに一人は射殺済みで、一人は投降して捕縛済みだった。残りは一人。発光弾の影響ももう消失した。その反逆者の特徴や画像は、委員たちの間ですでに共有済みだ。自分の委員会だけでなく、他の委員会も動員して、B4区画を中心に、アリの這い出る隙もなく配置している、その自信があった。だから情報委員会委員長は先ほどから立ったまま動かずにいた。そしてただ、残り一人の捕縛または射殺の報告を待っていた。しかし予想よりも時間が掛かっている。委員長は閉じていた切れ長の細い目を開いた。
 なかなか手強い相手のようだ、と思った。しかしそれもそろそろ・・・。
 そんな委員長が身に着けていた通信器が着信を知らせた。
「こちら東側第二捜索班です。逃亡中の反逆者がB1区画に現れました」
 委員長は大きく目を見開いた。しかし冷静に返答した。
「その逃亡者は、どの逃亡者だ。アントの残党ならB4区画で追跡中だ」
「いえ、確かに先ほど画像を共有された逃亡者に間違いありません」
 そんなバカな、いくら何でも遠すぎる。こんな短時間で移動できる距離ではない。そうは思いつつも確認するに越したことはない気がして言った。
「了解した。その逃亡者を確保せよ。極力捕縛することを優先に、銃の使用は控えよ」
「それが・・・追跡したのですが、突然、姿を消しました」
「姿を消した?どういうことだ?」
「分かりません。とにかく姿が消えました」
「・・・引き続き捜索しろ。何としても捕縛しろ」
 委員長は、心の中で、この役立たずが、と相手を罵りながら通信を切った。どうせ寝ぼけた住人を見間違えたのだろう、と思っているとまた通信が入った。
「東側第三捜索班です。B1区画で反逆者を追跡中。反逆者はA地区に向かって移動中です。至急応援を要請します」
 B1区画は、委員長が今いるB4区画と隣り合っている。しかしこんな短時間で移動できる距離でもないし、そもそも逃亡者は南側に、B1区画とはまったく別方向に向かって移動していたのではないか。いったいどんな移動手段を用いたら、そんな瞬時の移動が出来る?出来るはずがない。
 とにかく反逆者はA地区に向かっているという。もし、それが本当なら由々しきことだった。すぐに追跡するべきだと思われた。しかし間もなく、本物の選ばれし方を深層牢獄に移送する時刻になる。我々はこの場所を警備しなければならない。さて、どうしたものか、委員長が思案している間に次々に連絡が入った。そのどれもがB1区画で反逆者を発見したというものであり、見失ったというものだった。委員の間で共有している画像や特徴から、それは認識番号0502150、通称イカルと呼ばれる逃亡者で間違いないようだった。そしてその反逆者は次第にA地区に近づいている。
 言い知れぬほど不穏な動きだった。こちらの裏をかく何らかの手を打たれているような気がする。もしかしたらA地区に直接向かって、お方様の奪還でも狙っているのだろうか?そんなことは到底不可能だ。お方様に会うことなど出来ない、はず。もしかしたら何らかの手を打っていてそれが可能になっているのか?それならこんな所でボーッとしている場合ではない。急に胸騒ぎに襲われた。
 短くため息を吐いてから、かたわらにいる委員に向けて、委員長は言った。
「西側捜索班を受刑者移送経路の警備にあたらせろ。残りは俺と一緒に、反逆者の追跡に向かう」

「もういいわよ」
 そう声を掛けられてイカルは目を開き、息を吸った。
 これで何度目だろう。目を閉じ息を止めろと言われて、その通りにすると、一瞬無重力のような感覚が全身を包み、またすぐに重力が復活する。いいと言われて目を開けると先ほどいた所とはまったく別の場所にいる。そしてしばらく移動して警備にあたっている委員の姿を見つけて、自分の姿もしっかりと相手に認識させると、路地に入ってまた命じられて、無重力を感じる。
 そのすべてが、かたわらにいて自分の上着の襟首を掴んでいる女性、昨日、選ばれし方様と一緒にいた女性の力によることだということだけは分かった。その不可思議な移動がどういう作用によるものか分からないまま、命じられるままにここまでやってきた。もうA地区は目の前だ。
「いたぞ」
 声が聞こえた。委員が三人、こちらに向けて走ってくる。手に銃を持ち、その銃口をこちらに向けている。
「さあ、行くわよ」
 ナミはそう言うと、さっさと自分だけ近くの路地に入っていった。イカルも慌ててその後をついて行った。後ろで銃の発射音が聞こえた。その破裂音がする前に二人はまた消えた。

 モズは執務室の中でただ一人待っていた。
 アントの企ては成功したのだろうか。その成否の如何に関わらず、この国の治安に関わる重要事項なので、間違いなく治安部隊員もしくは委員たちから、まずこの本部に連絡がくるはずだった。
 しかし一向に連絡がこない。選ばれし方を連行する予定だった時刻を、とうに過ぎているにも関わらず。
「イカル班、九名、入ります」
 唐突に扉の外から声がした。入れ、モズが落ち着いた声で答えた。
 ツグミを先頭に班員たちが室内に入っていった。
 部屋の奥、窓際に置かれている、表面をコーティング加工して光沢を出した重厚な机の向こうに座っているモズと正対するようにツグミが立ち、その後方に班員が並び立った。
 昨日の予定では、イカルとツグミだけが自分たちの処分内容を聞くために、この部屋に赴くはずだった。しかし本部に来てみると、事務員から、班員全員で執務室に向かうように、と指示があった。兵士たちはすぐにその指示に従った。
 班長のいない現状、副官であるツグミが班長代理として指令を出さないといけない立場だった。しかし、今の彼女は、人の話をまったく聞く気がない、目が泳いている、落ち着きがない、そうかと思えばいきなり動きを止める、息をする以外をまったく忘れたように放心状態になる、そんな、自分のこともままならない、人に指示を与える余裕など、微塵もないような状態だった。
 イカル班の班員にしてみれば、これはたまに経験していたことだった。イカルが一人でどこかに行かなければならない時は、班長と副官が同時にいなくなることとほぼ同じであった。そんな時は、自然とアビが班外と連絡を取り、他の班員への指示を出していた。だから今回も、イカル班の班員たちは特に動揺することもなく、落ち着いた様子で立っていた。ただアビだけは、これから隊長に何を言われても対処できるように全身に緊張感を漂わせていた。
 モズが、何か言葉を発しようと口を開きかけた時、廊下から、失礼します、と声がして、本部職員が一人、部屋の中に入ってきた。その、本部職員の中では比較的若い中肉中背の通信を担当している男性職員は、部屋に入るとそのままモズのかたわらまで進んで、耳に口を近づけて報告をはじめた。
 その報告はゴニョゴニョと聞こえるばかりで、内容はアビたちには分からなかった。ただモズが次第に険しい顔つきになっていくので、あまりいい内容ではないことが察せられた。
 本部職員が報告を終え、上体を起こすと、モズがその職員に、分かった、と言い、待機させている彼をここに呼んでくれ、と小声で言った。了解しました、と言って本部職員は退室した。モズはイカル班の班員たちに向き直った。その顔にはすでに険しさは消えて、いつもの冷静さが戻っていた。
「君たちに、知らせておかなければならないことがある」
 おもむろにモズは話しはじめた。班員たちは、とりあえず姿勢を崩さず聴いていた。
「本日、〇六〇〇にB4区画において、アントによるテロ未遂行為があった」
 班員たちはツグミ以外、一様に目を見開いた。ツグミはただ、ぼーっと目の前の机の木目を見詰めていた。
「深層牢獄に連行される選ばれし方様を奪還するために、襲撃を試みたようだ。しかし企ては失敗し、アントの連中はほぼ全員捕縛されるか、その場で射殺された」
 班員たちは、自分たちの知らない所でそんなことが起きていたことに驚いた。アントの名前やどんな団体かは、おぼろげながらに知っていたが、彼らがそんな強行手段に打って出たことなど今までなかったので、更に意外な思いに駆られていた。ただツグミだけは特に興味が無さげに、そのまま木目を見つめていた。
「襲撃に加わったアントの連中の中に、現在、逃亡している者がいるようだ。その中に、君たちの班長、イカルもいるらしい」
 イカル班の班員は、他の班に比べて統率がとれている。規律もよく守るし、上官への礼儀もわきまえている。だから自分たちの班長の名前が出てきた時、誰もが思わず口を“え”の形にしたが、かろうじて声は出さなかった。ただツグミだけは、下に向けていた視線を、瞬間的に真正面のモズに向けて声を発した。
「はっ?」
「まだ首脳部の判断はこちらには届いていないが、まず間違いなく君たちの班長だったイカルは反逆者認定されるだろう」
 あまりのことに、ツグミは声を出すことを忘れた。他の班員たちも同じく声を出すことを忘れていた。ツグミは気が遠くなる気がした。そして実際、ヒザが急に力を失ってがくんと折れ曲がりかけた。背後にいた班員たちが咄嗟にその背を支えた。ツグミは立ち直った。どういうこと?もっと詳しく話を聞かないと。そう思いながら、モズの姿を呆然と眺めていた。
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