邂逅の中(10)

文字数 4,092文字

 メジロちゃんが連れていかれた日のことを、あたしは決して忘れない。
 ある日、メジロちゃんは連れていかれた。
 防護服を着た大人たちに、大きなビニール袋に入れられて連れていかれた。
 メジロちゃんはその間、あたしに手を伸ばして必死に泣き叫んでいた。でも、あたしには何もできなかった。できる限り抵抗した。でも、あまりにも非力なあたしの抵抗など、大人にとっては何の意味ももたなかった。
 メジロちゃんが連れていかれて、声を上げながら泣いていたあたしのところに、大人の女の人が来て言った。
「心配しないで。あのコはちょっと病気になってしまっただけだから。きっとすぐに戻ってくるから」
 それはあたしをなぐさめるための嘘だったと、今なら分かる。メジロちゃんはもう二度と戻ってこなかったから。

 あたしはまたひとりぼっちになった。
 それからあたしは、ずっと同じ場所にヒザを抱えて座っていた。
 大部屋の中でも一番明かりの薄い場所、人の動きの邪魔にならない場所、人の視線の届きにくい場所、一番時間が止まっていそうな場所にただジッと座っていた。そして思った。やっぱりあたしと関わる人は幸せになれない。あたしは人をイヤな気分にさせる。あたしは人を不快にさせる。不幸にする。そんな存在でしかない。

 僕はツグミが気になってしょうがなかった。
 メジロが連れていかれた日、大人たちによって三階と四階の消毒作業が行われた。
 僕たちは指定された場所に集められ、移動させられ、待たされた。だいぶ長い時間が経ってから僕たちは解放された。僕はツグミの姿を捜した。いたる所を捜し回ってようやく大部屋の隅でポツンと一人座っている彼女を見つけた。僕は安心した。ただそれ以来、彼女はまったく動こうとしなかった。夜になって無理矢理大人たちに寝室に連れていかれる時をのぞき、いつも同じ場所に一人で座っていた。動かず、話さず、生きているのかも疑わしくなるくらいに。
「どうやらメジロが、病院に連れていかれたらしい」
 早い段階でアトリが教えてくれた。ツグミの気持ちを思うと、何とも切ない気分になった。
 今までならツグミを見ていると、自然と視線が重なった。僕が視線を送るとその視線に誘われるようにツグミの視線もこっちに向けられた。どんなに距離が離れていても、何をしていても、ごく自然に視線が、当然のように重なっていた。でも今、ツグミの視線は、自分の足元にしか向けられていなかった。うつむいて、表情に陰をたたえて、じっと動かずにいる。
 そんなツグミに誰も近づこうとしなかった。あまりにも自分たちと異質な精神状態な彼女を恐れ、気味悪がった。たまにセリンたちの群れがやってきてひとしきりからかった。しかしツグミが何の反応も示さないので、そのうち飽きて離れていった。
 僕は、ツグミと離れていても、言葉を交わさなくても、視線が重なることで、通じ合っている気がしていた。そのつながりが断たれて、言いようもなく落ち着かない気分だった。何をしていても、どこにいても妙に居心地の悪さを感じていた。だから仕方なかった。周りの目を無視して、恥ずかしさをぬぐい捨てて、ある時、僕はツグミのそばに行った。そしてその横に座った。
 もちろんツグミがひとりでいたいと思っているかもしれないし、それを邪魔してほしくないと思っているかもしれないので、一定の距離を空けて座った。そして最初にツグミに向けて言った。
「僕はイカル。君のことが心配だ。何か僕にできることがあれば言ってほしい。君の助けになりたいと思っている」
 ツグミは何の反応も示さなかった。その時の彼女に対して、僕はそれ以上、掛ける言葉を持たなかった。だから、ただ黙ってそばに座った。
 それからというもの僕は、トイレに行く時と喉が渇いた時以外は、ずっとツグミのそばにいた。
 ツグミはじっと座っていた。
 僕もじっと座っていた。座った姿勢が苦しくなると足を伸ばしたり、立ち上がったりした。でもその場から極力離れなかった。
 たまにアトリやノスリがやってきて話をしていった。彼らにも事前に相談しなかった。それにも関わらず僕の気持ちを察してくれたようで、その場にいることを容認して手助けをしてくれるようになった。アトリは退屈している僕に本を持ってきてくれた。ノスリは水の入ったコップを二つ持ってきてくれた。トビやエナガやイスカも時々来ては話をしていった。
 飲み物をとることは、大部屋でも許可されていた。でも食事は決まった時間に、食堂でみんな集まってとることになっていた。だからは僕は大人に掛け合った。自分たちが、どうにかここで食事ができないか、訊いてみた。しかし他の子どもたちの手前もあり、衛生面での問題もあるため、ということで許可は下りなかった。だからツグミが食堂に行かない以上、僕も我慢した。
 一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が過ぎた。
 最初のうちはみんな僕たちの様子を見て、ひそひそと噂し合った。でも日が経つに連れて、誰も僕たちのことを気に掛けなくなった。アトリやノスリやミサゴやエナガやイスカやトビたち以外は。セリンたちもツグミのことが気になっていたみたいだったけど、僕がいるせいか、ちょっかいは掛けてこなかった。
 食事をしない日がつづいた。最初のうちはお腹が空いてしょうがなかったが、それも二日、三日と過ぎるうちに慣れてきた。
 ある時、エナガがアトリやノスリたちと一緒にやってきて、懐に隠し持ったパンを僕たちに差し出した。
「今日、出てたパンだ。大人に見つからないように持ってくるの、けっこう大変だったんだぞ」
「ありがとう」
 そう言って両手で二つのパンを受け取った。そしてその一つをツグミの前に差し出した。
「ほら、ツグミ、食べないか。一緒に食べよう、な」
 ツグミは動かなかった。差し出されたパンにも周囲の人たちにも視線を向けもしなかった。
「こいつ、ダメだ。イカれてやがる。望み通り放っておいてやったらどうだ」
 ミサゴが吐き捨てるように言った。
「そんなこと言うなよ」
 ノスリがミサゴをたしなめた。
 僕はむなしく差し出したままになっている片手を引っ込めて、そのままエナガに二つのパンを返そうとした。
「エナガ、みんな、ごめん。返すよ」
 僕が浮かべたほほえみが、あまりに哀れに見えたのかもしれない。アトリが見かねたように、ツグミの前にヒザをついて言った。
「ツグミ、いいかい。君が哀しみに打ちひしがれているってことは理解できる。なぜそんなに悲しんでいるかってことも知っている。だから悲しむな、なんてことは言わないし、言えない。ただ、これだけは知っていてほしい。君の横にいる哀れな男は君の事をとても大切に思っている。他の誰よりも君のことだけを心の底から大切に思っている。だから君を悲しみから守ってあげたいと思っている。だから君と悲しみを共有しようとしている。君がこの場所に居つづけるならその横に居つづけようとしている。君が食事をとろうとしないなら、自分も何も食べないようにしている。君が生きるのを放棄しようとすれば、きっと彼も同じようにするだろう」
 ツグミは動かない。アトリは構わずつづけた。
「人は誰かと悲しみを共有できれば悲しさを減らすことができる。だからこいつは君の悲しさを少しでも和らげようと自分も悲しもうとしている。君と同じ悲しさを、苦しさを味わおうとしている。だからって君にどうしろって言うわけじゃない。そんな余裕は君にはないかもしれない。でもそんな風に自分のことを思ってくれる人がそばにいるってことだけは、けっして忘れないでくれ」
 ツグミは動かなかった。アトリは短くため息をはいた。
「イカル、パンは持っていろ。お前だけでも食べろ。食べないとそのうち倒れるぞ」
 アトリは立ち上がり、僕たちから離れていった。他の友人たちもアトリに続いて僕に声を掛けながら離れていった。
 ツグミは、静かに、ごく静かに座っていた。両腕でヒザを抱えてその上に顔をうつむけていた。僕はその横に座って、大部屋で遊ぶ子どもたちを眺めていた。しばらくして、ふとツグミが動いたような気がした。ツグミの方へ顔を向けた。ツグミは動いていないようだった。それでもしばらくそのまま見つづけた。どうすればツグミを元気にすることができるのか、どうすればまたあの笑顔を見ることができるのか、その方法が分からなかったから、ただ眺めていた。すると、ゆっくりツグミが動き出した。首を回して、顔を僕の方へと向けた。
 見上げるように僕を見るその目からは、涙が、こぼれ落ちていた。
 僕はホッと安堵した。たぶん嬉しそうにほほえんでいたんじゃないかと思う。
「ツグミ、お腹空いてないか。パン食べるか?」
 ツグミは目をそらして、そして小さくうなずいた。
「ほら、半分こだ」
 僕は片方のパンをツグミの前に差し出した。ツグミはゆっくり手をヒザから離してパンを受け取った。そして少しずつ少しずつ食べはじめた。その様子を見てから僕も食べはじめた。久しぶりに食物を口に入れたためか、妙に口の中がもさもさして食べづらかった。
「飲み物、取ってくるよ」
 僕はパンをポケットに入れながら立ち上がった。そしてそのまま水飲み場に向けて歩き出そうとした。すると、上着のすそを引っ張られている感じがして、首を巡らせた。
 ツグミは視線を足元に落としたまま、片手で持ったパンを少しずつ食べながら、もう片方の手で僕の上着のすそを握っていた。
「水を取ってくるだけだよ。すぐ戻ってくる」
 そう言いながらツグミの頭頂部に優しく手を置いた。その瞬間、感じた。はっきりとした繋がりを。
 ツグミは座り、僕は立っている。僕は手をツグミの頭の上に置いている、その姿が現実世界ではなく意識の奥で感じられた。決して表面的ではなく、普段はのぞき見ることさえできないような、意識のはるかな深奥で、僕たちは確かにつながっている、そう感じられた。
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