感応の中(6)

文字数 5,747文字

 トビは足元に転がっていた銃を、向かってくるケガレたちの群れ目掛けて蹴り飛ばし、それに向けてエネルギー弾を放った。その破裂が銃の中のエネルギーの破裂を誘発して、大きな爆発が起きた。少しだけケガレのいない空間ができた。その空間から少し外れたトビの視界の端にアビの姿が見えた。
「アビ、こっちに来い」
 アビにはその声は聞こえていないのか、視線の先にある黒い塊に向かって手を伸ばしながら近寄ろうとしていた。トビはとっさに駆け寄ってその上着のえり首をつかんで下がらせようとした。
「先輩がー、先輩がー」
 そう言いながらアビは引きずられていった。もうこいつはダメだ、戦えない、トビはそう思いながら仲間のもとまでアビを引きずっていった。それにしてもあれは何なんだ?ツグミが襲われた瞬間を見ていなかったトビは、視線の先の黒い塊を眺めて思った。
 その塊は人の背より大きく、丸く、漆黒に染まり、その表面はうごめくように流動的に動いていた。
 その黒い塊の中にツグミはいた。
 全身が圧迫される。息苦しい。身動きが取れない。口や耳や鼻から体内に次々にケガレが侵入してくる。抵抗しようにもなす術がない。体内に侵入したケガレたちは一直線に彼女の脳内を目指して移動した。彼女の感情に到達することだけを志向しているようだった。
 それが瞬く間に、脳内の感情をつかさどる部位に到達したことを彼女は察した。
 怒濤のように外から感情が押し寄せてくる。間欠泉のように内から感情が噴き出してくる。怒り、悲しみ、落胆、鬱屈、目まぐるしく感情が頭の中で渦巻いていた。
 これは何?感情?誰の?あたしの?辛い、苦しい、悲しい、もうやめたい、ゆっくりと眠りたい、すべてを忘れて・・・。
 彼女はうつむき、ヒザを折り、身体を前傾に屈めていった。足元が近い。
 声が聞こえた。とても遠く深い場所から何かを叫んでいる。それは、いつも聞いていた声、優しい声、暖かい声、大好きな声・・・。
“・・・ツグミ、しっかりしろ。早くそこから脱出するんだ!早く”
 出たいとは思っているのよ。でも無理かも。ケガレは更に彼女の背中にのしかかり、体内に侵入してきていた。
 苦痛に顔がゆがむ。自分の奥深くからイカルの叫ぶ声が聞こえる。このままならあたし死ぬわね。そう思ったが、死ぬ恐ろしさより、ケガレが体内に侵入してきた違和感からくる吐き気が勝っていた。とんでもなく気持ち悪い・・・。
 抑えきれずにツグミは嘔吐した。ツグミはその日、二食分の隊から支給された固形の栄養補給食と水分をいくらか摂取していたが、それをはるかに上回る量の真っ黒い液体状の吐瀉物を吐き出した。
 彼女は数秒間吐きつづけた。一度、体内からの逆流がやんだが、また吐き気が込み上げてきて数秒吐きつづけた。そして体内にあるすべての内容物を絞り出すような嘔吐がやんで彼女は荒く息をついた。足元には黒い水溜まりができていた。周囲はケガレに包まれ密閉状態だったので、鼻孔を刺激する酸っぱい悪臭がいつまでも辺りに充満していてさらなる吐き気が込み上げてきそうだった。しかし彼女の胃袋にはもう何も残されておらず、ただうめき声をもらずばかりだった。
 悪臭に包まれてはいたが、吐けるものをすべて吐いて、気分はすっきりしていた。そんな彼女に向けて再びケガレが襲い掛かってきた。また体内へと侵入しようとする。顔を振り、手で払い、身体で避けながら必死に抵抗を試みた。こんなこといつまでももつはずはない。体力がもたない。そのうち殺されてしまう。イカルを助けることができない自分への無力感にさいなまれながら苦悶の表情を浮かべて死んでいかなければならない。
 胸の奥底からの声が間断なく聞こえる。必死にあたしを勇気づけようと、あたしに力を与えようと声を張り上げている。喉が裂けんばかりの声、血を吐き出さんばかりの声、イカルの声。
 ここで死ぬ?イカルのこともあきらめて?・・そ・・・そんなのいや!こんなところであきらめられない!あたしがイカルを助けるの!そのために、そのために、あたしは、生きるのよ!
 彼女の脳内で、突然、耳をつんざく甲高い動物の鳴き声がとても強く、とても長く鳴り響いた。それは先の戦闘で消えていったタミンの分身の声。彼女の身体に入って彼女の力になろうとした分身の声。それは彼女を鼓舞する声にも、何かを呼んでいる声にも聞こえた。
 許せない、許せない、イカルの班員を、イカルの笑顔を、イカルの声を、イカルの手を、イカルを、あたしから奪おうとするなんて、彼女はつぶやきながら身体を起こした。のしかかられて屈まざるを得なかった姿勢から、ぐっと上体を伸ばした。そしてゆっくりと足を前に出した。一歩、一歩、ゆっくりと、だが確実に前に出していく。
 ノスリやトビやエナガたちは自分の身を守ること以外には一片の余裕すらなかったので気づかなかったが、流動的に表面をうごめかせている黒い物体がゆっくりと、じりじりと塔に向かって移動していた。
 その間もツグミの身体の中にケガレが次々に流入してきていた。彼女はそのすべてを吸収した。さえぎる術さえ見出せなかったので、流れ込むままに受け止めていた。しかしそのすべてにあらがった。そのすべてに上回る感情が彼女を包んでいた。頭の中でも彼女は進んでいた。入り込んでくる自分のものではない感情をかき分けて、光の見出せるだろう方向へただ真っ直ぐ進んでいた。
 重い、苦しい、つらい、彼女の身体が悲鳴を上げていた。しかし感情はそれに屈することを許さなかった。心の方が尚更、重く、苦しく、つらかった。だから彼女は歩いた。時々、あまりの気分の悪さに嘔吐しながらも、ひたすらに歩きつづけた。
 すると遠くから声が聞こえた。
「今、助けに行ってやるからくたばんなよ」
「わたしたちは最強の援軍なの。安心して待っててほしいの」
「総員、全速前進!我らが存在の証を世に示せ!総員、突撃!」
 瞬く間に声は近づいてきた。
 その黒く小さな一団はすさまじく速かった。他にはまったく脇目も振らずに一直線にツグミのもとまで駆けてきた。そしてツグミを包んでいる黒い物体に飛び掛かり、ただひたすらに狂暴という形容がふさわしい様で攻撃した。
 ツグミの心に小さな希望の火が灯った。まだ味方が、援軍がいた。そして目の前の壁から小さな光が漏れ入ってきた。
 獰猛なうめき声が聞こえる。乱暴にケガレの塊をはぎとり、引きはがし、ツグミの目前の穴を広げていった。
「何してる、早く出て来い」
「一緒に行くの。塔に行くの。早く出るの」
 穴の端から小さなコガレと丸いコガレの顔が見えた。ツグミはあわてて、身体中にまとわりついている黒い塊を引きはがし、腕や足を抜き出してコガレたちが待つ、外界に出ていった。
「全員、縦列突撃態勢で塔に向かう。行くぞ、突撃!」
 我々の後についてきてください、という細長いコガレの言葉にツグミは大人しく従った。
 十五匹ほどになっていたケガレは細長い陣形を組み、塔に向かって全速で駆けた。ツグミは最後尾にいた。ウレンとコリンとタミンがしっかりと脇についていた。場を埋め尽くすように存在しているケガレの中を、彼女たちは突き刺すように突進した。待ち構えているケガレがあれば先頭の分身が対応し、その次にいる分身が先頭に代わった。少しずつ数を減らしながらその一団は塔に近づいた。
 もうすぐ塔に着く、そうツグミが思う頃にはコガレたちの先頭はもうそこにいた。多くの分身が消えたか、他の場で戦闘中だった。
 ツグミはただ塔の中に入ることだけを志向した。コガレたちもそれを望んでくれている気がした。これまで犠牲になった分身たちのためにもここで留まるわけにはいかない。鎮痛剤のお蔭か全身の痛みはあまりない。でも言うことを聞かない部位がたくさんある。それを無理矢理動かしながらとにかく走る。コガレたちに置いて行かれないように、とにかくついていく。
 後方から大量のケガレが追いかけてくる。怒濤のように押し寄せてくる。
「お前、足、遅せえよ。もっと急げ!俺たちより足長いくせに、なまけてんじゃねえぞ」
 そう言いながらコリンが反転して追いついてくるケガレたちに向かって突進した。
 ツグミはその様子を分かっていたが、走りつづけた。その場に立ち止まればきっとコリンに口汚くののしられてしまう。その気持ちに感謝しながら駆けた。塔の入り口はもう目前だった。
「あたし、あなたを守るの。だから安心するの。早く中に入るの」
 タミンもそう言うと反転して後方から襲い掛かってくるケガレに突撃していった。
「我々が入り口を守っています。ご武運をお祈りいたします」
 ウレンがそう言って塔入り口の前に立ち止まり、目前に迫ったケガレたちを待ち構えた。
「ありがとう、みんな、また後で」
 お互い、もう後なんてない状況でしかなかったが、ツグミはあえてそう思念を送りながら塔の中に突入した。

 そこは灰色の空間だった。かつての発光石で埋め尽くされた光輝く場景ではなかった。ケガレが内部に侵入したのだろう、壁や床や天井にケガレが貼り付き、色を染めていったのだろう。そしてその形状も、全体的に融解して原型を留めていない有り様だった。通路もすっかり塞がっていた。
 ツグミは灰色に染まった壁に手を触れた。何の反応もなかった。もう動いてくれないのかしら、こんなに暗い色に染まってしまったから、もうあたしの願いには応えてくれないのかしら。
 ツグミは両手を壁につけ、目を閉じ、頭を下げて、ただ集中した。
 自分がケガレを吸収できることは、小さい頃から何となく分かっていた。大人たちに言われたこともあるし、自分で自覚することもあった。それならこの塔に溶け込んでいるケガレを私が吸収すればいい、発光石を染めるケガレがいなくなればお方様も再び力を取り戻すことができるはず。お方様さえ元気なら、ケガレの勢力も制御され、タカシ様もお方様のもとに行くことができるはず。そして、イカルも助かるはず。
 ツグミは頭の中に、ただ灰色が自分の両手に集まって、自分の身体の中に入っていくイメージを思い浮かべた。どんどん両手に集まって、次々に両手から自分の中に入っていく。
 動きはなかった。しかしツグミはそのままつづけた。それが唯一の方法だと信じてただつづけた。
“やめろ、ツグミ、バカなことをするな”
 まったく心配性なんだから、そう思ったが、今はちょっと邪魔しないで、とも思った。
“どれだけの量のケガレがこの塔の内部にいると思っているんだ。ちょっと見ただけでもかなりな量だ。さっきお前の体内に侵入してきたケガレもまだ残っているだろう。そんな状態でこの量のケガレを体内に取り込んだら、きっとただじゃ済まない。死んでしまうぞ。そんなのダメだ。やめろ、班長命令だ”
 ツグミは苦笑した。まったくイカルったら本当に心配性で、優しくて、かっこいいんだから、そう思いつつ、声に出さずに言った。
「言ったでしょ、あたしはあなたを守るためならなんだってするの。その邪魔は誰にもさせない、それが、たとえ、あなたでも」
“やめろ、お願いだからやめてくれ”
「イカル、これはあたしのことだから、あたしが決めないといけないの。ちゃんと自分で決めないと、あなたと一緒にいる資格がない気がするの。だからあたしのことはあたしが決める。分かって」
 ・・・イカルの声がやんだ。
 ツグミは再び集中力を上げた。ただケガレを吸収するイメージだけを頭に思い浮かべていた。やがて小さな波紋が彼女の両手を中心に、辺りにごく静かに広がっていった。
 両手が壁の中に入っていく感覚、彼女は目を開いた。両手が壁の中に埋もれていた。両手の周囲が動いていた。もぞもぞと灰色が動いて彼女の両手に集まり出していた。それは次第に広範囲に広がっていった。床も天井も壁も周囲全ての灰色が動き出していた。彼女の両手に向かって移動していた。
 一度、集まり出すと後は順調だった。次第々々に速度を速めながら灰色たちは彼女の両手に集まった。そして次々に彼女の身体の中に入っていった。
 彼女はすぐに自分の許容量の限界を感じた。頭が重く、胸が苦しく、息がしづらい。頭が痛い、節々が痛い、眼球が痛い。目玉が飛び出してきそうな気がする。気分が著しく悪くなっていく。吐き気がする。
 そんな彼女の状態を無視してケガレは更にやむことなく彼女の体内に入り込んでいく、流れ込んでくる。次々に量を増していきながら。
 彼女は身体と精神から力が抜けていく感覚を抱いた。身体も精神も徐々に誰かに支配されていくような気がする。自分のものだという感覚が次第に薄れていく。意識が薄れていく。
 ああ、ダメだ、あたし死ぬんだ・・・・・・・・・・
 もう感情も湧いてこなかった。ただ自分の状態をそう感じていた。
 意識が薄れていく。暗く深い淵に沈んでいく・・・・・・・・・・・・・・・もう終りね。これで終わりなのね。散々な人生だったわね。あたしの人生つらいことばかり起こったわ。何であたしばっかり、そう、いつもいつも思うくらいに。
 頭の中に今までのつらい出来事が次々に浮かんでくるのだろう、と思った。これまでの人生を象徴するかのように。
 でも、浮かんでこなかった。怒りや悲しさなんて不思議なくらい欠片もそこにはなかった。代わりに笑顔や言葉や手のひらがあった。それは彼女のこの世の中で一番のお気に入り、一番の宝物、一番大切なイカルの笑顔であり、言葉であり、手のひらだった。
 それにまじってアトリやノスリやミサゴやエナガやトビやイスカたち、仲間たちの顔が次々に浮かんだ。あたしのことなんて気にしていない、と自分が勝手に思っていた人たち。でも自分が気づいていないだけで、いつも心配してくれていた人たち。自分は避けていたにも関わらず、慕ってくれたアビやイカル班の班員たち、そして元気だったころのメジロの姿やヒゲの先生やマヒワ先生の姿も浮かんできた。
 みんながあたしのことを気にかけてくれた、みんながあたしの名前を呼んでくれた・・・みんなが、あたしの、名前を・・・・・・
 ああ、なんだ、あたし、幸せだったんだ・・・
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