邂逅の中(9)

文字数 2,855文字

 僕たちが目を覚ましてから、一年が過ぎようとしていた。
 僕たちはいまだに保育棟の外に出たことはなく、いつも会う、大人たちと子どもたち以外の人にはほとんど会わなかった。ただ時々、知らない大人が数人やってきては僕たちの身体測定をして、注射をした。注射をされた日から数日は、みんな体調をくずして寝込んでいた。でも僕は平気だった。みんなが不思議がった。
 僕たちの知識はだいぶ増えたけど、本当のことは何も分かっていない気がしていた。僕たちの世界は、まだ棟の三階と四階に限られていた。ただ生きるだけなら不自由のない空間だった。でも大人たちから学べば学ぶほど、僕たちの心に、外の世界に対するあこがれの気持ちが芽生えていった。特にアトリは外に出たがった。実際に何度か試みて、失敗して連れて帰られた。その時は、いつもエナガかノスリかイスカを道連れにしていた。でも僕は誘われなかった。少し寂しかった。
 いつからか、僕はいつもツグミの姿を捜すようになっていた。授業中でも食事中でも遊んでいる時も、三階にいる時はどこかにいるだろうツグミの姿を捜した。その姿を見つけると、決まって彼女もこちらを向いた。視線が重なる、そのたびに僕の周囲から音が消える。周囲のすべてのものが視界に入らなくなり、ただ彼女のことしか見えなくなる。やがて、ふと我に返る。そんなことをくり返した。彼女に近づくでも話し掛けるでもない。でも視線は彼女を捜してしまう。なぜだろう、彼女が視界の中にいないと、何か物足りなく、つまらなく思えてしょうがなかった。
 最近、ツグミはメジロというコと一緒にいることが多くなった。以前より楽しそうにしている。笑顔でいる時間がはっきりと増えていた。
 メジロは比較的、黒目が小さかった。三白眼って言うんだ、とアトリが教えてくれた。その三白眼のせいで、メジロは普通に誰かを見ても、目つきが悪く思われ、ほかの女の子たちから、からかわれていたみたいだった。たぶんとても悩んだんだろう。そしてツグミの置かれた状況に人一倍共感して、なぐさめたかったのかもしれない。とても優しくツグミに接しているようだった。
 嬉しそうにメジロと話すツグミの笑顔を見つめる。こちらまで胸の中が暖かくなる気がした。
 
 ある日、いつものようにメジロちゃんと二人でホールに座っていると、視線を感じた。だから顔を上げた。
 あの男のコが、あたしを見ている。あたしと同じように友だちと二人で話をしている。でも、話しながらあたしの方を見ている。あたしは、いつものように、目が合うと、動けなくなる。視線をそらすことができない。ごく自然に彼のことを見つづける。
「あの男のコのことが好きなの?」
 メジロちゃん、突然、何を、言い出すの?と思いながら、あたしは、すぐ横にいる親友に視線を向けた。何か返事を、と思ったけど、何も言葉が浮かばずに、ただ、えっ、とか、あ・・いや・・えと、とかしか言えなかった。
「ツグミちゃんは、とっても分かりやすいわね」
 笑いながらメジロちゃんが言う、その言葉を聞いたとたん、汗がにじみ出てくるくらい、顔がとても熱くなったように感じた。すごく恥ずかしい気がして、下を向いた。な、な、なんで気づかれたのかしら?
「ツグミちゃん、いつもあのコのこと見つめているから、そうなんだろうな、とは思っていたけど、やっぱりそうだったのね」
 そもそもあたしは、その男のコのことを好きかどうかなんて、今まで考えたこともなかった。ただ、その姿を見ていたい、と思っていただけ。
 確かに、目が合うと、安心するし、嬉しい気持ちになるし、あたしの視界に彼の姿がなければ、何となくつまらなく感じたし、無意識にその姿を捜してしまっていた。
 けっして、彼のことが好きだから、と思ってそうしたわけじゃない。ごく自然にそうしたいと思ったから、そうしただけ。ただ、それが好き、ということなのだと言われれば、あたしは彼のことが好きなのだろう、たぶん。
「じゃ、話し掛けたらいいのに。見ているだけより、その方が仲良くなれるわよ。あたしが呼んできてあげるわ。待ってて」
 そうなんです。あたしの親友は、あたしのことになると、とても行動がすばやくなる。自分のことになると、めんどくさがって、どうでもいい、なんて言うけれど、あたしのことになると、あたしがたいして気にしていないことでも、むきになって行動を起こす。
 その時もそう、あたしが止める間もなく立ち上がり、彼の方に小走りに駆けていった。あたしはあわててその後を追った。

 僕がアトリと話しながら彼女のことを見ていると、急にメジロが立ち上がって僕たちの方へ駆けてきた。僕はその存在は知っていたけど、話したこともないメジロが僕に用があって近づいてきているとは思わなかったので、声を掛けられるまで、その場でただ立ちつくしているだけだった。
「ねえ、ちょっといい」
 そんなことをメジロは言ったと思う。最初はアトリに用があるのかと思った。二人でいる時に、声を掛けられた場合、ほぼ間違いなく、その声の主はアトリに用があったから。でもメジロの身体も視線も僕の方に向いていた。僕は、突然のことにただ、ああ、と答えただけだった。
「このコがね。あなたに興味があるんだって」
 メジロは、少し後ろを振り返り、ツグミのことを指さした。その時には、ツグミも駆け寄ってきており、すぐにメジロの手を取ってしどろもどろになりながら声を掛けていた。
「メジロ・・ちゃん、やめ・・て・・こっち・・来て」
 真っ赤にした顔をうつむかせたまま、ツグミはメジロの腕を引いて、僕たちから離れていった。その姿をぼうぜんと見つめていた僕に、アトリが声を掛けた。
「良かったな。お前、あのツグミってコのこと、好きなんだろ」
 あわててアトリの顔を見た。アトリはニヤついていた。僕の顔に、何で分かったんだ?という表情が浮かんでいたのだろう、アトリが言葉をつづけた。
「あんだけ、あのコのことばっかり見てたら、誰だって気づくだろう。お前の周りで気づいてないヤツなんていないぞ。逆によくあれで気づかれていないと思えたな」
「何言ってんだよ。そんなこと・・・」
「ないのか?」
 僕は急に恥ずかしくなった。生まれて初めて、人を好きになるという感情を自覚した。
「とにかく良かったじゃないか。彼女の気が変わらないうちに、仲良くなっておいた方がいいんじゃないか。協力するよ」
 照れくさくって、早く話を打ち切りたいと思う反面、ツグミとの仲が進展しそうな予感に、少し心が躍っていた。アトリと友だちで良かったと思った。
 ただその頃、子どもたちの中で、急に体調不良を起こす子どもが何人か現れた。
 その子どもたちは、すぐに外に連れていかれた。病院に行くのよ、と大人たちが教えてくれた。
 その数は日に日に増えていった。棟全体の雰囲気が重く暗くなっていった。
 やがて、メジロも、倒れた。
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