深層の中(5)

文字数 4,909文字

 ツグミは振り返った。そこには解放されたモズとともにトビとエナガがいた。おそらく状況の報告をしているのだろう。
 ツグミはすぐさま三人のそばに移動した。
「隊長」
 モズの前にツグミは立って敬礼した。モズはすぐに答礼の後、微笑みながら口を開いた。
「ツグミくん。この作戦の指揮は君がとったそうじゃないか。すべて二人から聴いた。見事な陣頭指揮であった。大変なお手柄だ。昇進は間違いない。ご苦労であった」
 モズにとって、ツグミは大した能力のない、目立たない兵士の一人でしかなかった。イカルの班にいることで、とくに支障もなく業務をこなすことができていたが、社会性に乏しく、班外での活動ができないという問題を抱えた、控え目に言っても評価の低い部類の兵士だった。そのツグミが陣頭指揮に立ち、自分や拘束されていた兵士たちを解放したのだ。聴けばそれ以外にも一人で白い塔も委員たちの手から奪還したという。この小さな身体のどこにそんな力が、智慧が隠されていたのか、自分の人を見る目を疑わざるを得なくなったモズだった。
「隊長、お方様からの指令です」
 モズは目の前の女の子が、自分の手柄をほめられ、昇進を約束されて喜ぶものと思っていた。しかしツグミはそんなことにはまったく興味を示す様子もなく、意志を視線に込めながらニコリともせずに言った。
「お方様の指令?」
「はい、塔の中でお方様から直々に指令を受けました」
「君がか?」
 モズは一方ならず驚いた。自分ですらそのお姿を目にする機会がなく、話をしたことなどついぞない。それなのにこのコは直接指令を受けただと?
「はい」
「どんな、指令かな」
「選ばれし方様をお方様のもとにお連れしろ、そういう指令でした」
「選ばれし方様を?」
「はい、今現在、選ばれし方様は深層牢獄に幽閉されています」
「うむ、存じておる」
「それが今、深層牢獄にケガレが出現しています。一刻も早く、選ばれし方様を助け出さないといけません」
 そんな地下深くまでケガレが出現したのか、とモズもトビもエナガも驚きを隠せなかった。しかし、深層牢獄は発光石の層の外に築かれている。あり得ないことではない。
「だからすぐに行きます。行かせてください」
 意志の力の籠った視線を、じっとモズに向けていた。毅然とした姿勢で立っていた。話の筋は通っている気はするが、何せ情報が少なすぎる。
「モニターに深層牢獄のすべての画像を映せ」
 モズはそう言いながらモニター壁の方へ歩き出した。ツグミもトビもエナガもその後に続いた。
 画面には、いたるところに黒犬や円盤の姿、黒衣の者に憑依されたであろう看守や囚人の姿、そして天井や床や壁面から噴き出す黒霧の様子が映し出されていた。モズもトビもエナガも絶句した。もう人は人として生存できる場所ではない、としか思えない場景だった。
「ツグミくん、お方様の指令は確かなんだな」
 かろうじてモズが声を発した。
「はい、間違いありません」
 ツグミの声には何のためらいもなかった。しかしこのような状況に踏み込むのは自殺行為でしかない。それに現状エレベーターなどの移動手段が断絶しているため深層牢獄に行くことすら困難だろう。いくらお方様のお言葉だとしてもあきらめるほかあるまい、そうモズは思考した。
 建物の外、離れた場所からエネルギー弾のものと思われる破裂音が聞こえた。全員が塔が映っているモニター画面に視線を向けた。
 塔の光が弱まっていた。ケガレの層が先ほどより下がってきていた。よくは見えないが、どうやら円盤や黒犬も再び発生しているようだった。
 モズは瞬時に判断した。
「全隊で塔を守護する。各自武器を携行し、塔に集結せよ。三名、通信担当者を残し本部内の職員も全員塔に向かう。急げ」
 モズの指令に本部内はたちまちあわただしくなった。
「待ってください!深層牢獄は、選ばれし方様はどうするんですか」
 ツグミはとっさに声を上げていた。モズはツグミに視線を向けずに言った。
「すでに選ばれし方様を救い出す事は不可能だ。あきらめろ」
「でも、でも、お方様の指令です。あきらめることなんてできません!」
 モズのごく冷たい視線がツグミに向けられた。もちろん上官の指令に背くことはご法度である。しかもモズはこの治安部隊の最上官なのだ。
「無理だ。あれだけケガレが出現している。選ばれし方様が生存しているかどうかも分からない。それに現状、深層牢獄に行く手段もないだろう。今は塔とお方様をお守りすることが最優先だ。人数を他に割くことはできない」
 兵士たちは、武器庫からHKIー500を取り出し、外へと移動するべく準備をしていた。準備が整った班や部署から順次塔に向かって移動をはじめた。
「今、我がイカル班の班員とイスカ班の班員が、ノスリ隊員に率いられてB1区画に救急車両の調達に向かっています」
「何?」
 モズは、とっさに理解した。なるほど救急車両なら深層牢獄まで行くことができる。
「お願いします。私一人でも行かせてください。必ず、必ず選ばれし方様を連れて戻ってきます」
 このコがこんな大口をたたくコだったとは、そう思いながらモズは若さゆえの向こう見ずな意見に苦笑した。浅はかで、短絡的で、とことんまっすぐだ。そんな若者らしさをモズは嫌いではなかった。普段なら失敗覚悟でそういった意見を尊重してもよいと思うたちだった。しかし現状、そうも言っていられない。
「君はケガレが怖くないのかい?」
 モニターで見ただけでもかなりの数のケガレがいるようだった。十年前の記憶がよみがえる。自らの中には恐れしかない。そんなモズの言葉にツグミはためらうことなく即座に答えを発した。
「あたしが怖いのはただ、大切な人を失うこと、それだけです」
 モズは再び苦笑した。もちろんお方様の指令に背きたくないし、この怖いもの知らずの若さに賭けてみようという気にもなっていた。
「分かった。では君はノスリ班とイスカ班に合流し、深層牢獄に選ばれし方様の救出に向かえ。ただちにだ」

 深層牢獄の入り口にある重厚な扉を入ると、半円状のエントランスホールがある。そのホールの曲線部分に、放射状に五本の廊下が伸びている。そのどれもが、いくつかの扉を経た後、中ほどから先が獄舎という作りになっていた。
 エントランスホールから各廊下に入る箇所の扉も、奥に進んで獄舎に達する場所の扉もその間の扉も、すでにケガレの手によってすべて開かれていた。
 無数の黒犬と黒い円盤がホールと廊下と獄舎をしらみつぶしに捜索していた。選ばれし方を、タカシの姿を捜し回っていた。
 その頃、タカシは自分にあてがわれた独房に座して、何をすることもないのでジッと身動きもせずたたずんでいた。
 その頭の中は、ただの空虚が広がっていた。無味乾燥な茫漠とした空虚。音もなく光もない。孤独。ただの孤独ではなく濃密なべっとりと身体を包み込むような、どうやっても抗うことができない、目を背けることもできない孤独だけがその空虚から感じられた。まるで自分のすべてをはぎ取られたような、何もない誰もいない知らない場所に何も持たずに置き去りにされた感覚。あまりの虚しさに涙も出ない。生きる意味を見出すことができない。このまま生きていてもただ孤独を味わうだけの人生にしかならない気がする。
 空虚の原因は分かっている。
 愛するひとを失ったから。
 その人はまだ生きている。でも愛するひとではなくなった。生まれて初めて、と自信を持って言えるほどに強く愛していた。だからその反動として、その気持ちを喪失した今、抱く空虚の深さと濃さは形状しがたく、寄って立つ場所を失った乳幼児さながらに、もうどこにも行けない、行きようがなくなっていた。ただ、ただ、自分の人生の価値を見失った。存在する意義も同時に喪失した。
“もうどうでもいい、何もかも”
 彼のいる独房の厚く重い鉄扉が突然カチャリと音を立てた。どうやら鍵が開かれたようだった。
 獄舎の鍵はどの部屋も電気式で施錠される。実際に扉の前で看守が操作しても解除はできるが、看守室で、一括で解除できる仕様になっていた。タカシのいる独房の周囲に人の気配はなかった。だから看守室からの操作で開錠されたようだった。ただ、それもタカシにはどうでもいいことだったが。
 タカシはそのままベッドの横に座っていた。扉の鍵が開いたとしても、どこにも行くあてはないし、行く意味も見出せない。ただ彼が本来いるべき現実世界に帰ることだけを望んでいた。
 ここはリサの自我の中、いくら目を背けたとしても、いくら耳を塞いだとしても、すべての物、すべての匂い、すべての音がリサによって生み出されたもの。だから目や耳や鼻に入るすべてのものに、リサを感じてしまう。その脳裏の奥深くまで潜り込んだ記憶の残滓が、彼の精神をじわりじわりとむしばみ、虚しさという響きが身体を小刻みに震わせていた。気温が低いわけでも、体温が下がっているわけでもない。でも身体の底にあったはずの温もりが、いつしか溶けてどこかに消えてしまったようで、心理的な冷えが身体の芯から感じられた。
「凪瀬タカシ君、お待たせして申し訳ない。少し身支度に時間が掛かってしまってね」
 タカシの真正面から聞き覚えのある声が聞こえた。彼は生気のない目を上げた。そこにはルイス・バーネットが一部の隙もない様子で立っていた。その腕も他の傷もすっかり回復しているようだった。気力の充実した様子で微笑みをたたえた顔を彼に向けていた。
「さあ、行こうか。人生は何もしようとしない者には長く、何かをしようとする者には短い。私は君が後者であると信じたい。だから時間を何よりも大切にしないといけない。こうしている間にもはかなくも短い人生の流れは絶えず流れつづけているのだよ。さあ、行こう。君がいるべき現実の世界に帰ろう」
 ルイス・バーネットが彼に向かって手を差し伸べていた。彼も自分の手をゆっくり差し出した。これでやっとこの世界から抜け出せる・・・。しかし一瞬、彼の手が止まった。このままこの世界を出てしまうことへの一抹の抵抗感が、彼の心を横切った。
 重い扉がゆっくり開かれた。室内の淀んでいた空気に、少し冷たい気が流れ込んできた。二人はその方向に顔を向けた。そこにはHKIー500を構えた看守の姿があった。二人の姿を認めたとたん、少しニヤリと笑った気がした。引き金に掛けた指が微かに動いた。
「動くな!」
 とっさにルイス・バーネットが命じた。看守は動きを止めた。指先さえピクリとも動かなかった。
「危なかった。この牢獄は時間外の面会が見つかったら銃殺されるのかい?ともあれこんな物騒なところは早々に退散するに限るね。さあ行こう」
 再びルイス・バーネットが手を伸ばそうとするのと同時に、固まった看守の口から、うー、という低音の、言葉ともうなり声とも警報とも聞こえる音が漏れ出してきた。それは息継ぎもなくつづいた。うーーーーーーーー。
 看守の背後の廊下から何かが集まってくる気配がする。空気の質が一変したように緊張感が独房の中に流れ込んでくる。一歩ずつ確実に急ぎ足で歩を進める人の靴音、獣が集団で獲物を追いつめようと走る足音、何かが空気を割いて飛んでくる音。多量の何かがこちらに向かっている。ここは深層牢獄、通路の最も端にある重要犯罪者を収監する独居房である。逃げ道などどこにもない。
 すぐにでもタカシの手を取りこの世界から脱するべきとは思ったが、人の精神世界を行き来する者の鉄則として、人の霊魂に出入りする場合、極力、移動は慎重を期さないといけない。狙った場所に確実に移動できる時と場所を確保しなければならない。移動する瞬間に邪魔が入れば思わぬ世界に入り込んでしまうかもしれなかった。だからルイス・バーネットは状況を把握するべく、ただその何かがやってくるその時を待った。
 それは待つほどもなく、ごく素早く訪れた。
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