廃墟の中(8)

文字数 5,581文字

 彼らが地下通路入り口を目指して移動していた頃、タカシが生じさせた黒い霧が、その上昇を終結させようとしていた。
 彼らはまったく気づいていなかったが、その上昇は一か所だけではなく、薄暗い曇り空に紛れて、この街の各所で起こっていた。タカシが起こした上昇がきっかけとなって、街のいたる所で黒い霧が立ち上っていた。街中にあった円盤という円盤が、霧となって空へ昇っていったようだった。そして、そのすべては一点に向かっていた。先に彼が鳥だと見間違えていた、上空の黒い点に。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。方向はおおよその見当がついているので、大きく外れていることはないはずだったが、いっこうにアトリの見覚えのある場所に達することができなかった。アトリは申し訳なさそうに後をついてくる。廃墟と化した街に精神を侵食されたためか、次第に潤いをなくしていく意識が、迷いと焦りを生み出していく。
 次々に新しい角を曲がり、新しい道を歩いていく。周囲の場景から方向を修正しながら、また新しい角を曲がる。新しい道を進む。ただ、歩き続けるしかない。
「あっ、ちょっと待ってください。あれはおそらく宮殿です」
 アトリが右手に伸びる道の先を指さしていた。そこには中央に尖塔を有する白亜の石造建築物が建っていた。周囲の建造物と比べても、それほど高くなく大きくもなかったが、遠目にも立派な造りに見えた。ただ住人がいなくなって久しいせいだろう、どこか寂しげに見えた。
「この宮殿の真北に地下通路入り口があるはずです。あっちの方向に行けばあるはずです」
 彼らはアトリの指し示す方へ向かって、再度歩きはじめた。
 しばらく円盤との遭遇もなく、行く方向もはっきりしたので、二人とも少しばかり安堵感に包まれていた。そのせいかまたアトリは訊きたがり、話したがった。
“選ばれし方様のお力は、どうやって身に着けたんですか?”
“ケガレを倒す時、いったいどんな感覚なんですか?”
“今までどこにおられたんですか?”
“どうやってここまで来られたんですか?”
“あの空飛ぶ女の人はいったい何者なんですか?”
“あの女の人はどうやって姿を消したんですか?”
 アトリの質問は尽きることがなさそうだった。しかし答えられる質問ばかりでもなかったし、周囲への警戒心を解いたわけでもないので、タカシはどの質問にも適当に短く答えていた。一通りの質疑応答が終わると、アトリは急に真剣な顔つきになって、ポケットの中からメモ帳とペンを取り出して、歩きながら何かを書きはじめた。
 やがて書き終わると、小さく折ってからタカシに差し出した。
「もし、地下にたどり着く前に僕の身に何かあったら、これをイカルってヤツに渡してください」
「イカル?」
「ええ、僕の親友です。この手紙を見せたら、きっと力になってくれます。そういえば彼はちょっと選ばれし方様に似ています。外見というか雰囲気というか。きっと仲良くなれると思います」
「そうか。分かった」
 タカシはそう言いながら落とさないように、その紙片をズボンの尻ポケットの奥に押し込んだ。
「それから、先ほども言いましたが、ケガレに襲われると、脳を支配されて苦悶と苦痛にさいなまれながら死んでいきます。先ほど見た仲間のように。でも僕は絶対に笑いながら死んでいきます。苦悶の表情なんて誰がしてやるもんですか。だから、もし僕に何かあったら、イカルに、アトリは笑ったまま死んだ、と伝えてください」
「そんな縁起でもないことを言うなよ。もうすぐ入り口にたどり着くんじゃないのか。なんだってこのタイミングでそんなことを・・・」
 アトリはニヤリと笑った。それが何を意味するのかタカシには分からなかった。
「ケガレの本体はとても大きくて、とても強いんです。さっきの円盤なんてその本体から分離した細胞のようなもので、本体に比べたらほんの一部ですらないのです。その本体は確かに思考を伴って動きます。執念深く、絶対に迷わないし、あきらめない。ただ意志に従って動くのです。そんな奴が選ばれし方様の存在を知った今、このまま私たちをすんなり地下に行かせるわけがないんです。どこかでタイミングを見計らっているんです。ケガレは純粋に残忍で、狡猾です。私たちが一番絶望を感じやすい場所、時、状況をいやらしく見計らっているんです。だからもうすぐ現れる、そう思います」
 本当に縁起でもない、アトリは俺が知らないと思って、怖がらせてからかおうとしているんじゃないか、タカシはそう思いながらも、少し速足になりつつ先に向かって歩を進めた。
「あ、あそこです」
 アトリが道の先、建物の尽きる場所から少し高台になっていく辺りを指さして言った。
 ここまでの道のりは、思ったより遠かった。彼は大通りの真ん中に立ち、大きく安堵のため息を吐いた。 
 その刹那、背中に悪寒を感じた。続いて背後からの圧迫感。
 全身総毛立つような胸騒ぎを覚えた。ゆっくりと首を巡らし、自分の肩越しに後ろを見た。
 空が黒かった。それは夜の暗さではない。雨雲のものでもない。そういった自然の理に基づくものではない。もっと意志を感じる色合いだった。嫌な予感しかしなかった。
 その黒い空から大地が鳴動するかのような、ごおお、という大音声とともに突然一陣の風が襲いかかってきた。いっさいの妥協もないほど乾いた風が、すべてをなぎ倒さんばかりの圧力をともなって飛んできた。彼はその圧力に足を踏ん張ってただ耐えた。周囲の、人に見捨てられて傷み荒れ果てた建造物たちが、地を揺らしながら次々になぎ倒されていく。
 とてもあらがいきれないほどの力が迫っていることを、はっきりと感じた。恐怖が全身に逃げろと命じていた。すぐさまアトリに声を掛けて、黒い空とは反対方向、地下入り口のある方に逃げた。しかしどれだけ走っても脅威が追ってくる。周囲のものすべてがその姿を壊しはじめていた。
 前方のビルの屋上にあった巨大看板が風にあおられて空に舞い上がった。かと思うと方向を変えて一気に彼らを目掛けて落ちてきた。気づいた瞬間、とっさにタカシはアトリの上着の肩口をつかんで左手にあった細い脇道に飛びこんだ。巨大看板は地上すれすれの所で更に吹かれて飛んでいった。
 彼は、両手を広げれば両側の壁にふれられる程度の幅しかない、その脇道を奥へと進んだ。先ほどまで鉄筋コンクリート造りの建物ばかりだったが、奥へ進めば進むほど建物の背は低くなり、素材も赤土を固めて積み上げたような、デザイン性の排除された簡素な建物になっていった。
 息づかいは荒く、肺が破れてしまいそうだった。振り返らなくても巨大な力が背後に急速に迫っていることが気配で分かる。現在のような状況でどこへ逃げればいいのか、避難するような場所があるのか、そんなことも分からずただ逃げるしかなかった。時の経過とともに焦りが募っていく。
「こちらです」
 突然、アトリが走りながらタカシの横に並び、そして右側にある細い横道に曲がった。
 光が届かず、湿り気が留まり、淀んだような空気がただよっている横道だった。
 足元には雑多なゴミや瓦礫が落ちていた。それを飛び越え、蹴りながら二人はなおも走った。背後で圧倒的な力を有する風が、あらゆるものと衝突して大地や大気を鳴動させた。両側に迫る建物の壁が揺れる。崩れ落ちてきそうで不安に駆られる。呼吸はなおも荒くなり、胸がはちきれんばかりだったが、休む気にはなれない。すぐにもこの横道を出たかった。
 そして少し明るい通りに出た。
「あっちです」
 アトリはそう言いながら右側に進路を向けた。
「あそこです」
 アトリが指し示す方向には少しの高台があるが、その一部が崩落してくぼみをつくっていた。
 もちろんタカシは知らなかったが、そこには十年前、地下に通ずる通路の入り口があった。しかし地上の住民が地下に移住した際に、ケガレが地下世界に侵入してこないように、濃縮したエネルギーを詰めた爆弾を使用して破壊したのだった。
 アトリは懐の中身を、服の上から手をあてて確認した。その爆弾がそこにはあった。不測の事態に備えて身につけていた。
 この爆弾は、十年も前に製造されてから、地下世界では必要性を求められなかったために、新たに製造されることはなく、今回、アトリが持ち出してきたものも十年前に製造され、エネルギーを抜いた状態で保管されていたものだった。それを隠密裏に拝借してきたのだった。もちろんそのこぶし大の中には時間と手間を掛けて、濃縮した大量のエネルギーを充填してある。爆発性がいちじるしく高く、かすかでも空気にふれればとたんに爆発する。アトリはそんなものを身に着けている緊張感を改めて噛みしめた。
 もうすぐ高台のくぼみにたどり着く、という所まできた時、急に熱を帯びた突風が彼らに襲いかかってきた。
 足を踏ん張っていないと飛ばされそうだった。一歩進もうとするたびに、更に風が吹いてくる。まるで風自体が意思を持っているかのようだった。
 タカシは風の吹いてくる方に目をやった。
 巨大な黒い固まりが空をおおうように宙に浮かんでいた。その中心部分に二つの赤い点、そしてその下に大きな口が開いていた。その口から、ごおおおおお、という生き物の生命に宿る活力を、根こそぎ萎えさせてしまいそうな不気味で低く重い音が、周囲のすべてのものを震わせながら彼らの方へ向かってきた。
「あれがケガレの本体です」
 タカシはあまりの場景に一瞬、呆然自失としていたが、そのアトリの声に、急に恐れを感じはじめた。円盤や人型のケガレは退けることができたが、これはダメだ。これは俺の手にあまりすぎる。そう感じざるを得なかった。
「さあ、早く行きましょう。入り口はもうすぐです」
 彼らは再び走りはじめた。そのとたん、黒い固まりの一部が、彼らに向けて伸びてきた。それは途中、近くの建物に接触し、なぎ倒し、破壊しながら、尚も彼らの方へ伸びてきた。破壊された建物の残骸が風に飛ばされて彼ら目掛けて飛んでくる。
 タカシは足を踏ん張りながら歩を進めていたが、瓦礫や木片が彼らの方へ勢いよく飛んでくる様を見て、無意識に回避しようと身構えた。そのとたん、風にあおられて上体が浮いた。そしてそこに瓦礫が砲弾のような勢いで飛んできた。
 彼は額の上側に衝撃を感じた。頭の中に鈍く重い音が響いた。意識が急に薄くなった。彼はそのまま地に倒れ込んだ。
「選ばれし方様!」
 目の前にアトリの顔が見える。その姿が赤く染まっている。アトリだけではなく周囲のすべてが赤い・・・。少しの間を空けて、タカシは自分の額から血が流れていることに気がついた。
 赤い世界、その中でも、黒い固まり、ケガレの本体だけは、やはり黒いままだった。その本体から伸びてくる幾本かの手も黒かった。
 意識が朦朧としていた。目の前の場景が現実のものだという実感がなかった。夢の中の状景をただ眺めている、そんな感覚だった。同時に自分の身体が引きずられている感覚も薄っすらと感じていた。
 アトリは、片手でタカシの上着のえり首をつかみ、もう一方の手で懐からエネルギーの詰まった爆弾を取り出し、ケガレの触手に向けた。一瞬、ケガレの触手が動きを止めた。そのまま、アトリはくぼみの横にあった地下通路入り口のそばまでタカシを引きずっていった。そして、足元にあるマンホール大のコンクリートのフタを横にずらした。
「さあ、早く中へ!」
 叫ぶような声だった。タカシは気力を振りしぼって、その穴の中に身体を入れた。入り口から下に伸びる縄ばしごをつかみ、気を失いかける自分を何とか奮い立たせながら一段々々下りていった。何段か下りた所で、タカシは頭上を見上げた。アトリの姿がなかった。
 タカシはもう自分には、はしごを上っていく余力がないこと感じていた。だから声を振りしぼった。
「アトリ・・・アトリ」
 すると頭上の丸い空にアトリの顔がひょこっと出てきた。
「すぐに行きます。先に下りておいてください」
 アトリの顔が消えた。
 顔をひっこめてからアトリはこれからどうするか悩んだ。
 実際、彼は今、困っていた。爆弾に備え付けられていた発火装置がうまく起動しなかった。地上に来る前にためしに一度、起動させていた。その時は支障なく動いたのだが、今は電源すら入らない。やはり十年も前に製造されて、そのまま放置されていたために不具合が生じてしまったのだろうか。これでは起動させて逃げるまでの時間を稼ぐ、ということができない。
 先ほどは爆弾というよりも、中に充填されている特殊なエネルギーの存在に、抵抗を感じて動きを止めていたケガレの触手も再び動き出し、もうすぐそこまで伸びてきている。このままでは逃げたところですぐに追いつかれてしまう。それどころか、地下世界への侵入まで許してしまうことになる。
「アトリ・・・アトリ、早くこい」
 また声が聞こえた。アトリはその声で覚悟を決めた。選ばれし方様を守る。そのために僕はここにいる。そんな気がしていた。そう思い込もうとした。
「選ばれし方様、どうかお方様を、地下にいるみんなを救ってください。お願いします」
 そう言うアトリの顔は、満面の笑みをたたえていた。
 タカシは察した。だから額の痛みに耐えながら、遠ざかりかける意識を必死につなぎ止めながら、はしごを上りはじめた。
 アトリは片手にナイフを持った。もう片方の手に持つ爆弾にはエネルギーがははちきれんばかりに詰まっている。少し穴を開けるだけでいい。そうしたらすべてがうまくいく。アトリはナイフを持つ手を振りかぶった。

 頭上が一瞬激しく光った、と思う間もなく凄まじい衝撃が周囲を圧した。タカシははしごから振り落とされ、そのまま暗闇の中へ落ちていった・・・
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