忘我の中(4)

文字数 5,718文字

「七十三番、お取込み中だったみたいだね。もう大丈夫かな、話をしても」
 不思議な声だった。最初は男の子の声に聞こえた。幼児と言っても差支えのなほどの幼さを感じる声だった。しかしすぐに老人の声に聞こえた。更に、中年男性の声にも聞こえた。一定して落ち着いた声だったが、その印象はまったく一定した感じのない玉虫色の声だった。
「マスター!」思わずナミは叫んでいた。
 何てこと、マスターが直接、霊に連絡をするなんて。考えられない、どうしよう、何を話すべき?ナミの頭の中は、音が立ちそうなほどにフル回転していた。
「はい、もちろん。何か御用でしょうか」
 一目で分かるほどナミは動揺していた。誰と話しているのだろう、タカシはいぶかしく思いつつ、ナミの様子を眺めていた。
「業務に支障が生じるほどの異変が君に起きているようだ、とアナから連絡があってね」
 アナの奴、いきなりマスターに報告するなんて、血も涙もありゃしない。そう思いながらナミは、どう返答するべきか考え続けていた。
「とにかく、君は新しい契約を取ってきたみたいだし、その関係で手が離せなくなっているのかもしれないが、アナの指示に背いて、独断で動かれると、チーム全体の業務に支障が出ることは、賢明な君なら了解済みだと思うのだが」
 相手の声はナミにしか聞こえない構造になっていたので、タカシには相手の声は聞こえず、その内容は分からない。だから尚更、今、ナミがかもし出す深刻な雰囲気に、落ち着かない気分になっていた。しかしナミは、そんなことはまったく気にする余裕などないと言わんばかりに、終始緊張感を全身にただよわせていた。
「それは、もちろん、了解しております」
「君は、僕のチームで一番の成績優秀者だ。よく働いてくれていると思う。だが、そんなことで調子に乗ってもらっては困るんだ。代わりはいくらでもいるんだよ。独断で動くということは、僕の決定や策定したプランを遂行する気はないということか。そんな霊はチームに必要ないな。チームに、チームの業務に必要ないなら君の存在している意義は皆無だ。いいか、これだけは忘れるな。僕はいつでも君を消滅させることができる。ごく簡単にだ」
「・・・もちろん、分かっております・・・」
 ナミの唇が、声が細かく震えていた。こめかみ辺りから、汗が一筋ほおを伝って流れ落ちた。
「さて、一つ君に選ばせてやる。君の担当する男のことだが、君が送りに行くのか、他の者に行かせるのか。どうする?行くなら今すぐに行くことだ。僕は君の逡巡に付き合うほど気が長くない。どうする?行くのか、行かないのか」
 ナミの、普段から姿勢の良い背筋が、さらに伸びて硬直した。
「行きます、今すぐ」
「よろしい。その処理が計画通り済めば、今回の事は目をつぶっておいてやる。ただ次はないと思えよ。僕は独断で動く奴と僕の指示に従わない奴が、とても嫌いだ。そんな奴とは一緒に働けない。そんな奴は、すぐに消滅の憂き目に遭う。けっして忘れないように」
「分かりました。申し訳ございません。以後、気を付けます・・・」
 最後の方は消え入りそうなか細い声だった。通信は一方的に切られた。あまりの恐怖にナミは膝から崩れ落ちそうになったが、かろうじて壁に手をついて体勢をたもった。
 ナミの口調や今までに見たこともない狼狽の様子に、通信の相手がナミにとって最重要な人物であることは推測できた。
 会話の雰囲気から察すると、おそらくナミはここにいてはいけないのだろう。たぶんそれはもう決定事項、彼の知らないところですでに決まっていて、どうしようもできない事柄なのだろう。彼も社会人になって、そんなことは本人の好むと好まざるとに関わらず、数多あることぐらいは分かっていた。自分の人生でも自分の思い通りにならないことがある、いや、そういった事柄の方が多いことを彼も実体験で学んでいた。だから今は、こう言うしかなかった。
「ナミ、行っておいで。こっちは心配ない。ちゃんと仕事を片付けてから、また戻ってきてくれよ」
 ナミは顔だけで振り返り、流し目で彼の顔を見た。また適当な事を言って、そう思いつつ、視線の先で微笑む彼が、自分の置かれた状況を察して言ってくれているのだろうと思い、少しだけありがたいと思った。
「さぁ、早く行ってこい。ぼーっとしている間に、仕事の一つや二つ片付けてこいよ。さ、行けって、早く」
 ナミは、彼の微笑みにつられて少し笑った。全身は畏怖の念に包まれていたが、それに反して少し笑ってみた。少し気分が和らいだ気がした。
「あんたバカ?そんなに簡単に済む仕事じゃないのよ。とりあえず今からちょっと行ってくるけど、くれぐれも大人しくしているのよ。身を隠して、危険な事には近づかないように、いい?」
「分かってるよ。いってらっしゃい」
 ナミはジッとタカシを見た。そして目を閉じて一瞬にして消えた。

 ノスリの髪の毛は汗でぐっしょり濡れていた。顔や首筋に幾重にも汗が流れていく。背中や脇も濡れて下着が肌に貼り付いている。銃を持つ手が震えている。
 頭上にあるケガレの固まりは、ただよいながら次第にうねるように形を変化させていた。何かを捜しているかのように辺りをうかがっているようだった。
 そんな目の前の場景に実感がなかった。作り物の映像でも見せられているような気分だった。自分の呼吸音だけが激しく聞こえた。それに混じってどこか遠くの方から声が聞こえる気がした。
「おい、ノスリ、大丈夫か?」
 その声が急に、すぐそばから聞こえた。ノスリは一瞬にして現実に引き戻された。
「おい、しっかりしろ。とりあえず汗すげえぞ」
 声が聞こえた方に顔を向けると、エナガが自分のタオルを差し出しながら見上げていた。
 ああ、と言いつつ、ノスリはタオルを受け取り、顔と頭の汗を拭いた。その時、エナガ班副官のセッカが二人の方に駆け寄ってきた。
「この道の先で、逃亡者、三名発見。距離およそ五百」
 ノスリの身体がビクリと揺れた。また激しく手が震えた。ノスリは歯を喰いしばり震えを止めるべくHKIー500の銃身を固くにぎりしめた。
「よし、行くぞ」
 勝手に周囲の状況に反応しようとする自分の身体に言い聞かせるように、不要に大きな声を出した。その声を受けて、エナガとイスカが自らの班の班員に向けて口々に声を掛けた。
「前方に逃亡者発見。距離五百。全員、攻撃態勢を取りながら前進」
 全員、周囲を警戒しながら先に進んだ。もう少しで反逆者たちの姿が見えるだろう、と予想される地点まで来た頃、ノスリの通信器に着信が入った。本部からだった。
「・・地上・・路入り・・より、ケガレ侵入、・・A地・・塔に向かっている。治安部隊員は・・・A地区・塔・・至急集結されたし。くり・・す。大量のケガレが・・地区、塔に向かっている。すでに襲来したものは・・塔を囲み・・塔を取り込もうと・・・ブツッ」
 ノスリたちはいったん道沿いの家屋の陰に身を隠して通信を聞いた。
「どういうことだ。大量のケガレがこの都市に侵入したってことか?」
 ノスリは、更に詳しく事情を調べるために、情報委員長に連絡をとるべく通信をこころみた。しかし雑音ばかりでまったく通じる気配がない。どうやら本部にある固定通信器は何とか使えるようだが、各自携帯している通信器では電波が乱れて使用が困難な状況になっているようだった。
 とにかく現状、指揮系統が途絶えている。ここは現場の指揮官である自分が判断しないといけない。
「ケガレがこの都市に侵入してきたんだな。こうしちゃ、いられない。すぐに戻ろうぜ。塔を囲んでいるとか言ってなかったか?お方様が危ないんじゃないか」
「そうだな。今は反逆者どころの話じゃなくなったみたいだ。本部の指令通りに動くべきだろう」
 そのエナガとイスカがそれぞれ言う意見を反芻する。確かにそんな気はするが、もう目前にイカルとツグミがいる。彼らをそのままにして退去するべきではない気がする。それにあの男も一緒にいるのだろう。あの男をそのままにして、逃げられて、永遠に見つけられなくなったりしたら、それこそ死んでいった仲間たちに申し訳が立たない。
「今の通信は雑音だらけで内容がはっきり確認できなかった。それに自分たちに向けられたものかどうかも分からない。現状は情報委員長の指令が生きている。このまま進むぞ」
「ちょっと待てよ。ちゃんと内容聞けただろ。本部命令だろ」
 エナガの声をノスリは無視して進んでいった。エナガは尚も声を出そうとしたが、その肩をイスカが叩いて、そのままノスリについて行った。エナガは仕方なく二人の後を追った。それぞれの班員も後に続いた。

 タカシは、頭上に集まり色を濃くしていくケガレたちが、攻撃をはじめる前に更なる対抗手段を得ようと、イカルが持っていた銃を手に取り、その仕様を見定めようとした。しかし引き金を引いても、うんともすんとも言わず、こねくり回しても何の反応もなかった。安全装置を解除、とも思ったが、それらしき部位も見出せなかった。そもそもこのHKIー500という銃を使うためには生体認証か銃ごとに定まっているコードの入力が必要だった。しかし、タカシがそんなことを知っているはずもなく、あきらめて足元に置いておくしかしかたがなかった。
 ケガレたちはいつ襲撃してきてもおかしくないほどに真っ黒になり、一つの固まりとして頭上にただよっている。
「ツグミ、ツグミ大丈夫か。逃げるぞ」
 そう、かたわらで座り込んでいるツグミに声を掛けてみるが、一向に反応がない。気を失っているのか、まったく動く気配がなかった。その肩に小さな黒い塊が三つ乗っている。
「おい、ツグミ、お前、どうしちまったんだよ。答えろよ。おい」
「ツグミちゃん、ケガレがまた固まってきたの。逃げないといけないの。起きるの」
 コリンとタミンが必死に思念を送ったが、まったく反応がなかった。
「ツグミ殿はここにはおられん。今、イカル殿の心の中に入っておられる」
 憂いを含んだ思念を、ウレンが送った。
「そんなことができるのか」
「イカル殿とツグミ殿には、特別な繋がりがあるようだ。今、イカル殿の心は無防備だ。そこにツグミ殿が強く望んだためにつながった。ツグミ殿は今、イカル殿の中にいる。今、お二人を動かしてはならない。今、繋がりが切れてしまっては、ツグミ殿は自分の中に戻ってこられなくなるかもしれない」
 ケガレの渦の中から、ぼこぼこと突起が出はじめた。少しずつ少しずつ、次第に伸びてくる。それを見ながら、時間がそれほど残されていないことをタカシは悟った。今すぐに二人を移動させないと。しかし二人の周りには小さくて黒い生き物が囲んでいる。抵抗されるだろうか。しかしツグミは敵ではないと言っていた。
「なあ、君たち。もうすぐケガレが襲い掛かってくる。その前にこの場を離れようと思う。手伝ってくれないか」
 タカシはコガレたちの群れに向かって説得してみた。ツグミはこの小さな生き物たちと話していたみたいだが、自分の声が届くかどうか。
 タカシの近くにいた分身たちは首をかしげて、何を言っているのか分からない、という顔つきをしていた。やはり難しいか、タカシがそう思うと同時に、ツグミの肩から丸い体形をしたコガレがするすると降りてきて、分身たちの前に進み出て止まった。そしてキーキキ、キーキキと彼に向かって声を上げた。
「今、二人を動かしてはいけない、って言っているのか?」
 しばらくタミンの声を聴いた後、タカシが言った。タミンはあれ?この人に声が届いている?と思った。更に声を上げてみた。
「ツグミが戻ってくるまで自分たちが守る、って言っているのか?」
 またしばらく聴いて言った。やっぱりこの人、あたしの言っていることが分かっているみたい、タミンはそう思ったが、イカルとしてはタミンの口調や迫真の模写演技や大きすぎる身振り手振りから予想して、言ってみただけだった。
“もしもーし、あたしの声が聞こえるの?”と、ためしにタミンは思念をタカシに送ってみた。でもタカシはただ首をかしげるだけだった。と、その時、頭上の固まりの中から一本の棒状のケガレが、彼らの方に勢いよく伸びてきた。
「来たぞ、総員迎撃せよ」
 ウレンの激しい思念が周囲に向けて発せられた。コガレたちは全員腰を落として身構えた。タカシはコガレたちのその姿を見て、たちまち振り返った。伸びてきていたケガレはその突先を開き、鋭く黒い牙を見せながら目前まで迫っていた。
 タカシはとっさに、右手をそのヘビ状のケガレに差し向けた。黒ヘビは更に大きく口を開いてタカシの腕を呑み込もうとした。そのとたん、黒ヘビの口が上下に大きく割けていった。更に竹を割っていくように奥へ奥へと割れていき、そして霧散した。
「すげえ」
「なんなの?すごいの」
「さすが選ばれし方様」
 コガレたちが次々につぶやいている間に、頭上の固まりからは更に突起が伸びはじめていた。いつ勢いをつけて襲ってくるか分からない状態に見えた。
「気を緩めるな。更にくるぞ」
 ウレンの思念が他のコガレに届くかどうかのタイミングで、固まりが数か所破裂した。
「急ぎ、エネルギーを充填しろ。エナガ班、イスカ班は引き続きケガレを攻撃、我が班は反逆者の捕縛に向かう」
 ノスリの声が聞こえる。しまった、ウレンはうめいた。ツグミとタカシとケガレに気を取られて他の侵入者への警戒を怠った。
「あっちは俺たちが対応する。お前たちはツグミを守れ」
 コリンが言うが早いか自分の分身を引き連れて、ノスリたちの進行方向に展開した。
 ケガレは次々に棒状になり黒蛇となって彼らに襲い掛かってきた。その多くをエナガ班とイスカ班が狙い打った。撃ちもらされたケガレが、タカシとイカルに向かって伸びてきた。一匹はタカシが霧散させた。残った数匹をコガレたちが迎撃して霧散させた。
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